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 タイトルと副題と表紙の絵を見ただけで、意味するところのおおよそは想像できる。そしてその通りの内容だった。2005年3月初版。
 昔のスターで、 ”かまやつひろし” という名のミュージシャンのファッションが、表紙の絵のようなものだったから、「かまやつ女」 と言っている。  
 「かまやつ女」 の内面だけを考察すれば、 「腐女子」 という類型に当てはまるのだろう。
   《参照》   『腐女子化する世界』 杉浦由美子  中公新書

 

 

【格差社会の反映】
 かまやつ女の価値観はファッションに現れたとおり、「ゆるく」 「頑張らず」 「マイペース」 「ゆっくり」 「のんびり」 である。競争して勝つとか、人の上に立つとかいった闘争心、向上心はほとんどない。向上心がないことを表現したファッションがかまやつファッションなのだ。
 しかしそれは個性化だろうか、多様化だろうか?
 むしろこれは若者のファションの個性化でも価値観の多様化でも何でもなく、現代社会の階層化を反映しているのではないか、と私は思うのだ。
 もう、これからの社会は、なかなか年収も伸びないし、もっと高い地位の職業につくことも難しい。そういう時代の雰囲気を感じ取った若い女の子が、かまやつファッションをしているのではないか、という気がするのである。(p.16-17)
 装いとは、個人が世界に関わるうえでの必要不可欠な儀式衣裳なのだから、その装いは顕著に対社会心理を反映しているのである。
 露骨になっている格差社会の現実を受け入れている若い女性たちが、先んじて向上心放棄を選択し、それを服装で表わしているということなのだろう。

 

 

【六篠女】
 対社会的な意欲を放棄している 「かまやつ女」 に対して、社会に対する意欲、人生に対する意欲が高く、学歴と収入と美貌を兼ね備えている女性のことを、著者は 「六篠女」 と言っている。東大生女優としてメディアに登場した女性の名に由来しているらしい。
 「社会を変える」 は、まさに六篠女、ミリオネーゼの合言葉なのである、生半可な男たちよりも、よほど六篠女たちのほうが、日本の将来を考える憂国の士なのだ。 (p.31)
 「憂国の士」 というこの記述は、「六篠女」 に関してちょっと過剰すぎる評価表現だろう。
 女性と男性では性差に基づいて、考え方も考えが及ぶ範囲も違う。女性が社会進出すればジェンダー(社会的性差)にもとづく差異はそこそこ埋まっても、生物的性差による男と女の世界認識差は決して埋まらないのである。「六篠女」 が 「社会を変える」 といっても、それは三島由紀夫が言っていたような 「憂国」 のような概念など、おそらく殆ど含んでいないのではないか。
   《参照》   『記憶がウソをつく!』 養老孟司・古館伊知郎 (扶桑社) 《前編》
             【男と女の社会的な性差】
             【男と女の脳の性差】
   《参照》   『I LOVE YOU 1』  アーリオーン・北川恵子 (扶桑社)
             【男と女】

 女性の社会進出が進み過ぎたことの弊害を国民の大多数が認識し、高度成長期の男女比率に戻るまで、日本の本当の復活はありえないと思っている。

 

 

【女性の外見は格差社会の指標】
 男性は階層格差が分かりにくい。階層が上でも下でも、着ている物も髪型も、ぱっと見、あまり違わないからだ。
 ところが、女性は格差が外見にはっきりと現れる。だから、社会に階層格差が拡大していることが、女性を見ると良く分かってしまうのだ。(p.31)
 確かに。

 

 

【かまやつファッションの起源】
 かまやつファッションの重ね着とか、左右非対称の着方の遠い起源はコム・デ・ギャルソンとワイズにあると思っている。それが裏原宿でだんだん大衆化し、ついにかまやつファッションになったのだと思う。
 しかし、両者が与える印象は、大衆化の過程でまったくちがうものになってしまった。コム・デ・ギャルソンやワイズにある知性、芸術性、反逆精神、そういったものが、かまやつファッションにはまるで感じられない。
 かまやつ女が望んでいることに “楽ちん” という概念があると、この著作の後半に記述されている。知性、芸術性、反逆精神といったものは、 “楽ちん” という精神とは無関係な領域で生じている。 “楽ちん” を欲する精神からは知性や芸術はもとより、向上を基とする如何なるものも生まれない。
 日本の和服は、 “楽ちん” どころか、はなはだしく “窮屈” なものである。しかし、身体を拘束し縛りつけることの中から、凛とした 「型」 をもつ日本文化は生まれてきたのである。
 かまやつ女は何も生み出さない。

 

 

