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 政治的な側面で日韓関係に興味を持っている人でも、意外に浅川巧のことを知らない。チャンちゃんの場合もその例に漏れず、浅川巧のことを初めて知ったのは、日韓政治経済の問題に飽き飽きして、たまたま陶磁器に関する著作を手にした時だった。この本は、つい最近、古書店で見つけたもの。
 著者は、浅川巧が生まれた山梨県高根町(現:北杜市)の中学生。地元の浅川巧に関する資料館の設立に関わった人々や、韓国を訪問したときに出会った人々を取材して書かれている。2004年6月初版。

 

 

【浅川巧の人間性】
 浅川巧は、併合下の韓国で、営林署の職員として働いていた。
 『朝鮮の土となった日本人 - 浅川巧の生涯』(高崎宗司著、草風館)の中に、朝鮮人の同僚の話として、次のような話が載っています。
 浅川氏は、韓国語を非常にじょうずに話し、常に韓国語で話した。 ・・・(中略)・・・ 韓国人同僚に対する態度に差別はなく、日本人同僚から 「あなたは韓国人か」 と悪口をいわれ、迫害されたほど、韓国人を愛した。それだけでなく、彼は朝鮮服を好んで着て、夕方にはパジ・チョゴリの木履をはいて帰った。(185ページ)(p.18)

 奥さんはわざわざ高く買う夫の行為にほほえんだ。彼の所へは時々人知れず台所に贈り物が届けられた。みな貧しい朝人(朝鮮人のこと。当時この呼び方には差別的な感じがあった)達の志の表れだった。朝鮮人は日本人を憎んでも浅川を愛した。(188ページ)(p.20)
(巧が残した)日記を読んでいくと、浅川巧が朝鮮に対してどんなに愛情と理解の心を持っていたか、また、日本の朝鮮政策や、日本人の朝鮮に対する認識をいかに批判的に見ていたかよく分かります。(p.52)
 日本人は支配者の側だったから、差別的な態度を採る人が多かったのは確かだろうけれど、そんな環境下にあっても朝鮮人を差別しなかった巧の人間性の原因としてクリスチャンであったことが考えられるだろう。しかし、巧のような日本人男性だって他にもいたのではないだろうか。ましてや日本人女性であれば、同じ人間として朝鮮人と同等に接していた人々は少なくなかったはずである。敗戦で日本人が帰国することになった時、互いに涙ながらに別かれてきた人々だって大勢いるのである。差別だの暴力だのと言われていることが多い中で、それとは違った状況があったことは、 『生活者の日本統治時代』呉善花・著(三交社) という上掲の著作の中にかなり詳細に記述されている。自分で購入してきちんと読むように。
 
 
【日本人は本当にひどいことをしたのか】
 著者は韓国を訪れ現地の人々のインタビューをおこなった経験から、
「日本人は本当にひどいことをしてしまったんだなぁ」 と心から思いました(p.136) 
と書いているのだけれど、少し韓国の洗脳教育の結果に巻き込まれすぎていやしないだろうか。戦後の韓国では、親日的な発言をしただけで、職を失い家族が生活に困窮するという状況が長らく続いてきたのである。本書の初版年(2004年)からすれば、十分その期間内である。今日でもその傾向が無くなっているとは言えないだろう。
   《参照》   『挑戦的平和論 (上巻・下巻)』 小林よしのり (幻冬舎)
               【慰安婦問題】

 チャンちゃん自身、戦後50年以上過ぎていた2000年頃に日本に来ていた韓国の30歳前後の青年達に多く接していたけれど、日韓併合時代を直接経験していない世代の彼らが、まさに慟哭する様子で真っ赤な顔をして 「日本人は酷い」 と言っていたのである。これは洗脳教育の成果であって、当時の日常生活者の平均的な事実を意味しているものではないだろう。当時の日常生活者として暮らしていた日本人たちが、相手が慟哭するほど酷いことをしていたなんて、普通の日本人の生活感覚として信じられるだろうか。
 今回の東北大震災時に遭遇しているさ中であっても略奪が起こるどころか、その秩序だった被災者達の様子が報道されて世界中が驚くほど、日本人は安定的に秩序を維持できる優れた民族なのである。サンフランシスコ大地震の時は、日本人が経営する店舗は略奪されなかったのに、韓国人の経営する店舗が集まる地域は集中的に略奪されていたのである。
 下記のリンクを辿って、海外における、「日本人」と「中国人・韓国人」に対する人間性評価は、大きく違っているのだということを、きちんと理解しておくように。邪悪な者ほど、相手を邪悪視するものだということを、よくよく心得ておくように。
           【アラブ諸国の中・韓と日本に対する見方の違い】
           【アラブ諸国の韓国評価】
 なのに、当時の日本人は朝鮮人に対して36年間酷いことをし続けていたいと、日本人が信じる方がおかしいだろう。政治的なレベルで併合当初苛烈な面があったのは事実であるけれど、政治レベルと生活者レベルを即座に同じと思い込んで考えるのは、知の未熟さの現われである。これについては下記リンクのコメントに、具体例として記述している。
   《参照》   『数値力の磨き方』 野田宜成 (日本実業出版社)
              【数値を意識する】

