《前編》 より

 

 

【恋と鯉】
 古来、花といえば「さくら」、鳥といえば「雉子(きぎす)」、魚といえば「鯉」のことです。ところで、恋という魚は、なぜ“こい”というのでしょう。鯉と恋は関係あるのでしょうか。(p.157)
 あるとき、天皇が美濃の国で美しい女を見初めたけれど、竹林に隠れてしまったという。そこで池に鯉を放ちエサをやり楽しんでいると女は一目見たくて出てきた。
 このときより鯉は、“恋”をかなえた魚“こい”と呼ばれるようになったのです。(p.157)
 安っぽい作り話みたい思えるけれど、大和の作法を継承している著者が嘘を書く筈などない。(この話の出典は書かれていない)
 伊勢神宮など、格式ある神社には必ずと言っていいほど鯉が放たれた池があるものだけれど、こんな話しか知らない人は、「神社の鯉って、ナンパ成就のためにいるの?」なんて思ってしまうかもしれない。鯉さん、池のいちばん深い所で固まってしまうかも・・・。
 登龍門のお話みたいに、神さまのお使いとしての龍は現実界では鯉に宿って待機してくれている。

 

 

【九九算来八十二】
 「9×9=81なのに、なんで82やねん」と思ってしまうけど、計算できへんアホなこと言わはっとるのは道元さん。
 “九九算来八十二” とは、道元禅師の言葉ですが、“いざ”というとき九九算来八十二の力を出せば、なんであろうとできないことはない、と言っているのです。・・・(中略)・・・。 「捨身」を道元禅師は、“九九算来八十二“ と言っているのです。(p.159-160)
 重陽の極を越えるほどのスーパー・テクニック。
 「計算づくのアホは、身を捨てて死んでまえ」と言っている。

 

 

【ちゃちほこ】
 床に飾られる青磁の花入れなどの飾り耳としてついている魚で、上を向いているのは鯉、下を向いているのが鯱というのが古伝です。
ところで、「ちゃちほこ」という言葉はどうしてできたのでしょう。じつは“立尾魚(たちをこ)”が転じて、このように言われるのです。「たちをこ」が「しゃちほこ」となり、略されて「しゃち」と呼ばれます。 (p.163)
 名古屋城のテッペンで尾を天に向けている「ちゃちほこ」君には、火災除けの意があるという。燻されたら「熱いやんけ!」と言いながらオシッコで消化するのかも。

 

 

【「気」ではなく「たましい」】
 ところで、「気が抜ける」「気を入れ換える」「気を入れろ」「気に合う」などと「気」の言葉はたくさんありますが、この「気」とはなんでしょう。「気」というとやはり中国的。私たち日本人(やまとびと)にとっては、「たましい」というほうが正しいのです。(p.171)
 たしかに。

 

 

【都人にとって、お山とは・・】
『伊勢物語』第九段にあるように、日本一の山・富士山も、
「比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほどして・・・」
 と、富士山の高さを比叡山の基本的イメージをもとに表現しています。
都人にとって、お山は即、比叡山なのです。
 京都洛北円通寺は、この比叡山を借景とした苔むす庭として有名なお寺です。三百数十年変わらずに、比叡山のいちばん美しい姿を見せています。(p.202-203)

 

 

【大和的】
 日本人(やまとびと)の調子に合ったとき、そのものは『大和的』となっているのです。ですから古いものばかりでなく、新しいものにもたくさん『大和的』は存在し、これからもどんどん誕生してくるのです。(p.195)
 『大和的』とは、本の横帯に示されているように、自然(あめつち)と結ぶための生き方。当然のことながら繊細な感性を有する日本人ならではの生き方なのだけれど、海外からやってきた思想ですらも、すべからく日本神霊界の繊細さに感化されて“品がよく”なってしまうのである。
   《参照》   『もう朝だぞ!』  友常貴仁  三五館
            【聖徳太子の本質と、日本列島に宿る神々の魂霊】

 思想のみならず海外で生まれた製品についても同様である。日本人の好みに合わせることで『大和的』となり、それらは必然的にさらに高品質な製品となって数多海外へ逆に輸出されるようになっている。
 世界が戦争(軍事力競争)とか経済戦争(価格競争)とかいう低次元のあり方から脱して、本当に良きものを求めるようになるなら、そのときこそ全ての『大和的』なるものが、自ずと世界へ向けて拡散して行くようになることだろう。