著者が語る “アサッテ” とは “世界の外” の意味。 程度の差こそあれ、多くの人の中に “アサッテの人” は住んでいるはず。2007年7月初版。
【風狂な人】
たしかに叔父にとって決定的な転機だっただろう妻の死も、それが彼の風狂のすべての始まりだったのではないし、 ・・・(中略)・・・ 。(p.26)
一昨日、派手な色の背表紙が目に入ったというだけで、書評を読むことすらなく直観的に面白そうと思い、この本を購入しておいた。この部分を読んで、『狂の精神史』 を読んだことによる精神の余波、つまり潜在意識が、この小説を引きつけたらしいことに、思い至った。
【チューリップ男】
エレベーターの管理人をしながら、様々な人間模様を観察している中に、頭の上に両手でチューリップを作って目を閉じている青年がいた。この青年、この他にもいろんなことをしていた。
この心理は、チャンちゃんにも分かりすぎるほどわかる。
分からない人は、この小説を読んでも仕方がない。さもなくば、以下に気付け。
エレベーターの管理人をしながら、様々な人間模様を観察している中に、頭の上に両手でチューリップを作って目を閉じている青年がいた。この青年、この他にもいろんなことをしていた。
こんな彼でも、他人と乗り合わせているときは別人である。社交辞令も巧みそうな感じで、女子社員にも人気があるらしく見えた。僕の予想に反して、彼は社内では目立って堅物というわけではなさそうだった。
普段はそんな平凡な振る舞いを見せている彼が、箱の中でひとりになると、途端に 「チューリップ男」 に豹変する。この心理は、僕には分かりすぎるほどわかる。
彼は決して露出狂でも、二重人格者でもない。奇を衒ってあんなことをしているのではない。ましてや単にスリルを楽しんでいるのでもない。彼は、つまり、僕の言葉で言えば、世界の外、あの 「アサッテの方角」 に身をかわそうとしているのだ。(p.121)
この世に住みながら、しかも社会的生活を営みながら、「世界の外」 へ行くには “逸脱” しかない。都市文明の真っただ中の箱の中で、一人っきりの数秒間にぞんぶんに常軌を外れて逸脱する。普段はそんな平凡な振る舞いを見せている彼が、箱の中でひとりになると、途端に 「チューリップ男」 に豹変する。この心理は、僕には分かりすぎるほどわかる。
彼は決して露出狂でも、二重人格者でもない。奇を衒ってあんなことをしているのではない。ましてや単にスリルを楽しんでいるのでもない。彼は、つまり、僕の言葉で言えば、世界の外、あの 「アサッテの方角」 に身をかわそうとしているのだ。(p.121)
この心理は、チャンちゃんにも分かりすぎるほどわかる。
分からない人は、この小説を読んでも仕方がない。さもなくば、以下に気付け。
「チューリップ男」 はものの見事に逸脱し、姿をくらます。彼は真剣で、その目はまるで敵を前にした戦士のようだ。彼を嗤う者は、その前に自分の、常識に溺れきった凡庸さを嗤え。(p.122-123)
【アサッテ男】
しかし、異次元へいってしまいそうな超越感覚では、言葉によって綴る文学世界に係留しづらいから、「世界の外」 という表現にとどまらざるをえないような気がする。
自分の行動から意味を剥奪すること。通念から身を翻すこと。世を統べる法に対して、圧倒的に無関心な位置に至ること。これがあの頃の僕の、「アサッテ男」 としての抵抗のすべてだった。(p.132)
チャンちゃんにとっては、「意味を剥奪する」 というよりも、「意味が剥落して、世界の側が崩れ落ちて行け!」 というほうが感覚的に合う。その場合は、「世界の外に出る」 というよりは 「世界を超越する」 ということになるかもしれない。それでは 『アサッテの人』 ではなく 『シアサッテの人』 になってしまうのだろうか。しかし、異次元へいってしまいそうな超越感覚では、言葉によって綴る文学世界に係留しづらいから、「世界の外」 という表現にとどまらざるをえないような気がする。
【言動による逸脱】
チューリップ男は挙動によって逸脱をはかっていたけれど、叔父は言動による逸脱を目指していた。
会話の中で、アサッテを目指すなら、前後脈絡なく “ポンパ” とか “ポタンテュー” などと言えばいい。
チューリップ男は挙動によって逸脱をはかっていたけれど、叔父は言動による逸脱を目指していた。
会話の中で、アサッテを目指すなら、前後脈絡なく “ポンパ” とか “ポタンテュー” などと言えばいい。
アサッテはまるでその場の空間を歪ませるような異和を、文脈の中に投げ入れる。それは笑や、怒りや、悲しみや、それら喜怒哀楽という定式化された人間の感情を裏切り、戸惑わせる。そしてそのとき発話者である彼自身は、いわゆる場の踏み外しによって 「アサッテ」 の彼方へかき消えてしまっている。つまり、彼の標榜する身の翻しとは、その場を支配する予定調和的な文脈をふまえつつ、そこから完全に無関係な位置へ突き抜けることであった。(p.147)
【認識の木の実】
《参照》 『ブとタのあいだ』 小泉吉宏 メディアファクトリー
【わかったと思ったとき】
当時のまだ自覚されていないアサッテを、より好ましく思う。なぜなら、理性的と思われた 「自覚」 それ自体が、いま思えば一つの落とし穴だったからである。
自覚とは、叔父にとって悪しき認識の木の実に他ならなかった。(p.152)
言葉を用いて認識する者にとって、「認識した時」とは、即ち、「世界全体を捕らえそこなった時」なのだから、この背理は免れ得ない。自覚とは、叔父にとって悪しき認識の木の実に他ならなかった。(p.152)
《参照》 『ブとタのあいだ』 小泉吉宏 メディアファクトリー
【わかったと思ったとき】
【そのまんまを生きる】
語ることなき生来的な狂者は、世界の真実を知っているかもしれない。しかし、作為的な狂者には、のっけからその可能性がない。されど、生の覚醒を得ることは可能なのだろう。
定型の俳句で世界を捉えようとした芭蕉は、そのことに気付いていたのかもしれない。
《参照》 『狂の精神史』 中西進 (講談社文庫)
【芭蕉の風狂】
語ることなき生来的な狂者は、世界の真実を知っているかもしれない。しかし、作為的な狂者には、のっけからその可能性がない。されど、生の覚醒を得ることは可能なのだろう。
現実を覆う凡庸は、意識されることで鍛えられ、信じがたい耐えられなさを伴って、より 「定型」 に近付く。その定型の強度に対する生理的反動がアサッテを呼び込み、叔父に爆発的な生の覚醒をもたらすことになる。(p.156)
定型とは、いわゆるスプリング・ボード(跳ね板)なのである。型を自覚し押し込める事によってエネルギーが増す。しかしアサッテに行くには、型のスプリング・ボードを踏むのではなく、踏み外すことが必要なのである。定型の俳句で世界を捉えようとした芭蕉は、そのことに気付いていたのかもしれない。
《参照》 『狂の精神史』 中西進 (講談社文庫)
【芭蕉の風狂】
<了>