 著者は未熟な中学生だから、「日本人は邪悪な事をした」と考えるのも仕方がないことだけれど、大人になっても公(政治・理性)と私(日常生活・感情)を分けて歴史問題を語れないのならば、みっともないから語らない方がいい。

 

 

【事実誤認】
 日本は、「日本語常用」 や 「創氏改名」 などの政策を強制しました。(p.91)
 著者の理解としてこのように書かれているけれど、 「創氏改名」 を強制したというのは完全なる事実誤認である。
 中学生の記述なのだから、それに関わった教師など複数の人々が内容を読んでいるはずだけれど、周辺の大人たちはそこまで不勉強な人間ばかりなのか。こう言う記述を放置して出版にまで協力する大人の杜撰さあるいは悪質さには心底辟易するものである。
   《参照》   『日・中・韓 新三国志』 古森義久・黒田勝弘 (徳間書店)
            【これが心理学的に解明できる韓国人の実像である】
               ~【創氏改名について】

            【「創氏改名」は差別か?】

            【朝鮮人が「創氏改名」を差別と言いたがる理由】

            【台湾と朝鮮の「創氏改名」手続き】

 

 

【浅川を評価する2点】
 浅川巧を評価するのは、職業とは言え朝鮮の山野に緑を蘇らせたこと。そして、当時の朝鮮人の生活道具のお膳や陶磁器を評価し朝鮮文化として記録に残したこと。この2点である。
 差別が普通だった韓国併合下にあっても、当たり前の人間として差別なく行動していたのは、先に書いたように、決して浅川巧だけだはなかった。皇室から嫁がれた方子さまを筆頭に、少なからぬ日本人女性達もそうしていたのである。
   《参照》   『日韓皇室秘話 李方子妃』 渡部みどり (読売新聞社)

 

 

【環境緑化と韓国文化への貢献】
 当時、朝鮮の山には、緑が少なく禿山がたくさんありました、それはオンドルなどに使うために樹を乱伐していたからです。そこで巧は、「禿山の利用問題に就いて」 を発表しました。巧みの林業に関する調査研究は多方面に及び、山を緑にするための大きな力となりました。 ・・・(中略)・・・ 。
 林業技術者・浅川巧は、環境保全と山林緑化におおいに貢献しました。(p.114)
 下記は著者が韓国を訪れた時、ガイドをしてくれた女性の発言。
 「朝鮮人でさえ、陶磁器やお膳など、生活に必要なものとしか思っていなかったものを、巧は文化としてみてくれて、朝鮮人に同化してくれた人だ」 と語ってくれました。(p.136)
 さらに、学芸員の発言。
 広州朝鮮官窯博物館学芸員の康在永さんは、私がインタビューを申し出ると、巧の著書 『朝鮮の膳』 『朝鮮陶磁名考』 をわざわざ持ってきて、それを前に置いて話してくださいました。巧は前から知っていたが、「最近その著作を読んで柳宗悦よりも理解が深い」 と思ったそうです。「柳宗悦と比べ、巧は朝鮮に住んで、その文化に慣れ親しんでいる。イラストや実践的なものが多いので、それは大事なことだと思う」 と言っていました。(p.137)

 

   《朝鮮陶磁器関連》
   《参照》  『姜尚中対談集 それぞれの韓国そして朝鮮』 (角川学芸出版)
           【韓国人にとっての白】
   《参照》  『韓国人のまっかなホント』 金両基 (マクミラン・ランゲージハウス)
           【柳宗悦】
           【 「アイゴ」 と叫び慟哭する韓国人】

 

 

<了>