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 この書籍に限らず、このお二方の共著を読んでいると、本当に多くの書籍が言及されていて、感心するというより呆れる・・・・という感じになることが多い。世代が違うから、この書籍で勧めてくださる本の全てに興味は持てるわけではないけれど、読んだことのない様々な書物の内容を僅かなりとも示してくれる語りの世界は、読んでいて楽しい。私が本を読むようになったのも、大学時代の先輩たちのあらゆるジャンルにわたる読書内容の語り合いを聞いていたことが元だったのだから。

 

 

【本を読むと何が得か】
谷沢 : 本を読むとこんなにお得ですよ、ということになりますな(笑)。
 何がお得かということですが、いやでもモノを考えるようになる、これでしょうね。古典か新刊かなどはさておいて、まず本を読むことがお得なんです。テレビを見てじっくり考えるという人はまずいませんものね。(p.14)
 お二人は共通して、読むことのみならず、書くことを必須としている。まず書くことを始めなければ体系にならない、というような内容である。
 そう、書くことで意識が明確になり、明確になった意識が次なる関連内容を招くマグネットになる。書いている人ならば、このような効果を知っているはずである。

 

 

【壊れたレコードにならないように】
渡部 : 『知的人間関係』 を書いたハマトンが、同じ観察をしています。田舎で知り合った素敵な婦人がいた。ところが本を読まない彼女はいつも話題が同じで、一緒にいるのが耐え難かったと・・・・。本を読んでいないと、もうレコードと同じで、同じことの繰り返しになっちゃう。 (p.22)
 時々、女性たちの会話を聞いていると、その特異な発想が面白くて聞き入ってしまうことがあるけれど、長いこと一緒にいたら、ハマトンと同じになってしまう可能性が高いのだろう。しかし、これはなにも女性に限ったことではない。
 老人たちの話を聞いていると来る日も来る日も同じ会話で、脳がすっかり停止してしまっていることがよくわかる。あれでアルツハイマーにならないとしたら、その方が不思議である。読書に脳の老化予防としての効用もあるのは確実。

 

 

【読書は独りの営み】
 本を読むという行為は、所詮独りだけの営みです。だからこう読まねばならない、こううけとめなければならないという制約は何もない。本を読むことの本質は、我流にあることです。 (p.40)
 そのとおり。私もそう思っているから、このブログに “カラスの勝手でしょ” 感覚で気ままに感想やらを書いている。あらゆる書籍・記述において、その内容の玉石混交を選りわけるのは、読む側の量と質を経た経験の蓄積である。

 

 

【ケインズ読みのケインズ知らず】
渡部 : ケインズは主著の中で、金利が2%以下では公共事業をやってもダメだとはっきり書いています。ケインズがちゃんと書いているのに、経済学者はそれが読めないんですね。 
谷沢 : 何の条件もつかない学説などは、あり得ない。それを無制限に受け取ってしまっているんですよ。
渡部 : 論語読みの論語知らずですな。 (p.43)

 

 

【3つの福】
渡部 : 私が次に薦める本は、幸田露伴の 『努力論』 ですね。・・・中略・・・。
 露伴は自分の内部に幸運を呼び寄せ、いかに心を幸福感で満たすかを説いています。有名な 「惜福」 「分福」 「植福」 という3つの考え方が、露伴の思想をよく示している。 (p.58)
 渡部先生が、はるか昔から、いくつもの本の中で推薦している露伴の 『努力論』 であるけど、私はついぞ読んだことがなかったので、 「惜福」 「分福」 「植福」 という考え方の出典がこの書籍だったということを今頃初めて知った。
 「惜福」 「分福」 「植福」 という素晴らしい考え方(「福田の建立」)については、学生時代に読んでいたとある仏教系宗教家の書籍の中で初めて知ったのであるけれど、さも “我が教え“ であるかのような記述で、その出典など決して記述されていなかったのである。
 最年長で将棋の名人位を獲得したことのある 米長名人 も、色紙に 「惜福」 と書いていたのを思い出す。日本人には最もふさわしい考え方であるように思っている。
                【惜福】

 

 

