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 手塚さんは89年に亡くなったけれど、本書は、未完のままだったものがその後に出版されたもの。日本アニメの魁としての第一人者だから、日本人で手塚さんの漫画をまったく知らない人なんて絶対にいないだろう。どのような思いでそれぞれの漫画を描いていたのかが記述されている。10数年ぶりの再読。1996年9月初版。

 

 

【当初、 『鉄腕アトム』 は批判された】
 思えば、 『鉄腕アトム』 を描き始めた昭和26,7年ころは、ものすごい批判が教育者や父母から集中し、「日本に高速列車や高速道路なんて造れるはずがない」 とか、「ロボットなんてできっこない」 とか、「荒唐無稽だ」 などと大いに怒られ、「手塚はデタラメを描く、子どもたちの敵だ」 とまで言われたほどでした。(p.14)
 昭和26年といえば1951年だから、戦争の壊滅的被害状況が、都市部にはまだ残っていた頃なのだろう。それにしても、この批判内容は、今日からすればかなり意外である。

 

 

【生命の尊厳】
 批判の嵐の中でも、我慢しながら描き続けることができたのは、たとえロボットの激しい戦いを描いていても、ぼくは自然に根ざした “生命の尊厳” を常にテーマにしてきたからだと思います。(p.15)
 このテーマは、手塚さんが最後までこだわって描き続けた 『火の鳥』 にまで一貫して続いていた。
   《参照》   『手塚治虫の大予言』 九頭海龍朗 平凡社
              【 『火の鳥』 への手塚治虫の拘り】

 アニメ作家であれ小説作家であれ、時代や時を越えた意識でそれをなしている人々に共通するのは、 “生命(魂)の尊厳” というテーマだろう。
   《参照》   『心ゆさぶる平和へのメッセージ』 村上春樹 (ゴマブックス)
 『鉄腕アトム』の中で、 “生命の尊厳” という大きなテーマは、以下のように表わされていた。
 『鉄腕アトム』 で描きたかったのは、一言で言えば、科学と人間のディスコミュニケーションということです。 ・・・(中略)・・・ 疎外感、哀しみといったものをビルの上に腰かけているアトムで表わしたつもりなんですが、(p.29)
 しかし、
 そういうところは全然注目されず、科学の力という点だけ強調されてしまった。たいへん残念でなりません。(p.29)
 作者の意図と離れてどう解釈されるかは、見る者の裁量に任されしまうことだから、どうしようもない面がある。しかし、アニメの主題歌は、「心やさしい、科学の子・・・」 と歌っていたと記憶している。制作会社がすでに発展する時代に合わせて、勝手に偏向した解釈をしていたのである。
 このような作為を経て、大衆は、生命の尊厳も、地球はガラスのように脆いものであることも、意識しなくなっていったのである。
 自主的に、生命の尊厳と生きるということの価値を情報によって子どもたちに与える態度をとることが、ぼくたち大人が高度情報化社会に対する何により心構えではないかと思います。(p.113)

 

 

【マンガ本を読み聞かせてくれた母親】
 母がマンガ本を僕に読んで聞かせてくれたことも大きく作用しています。今日では親が子に本を読んで聞かせることの大切さが言われて、本を読んでやる親もずいぶん多く、ごく普通のことでしょう。
 でも、50年も昔に、子どもにマンガ本を読み聞かせるという母親なんて、相当変わっていたのではないかと思います。しかも、その読みっぷりたるやじつにケッサク。登場人物を全部、キャラクターごとに声色を使い分けておもしろおかしく演じるように読んでくれるのです。ぼくはもうワクワクしたりハラハラしたり、感きわまって泣きだしてしまったりと、じつにすばらしい読み手でした。(p.40)
 手塚さんの母親のように読むことは、聞き手にとって効果的であるばかりか、読み手にとても効果的なはずである。演劇を鑑賞するのではなく、舞台で演じる側になりたいという人の心理には、別の人格になりきることによる解放感があるはずである。
 多様な人格を演じることができない人は、常識と言う閉塞空間に幽閉されたままその自覚すらない、いわば脳死した人なのである。  
 『アサッテの人』 感覚なき脳死人が社会の大多数を構成するようになると、その社会の文化は必ずや衰退してゆく。
 手塚さんの漫画には、実に様々な際どい人物や状況が描かれているけれど、このような作品を批判する人と言うのは、大抵が際どい紙一重の領域に咲く花の美しさを理解できない愚者、すなわち文化を窒息させ衰退させる常識人(!)なのである。