【自己評価が低いかまやつ女】
 かまやつ女は、ほめられたことがないんですよ、きっと。自分を必要以上に低く評価している。原宿でおしゃれな店があると、入ればいいのに、これは私には入れないって思っちゃうような子。自信がない。背伸びができるのに、自分から降りている。(p.83)
 ならば、かまやつ男なんて、ビジネス社会にはいくらでもいるだろう。仕事なんて出来て当たり前だから誰も褒めてなんかくれっこない。仕事なんてそんなもんだから、自分を高く評価できない。しかし、ビジネススーツという男の世界ではほぼ共通な儀式衣裳に守られているから、なんとかダメージを大きくせずに済んでいるだけなんじゃないだろうか。ビジネススーツのようなソフトなものであれ 「型」 はやはり大切なのである。向上する上でも、低下を抑止する上でも。
 賢明な経営者なら集団の総力を高めるために、何らかの 「型」 を採用することのメリットに気付いている。何の 「型」 もなく自由度が高いというのは、エネルギーを集中しづらく無駄を生みやすい状態なのである。
   《参照》   『個性を捨てろ!型にはまれ!』  三田紀房  大和書房
 仕事という場面に限定せず、一般的な生活でもっとも身近にある 「型」 は、「らしさ」 である。

 

 

【らしさ】
 考えてみれば、自分らしさとは不思議な言葉だ。女らしさ、男らしさ、日本人らしさ、アメリカ人らしさ、社会人らしさ等々にはモデルがあり典型がある。自分が生まれる前から、その 「らしさ」 は決まっている。
 ところが自分らしさにはモデルがない。自分が生まれる前に自分はいなかったからだ。だから、自分らしく生きるとは、モデルなしに生きるということである。それはきっととても不安な生き方だ。(p.130)
 「自分らしさ」 だとか 「個性」 だとか言われて育った子供達は、実はこの様な不安に直面している。そう言って育てている教師や親の側は、既存の 「らしさ」 を否定しているだけで、肯定すべき 「実態・目標」 が明確になっているのではない。あらゆる 「らしさ」 を否定すれば、畢竟するに “自己(自分らしさ)否定に帰着するのである。
 同様なスローガンに基づいて女性の社会進出を推進しようとしている人は、経営者の立場で考えたことがないのである。自分以外の 「らしさ」 の否定からは、いかなる職業人も育たない。
 文化や職業の基本は 「型」 である。 「モデル」 である。 「らしさ」 である。そして本来自分らしさとは、既存の型としての 「らしさ」 の上に乗っていくべきものであろう。(p.167)
 「会社も個人の人生も、同様に “経営という視点” で考える習慣のない人は、何事もなしえない」 と松下幸之助さんは言っていた。成功意欲の強い女性が本当に社会を変えたいと思っているのなら、ビジネスの先人たちからきちんと学ばねばならない。

 

 

【かまやつ女におとなが苛立つ理由】
 かまやつファッションは、それが女性的でないから他者を満足させないだけではない。そこにおよそ他者の期待に応えようという態度、ようするに 「やる気」 が見えないために、普通の大人はいら立つのである。(p.110-111)
 その通りだろう。これにダラダラした話し方が加わったら、完全にアウトである。
 服装にも言葉づかいにも、歴史によって磨かれ美しいと認識されている既存の「型」があるのである。より美しいものを作れていないのに、その無教養さで既存の「型」を勝手に壊すな、と言いたいのである。

 

 

【楽ちんがいちばん】
 手に職をつけて、一生仕事を続けながら、結婚し、子供を作り、なごやかな家庭を作る。そういうかまやつ女の夢は好ましいものだ。
 だが、その割には、インタビューから感じられる女の子たちはあまりに頼りない。楽ちんがいちばんなのだ。「なんちゃって自分らしさ」 「なんちゃって自立」 「なんちゃって手に職」 の可能性は高い。
 自立能力が低いのに男性へ依存もしないとすれば、最終的には親に依存して、フリーターかパラサイトシングルにしかなれない可能性も高い。そういう危うさを私はどうしてもかまやつ女たちに感じるのである。(p.166)
 このようなメンタリティーは、フリーターにとっても同様であるらしい。フリーター達が 「夢」 を語る場合、それは目標というよりは、自分自身を守るために言っているだけなのだという。
 そして、ひきこもり男性とは、つまるところ、楽ちんという心理に狎れすぎたかまやつ男なのであろう。
 フリーター、かまやつ女、ひきこもり(かまやつ男)が増えている状況や、格差社会における高収入同士の縁組増加という現実の事例からも、現行の経済構造が続く限り、パラサイトシングルは急速に増加してゆくはずである。
 
<了>