【意外に逆が表に現れる】
渡部 : フランス文学と言うと恋愛小説の本山みたいですね。ところがフランスに何十年と住んでいるハマトンという人がいて、彼は緻密にフランス人を観察している。この人によればフランスぐらい結婚にロマンスがない国はない。
 とにかく何事もお金で、どれだけ持参金があるかですべてが決まってしまう。・・・中略・・・。それに反してイギリスでは持参金の多い少ないに関係なく、恋愛をするとパッと身分を超えてしまうようなところがある。ふつうの観念とは逆だと言っています。
 私が思うに、国というものは意外に逆が表にでてくるんじゃないでしょうか。
 だからキリストみたいに平和を説く人は、争いが止まないパレスチナあたりに出てくるし、悪者が渦巻くところには孔子のような人がでてくる(笑)。もっとあります。インドのような身分制度のカーストが厳しいところには、釈迦の平等主義が出てきます。 (p.118)
 中国共産党のように、孔子の儒教を支配者の制度に利用してしまうなんぞ、本来的に筋金入りの悪者集団でなければ、とうてい思いつくものではありません。孔子の儒教を人格陶冶の学として学んだのは、本来的に善人の日本人だったからこそできたのです。
   《関連》   『歴史に学ぶ智恵 時代を見通す力』  副島隆彦  PHP研究所 <前編>
              【道教と儒教】

 

 

【金科玉条がもたらすもの】
渡部 : マクルーハンが、なぜ西洋近代文明はダントツになったかを考察し、そこには 『聖書』 の各国語への翻訳があると指摘しています。・・・中略・・・。
谷沢 : そこが大切なところなんですよ。そこから文化が始まる。イスラムの教典コーランは一字一句検討したり手をつけたりすることが許されていない。・・・中略・・・。聖書学のようなコーラン学が発生していない理由はそこにあるし、それがイスラム社会の停滞にもつながっている。
渡部 : 漢籍もそうですね。・・・中略・・・。どうも朱子の方がおかしいぞと言うヤツがでてきたわけです。
谷沢 : そうです。・・・中略・・・そういうことが、明治維新をもたらす思想的原動力にもなっていった。
渡部 : 結局、日本の儒学はシナを超えるレベルに達してしまった。朝鮮では、朱子を疑う学者は出ませんでしたね。
谷沢 : 出ていません。李朝第一の正統的朱子学者李退渓は、まったく朱子を疑っていない。・・・中略・・・。このことは近代朝鮮の停滞と無関係ではありません。 (p.36)
             【山縣周南】

 

 

【 『恋愛と贅沢と資本主義』 】
 ドイツ人経済学者であるヴェルナー・ゾンバルトの著作。
谷沢 : これは翻訳も読みやすいですし、面白い本ですよ。要するに、恋愛と贅沢が資本主義をつくったと言っている。マックス・ウェーバーの説はウソだというのが、根本になっています。私はもう、全面的にこの説に賛成します。・・・中略・・・。
渡部 : ゾンバルトのこの本が、日下公人を生んだわけですね。
谷沢 : ええ、 『新・文化産業論』 を生んだのはこの本です。
 確かにプロテスタントが近代資本主義を生んだというマックス・ウェーバーの説は、特定の時代、特定の場所に限られていることであって、恋愛や贅沢ほどに普遍性はない。
 学問は高踏的であらねばならないという学者界に連綿と流れている普遍的(?)空気が、卑近な恋愛や贅沢という視点を意図的にか無意識的にか遠ざけ、聖書動員という安全牌寄りの解釈をさせていたのだろう。
           【ゾンバルト】

 

 

【 『ドストエフスキーの詩学』 】
谷沢 : 私は初めてバフチンという人を知ったときは、ほんとうに目からうろこが落ちたというか、びっくり仰天したものです。・・・中略・・・。バフチンはポリフォニーと言っているんですが、ドストエフスキーの作品にはこの手法が使われていると言っているわけです。 (p.139)
 私は、ドストエフスキーを煩雑すぎると感じていた。それで日本人として正常のはずである。
   《参照》   『自分の中に歴史を読む』 阿部謹也  筑摩書房
               【ポリフォニーと交響曲】

 

 

【外国人の語学研究】
  『鼠はまだ生きている』 の著者であるバジル・ホール・チェンバレンについて。
渡部 : チェンバレンは日本研究者ですから、その傍ら日本語や日本文学を研究していた。沖縄方言が日本語であることを、疑う余地なく証明した最初のひとでもあるんです。 (p.140)
 日本人の渡部先生が、英国人にとって当然過ぎる英文法の権威であるように、チェンバレンは日本人にとって当然過ぎる日本語に関して優れた研究を残しておいてくれた。

 

 

【渡部先生の推薦図書】
 お二人の対談として書かれているこの本を読んでいて、気づくことがある。谷沢さんが、ある書籍を批判していても、渡部先生は決してそれに同調することなく、サラッと別の話に転じてしまっている。
 つまり、渡部先生は他者の著書を否定的に語ったり批判することを避けているのが分かる。このお二人の対談は、この書籍に限らずいつもそうである。ハマトンやヒルティーや露伴など、人格陶冶系の書籍を主要なお薦め図書としている渡部先生ならではの態度である。 
             【心を正しく整える】
 
<了>