《前編》 より
 

 

【日本文化を成り立たせているもの】
 「静かさや岩にしみいる蝉の声」
 「蝉の声? 蝉って鳴くの? どんな声?」
 「先生、蝉って何?」
 これは私の教えているパシフィック大学で日本の文化を説明するときに引用した俳句の対するアメリカ人学生の反応。日本人なら何の説明もなく一様に蝉がどんな虫で、どんな声で、いつ鳴くか知っている。これが日本文化の共通性、同一性を象徴する一面。日本の文化はこういう共通の常識がアメリカなどに比べたらそれこそ何百倍、何千倍もある。
 信じられないかもしれないが、アメリカで、シェイクスピアと言っても知らない人はごまんといる。バッハなんて専門知識に等しい。(p.156-157)
 高度な文化が成り立つには、地理的にも風土的にも適正な規模が前提としてあるということ。日本文化の質の高さの多くは日本語に起因しているけれど、日本が島国であり、かつ国土が大き過ぎず小さ過ぎず適度であったことは重要な因子である。

 

 

【日本式知識の収集法と観光旅行】
 私の住むアメリカでも 「日本人は世界を5日で回る」 と日本の観光客の忙しさは有名だ。そして有名な場所を訪れた証拠となる写真は勲章としてアルバムに収められる。私はこの団体さんを見る度にこれは日本式知識の収集なのだと思わずにはいられない。広く、浅く、そして誰にでも知られているところは全て網羅しなければならないと思っている。日本の学校教育にそっくりではないか。(p.159)
 姉妹都市関係にあるアメリカ側の人々が日本に来ても、相手側の都市に滞在するだけ。
 日本に行ったからには、誰もが知る京都に行かねばというような意見は一度も出たことがない。 ・・・(中略)・・・ 大抵は、誰も聞いたことがないような小さな町を訪れるだけで十分なのだ。知的満足アメリカ型とでも言うべきか。(p.160)
 日本型もアメリカ型も、どっちもどっちだろう。
 最近の日本の若者達は、それほどパックツアーを選ぶケースは多くないらしい。しかし、中にはフリーパックツアーを利用しながら信じ難い旅に終わらせている者たちもある。自発的に行動しない調べもしない、単なる白痴型である。
   《参照》   『希望のしくみ』 アルボムッレ・スマナサーラ・養老孟司 (宝島社)
             【フリー・パックツアー】

 

 

【アメリカから来た留学生が驚くもの】
 回転寿司、顔全体にかぶるバイザー、カラオケ、シャワートイレ、車の窓に貼る陽よけのスクリーン、そして最後に、
 ラブホテル。外見はともかくとして、部屋の中にはびっくり(詳細は省きます)。あれはすごい思いつきだよね!といった反応。アメリカでは、ただのモテル、なんの変哲もない部屋。若い学生のことだからこんなことに敏感になるのは当然だと許してあげてください。
日本人がクリエイティブでないなどと誰が言ったのだろう。(p.162-163)
 (詳細は省きます)とあるけれど、詳細を省かれると、日本人のクリエイティブさの具体的な詳細が分からないではないか。
 聞くところによると、日本の有名家電メーカーは、アメリカの 「大人のおもちゃ電気製品市場」 で莫大な利益を上げているそうである。キリスト教的観点からアメリカ企業が参入できないタブー市場で日本企業が荒稼ぎしているのである。
 こんな事例だけなら、日本のクリエイティブもそんなに自慢できるものではないけれど、タブーが少ないのは日本文化の重要な特徴でもあるから、日本文化はクリエイティブの潜在力と領域を深く広くもっているとは言えるのである。
   《参照》   『クール・ジャパン 世界が買いたがる日本』 杉山知之 (祥伝社) 《前編》
            【日本マンガが海外で価値を持った理由:タブーのなさ】

 

 

【イメージと意見】
 相手を知る上での違い。
 日本人は相手を知るために、その人のイメージから入っていく。(p.71)
 アメリカ人は何にこだわるかと言えば、意見にこだわる。その人の持っている考え方、感じ方、何かに対する意見、そんなことにこだわる。(p.74)
 これはアメリカの商品にも共通する。見かけは美しくない。実に雑。 ・・・(中略)・・・ 。大雑把で、実用一点張りの不器用なイメージだ。ケーキだって日本のケーキがどれがけ美しいかご存じだろうか。と言うわけで、アメリカ人は人を知る上でも、細かいところにあまりこだわらない。(p.74)
 日本人は視覚情報、アメリカ人は言語情報で、人を判断するウエイトが大きい。

 

 

【とにかく意見】
 こんな文化的価値観でやっているアメリカだから、教育の場面では意見を言うことが求められる。学校で先生が何かを質問したら、日本人の留学生は、
 殆どはくだらないアメリカの学生の意見をしらけて聞くことと相なる。オリンピックじゃないけれど、意見は述べることに意義があるのであって、その善し悪しは、二の次なのだ。(p.77)
 日本人が相手を知る上での手がかりにするイメージとは、外見だけを言っているのではない。その人に関わる様々な属性によって作られるイメージである。だから、日本人は初対面では推察する情報を得ようと物静かに観察している。先んじて喋りださない。
 中身のないくだらない意見を学生に言わせることに時間を費やしているアメリカの教育と、内容のある話を先生から聴きとっている日本の教育と、どっちの方がレベルが上かは言うまでもない。

 しかしながら、「国際社会においては、意見を言わない者は無能とみなされてしまう」から、このことは重々知っておくべき。

 

 

【イメージと言語】
 不動産広告において、日本のそれは、間取り情報は図で表示される。
 アメリカの方は、外観の写真こそあるけれどあとは全て数字と言葉で表現されている。(p.178)
 下記も興味深い事例である。
 日本人とアメリカ人のボランティアが集まってイベントを企画しているときのこと。会場までの道順を聞く段になった時、アメリカ人はすらすらと文章で書き出した。要するに、「高速217をアレンで出て、東へ1マイル、25番通りで右折」 と言った具合。ところが日本人の方はさっさと地図を書きだしたのだった。(p.180)
 このように、視覚情報を多用する日本人と言語情報を多用するアメリカ人の違いを、著者はアナログ人間とデジタル人間に対比している。
 なるほど、俳句のような少ない文字で表現する日本の芸術は、視覚・聴覚その他の感覚領域にまでイメージを膨らませることで可能になる芸術である。これを逐一言葉に還元して説明するなどは、とことん興ざめなことである。
 日本人のイメージ力は、世界最高であると言えるはずである。だからクール・ジャパンとして世界のアニメ化を先導してきたのは日本人だったのであり、イメージを何とか言語化しようとする過程で、最も繊細な言語である日本語が生まれてきたのである。
 「イメージ優先? 言語優先?」 という点で文化の高低を判定するなら、やはり 「イメージ優先」 が上であり、日本文化が世界最上位・世界最高品質ということになるのである。
   《参照》   『本当の愛とはなにか?』 深見東州 たちばな出版
              【智恵証覚に秀でた日本人】

 文化レベルの低い国は、どうしても言語的、機能的という領域から抜け出ることができない。
   《参照》   『化粧するアジア』 呉善花 (三交社)
              【CMから見る文化】

 

<了>