 

 

【乾(イヌイ)先生の作文指導】
 乾先生のおかげで、ぼくは人生に光明を見いだしたようなわけです。 ・・・(中略)・・・ 文章は下手でも字はメチャクチャでもいいから、とにかくたくさん書きなさいというのです。(p.44)
 こんなふうに、ぼくは作文を書くことによって、お話を書く、作ることの楽しさ、つまり、ストーリーテリングの面白さを教えていただいたわけです。(p.45)
 マンガ家の才能って、絵の才能と思いがちだけれど、実質はストーリーテリングの才能に多くを依存している。絵の勉強をしているだけなら、絵コンテ制作の下働き止まりだろう。里中満智子さんにしても、ストーリーテリングが大好きだった子供時代が先にある。
   《参照》   『里中満智子』 杉山由美子 理論社
            【小学生のストーリー・テラー】

 

 

【アストロボーイ】
 アメリカで 『鉄腕アトム』 を放映していたNBCの国際部長との会話。
「たいへん子どもが夢中になっている。鉄腕アトムをアストロボーイと名付けたのは、じつはうちの子どもなんだ。アストロボーイはたいへんいい名だ」
 なんて自画自賛するわけです。
「なんで、アトムじゃいけないんですか」
 と聞くと、アトムはスラングでオナラの意味だというんです。それは知らなかったと大笑いになりました。(p.117-118)
 日本名にこだわって主張したくても、 『鉄腕オナラ』 じゃあ、やっぱりブッ飛んじゃう。
 英語では、音の連想から爆弾系列の単語はオナラの代用になっているらしい。ちっちゃいオナラが出ちゃったら、 “Sorry, I just clacked one.” って言えばいい、と帰国子女アイドルだった早見優ちゃんが 『好き! 英語優等生』 という本の中に書いていたのを覚えている。

 

 

【異文化のドッキング】
 異文化のドッキングは、一種の遊びの要素を含んでいます。日本人は、もっといろいろ遊びの中から、オリジナリティを見つけるくせを持つべきでしょう。(p.137)
 外国の味とのドッキングによって新しい味を生み出している食文化の例などが分かりやすいけれど、このような実例は、「へぇ~、そうだったの~~」 というくらい実にたくさんある。
 オリジナリティ(独創性)というのは、既存のものの様々な組み合わせから生ずると考えていた手塚さんの意見はまっとうである。
   《参照》   『クオリア立国論』 茂木健一郎 ウェッジ 《前編》
             【衆知を集めて独創性を生み出していく日本人】
 山を越え、海を越え、国境を越えてさまざまな人々と大いに交流しながら、たくさんの発見をしていきたいものです。他の国々にも学ぶことで自分の国や自分自身も、もっと見えてくるでしょう。(p.138)
 極東の島国・日本は、昔から世界中のさまざまな文化・思想・技術が流れこむ終着点だった。異文化や異質なものを蓄え学び続けてきたということの継続性・連続性が、世界で類例を見ない日本文化の複雑さ、奥深さとなっている。
 日本に誇りを持っている孤高な人々が、「もはや世界から学ぶことはない」 などと平気で言いかねないけれど、それは違う。そう言った途端に、日本文化の基底である継続性・連続性が絶たれてしまうのである。狷介孤高であってはならない。それは日本人としてあってはならない意見である。日本は世界の雛型となるべく、日本固有の核を中心として、世界中のすべてを組み込み内包しておくべきなのである。
 但し、異文化を受容することにおいて人為的な排他性を持たない日本文化ではあるけれど、日本神霊界が断じて受け入れなかった 「孟子の革命思想」 のような例外もある。
   《参照》   日本文化講座 ① 【 七福神 】
             □□□ 例外 □□□

 この事例から言えることは、親中外交はいいとしても、日本文化の背骨である天皇陛下を一方的に中国最高権力者の下とする小沢一郎の朝貢外交は、断じて日本神霊界の意に沿わない、ということ。
 権力の頂点に立つために、アメリカに媚びた次に、翻って中国に媚びる。そのためには天皇陛下ですら利用するような人物が、 「命をかけて日本を守る」 などと言っていたけれど、日本神霊界がどう動くか推して知るべしである。

 

 

<了>