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 幕末に近い頃の江戸時代。日本全体を覆っていたであろう、儒学嫌悪の空気(ニューマ)が分かりやすく記述されている。そして、真正な日本民族の精神の発露として成立したかに見える明治維新成功の背後にあったイングランド。そして、第二次大戦に向かわせたアメリカの謀略とそれを遂行した日本人エージェント。すべて、実名を挙げて記述している。

 

 

【道教と儒教】
 関羽は死んで皇帝になった、と中国の民衆は考えた。だから関帝だ。世界中の華僑たちのお祀り(祭祀)の中心です。
 何故、関羽が関帝廟に祭られる神になって、中国の民衆はこの関帝廟の思想を長く大事にするようになったのか。中国の民衆は今もこの道教(占い、まじない)の寺院を大変大切にする。中国人は関帝廟を心底、拝む。
 それに対して、中国民衆は孔子(儒教)の「君子の思想」が大嫌いだ。君子というのは官僚たちのことだと知っているからだ。今で言うならば中国共産党の大幹部たちやその周りにいる大勢の政府役人、高官たちのことだ。 (p.35)
 中国において、道教は民衆のものであり、儒教は支配者の都合で採用された思想であることは、上に記述されたとおりである。
 ところが、現在の一般日本人庶民である私は、儒教を、徳義を重んじ礼節を弁えた財界人の著作の中から学んできたので、“幼長の序” などタテ系列の社会構造を、否定的にではなく肯定的にとらえてしまう傾向がある。だから、江戸時代の儒教に関しても、支配者サイドの意向を代弁する儒教という視点を知っていながらも、やや安易に理解している点があること気づいた。
 江戸(徳川)時代は、士農工商という身分が固定されていた封建時代である。最上位の武士階級が教えを請うのは、専ら中国伝来の漢訳仏典を学び漢文の素養ある仏僧からだった。つまり剃髪した仏僧こそがインテリであり、儒学の講義をする学者まで、わざわざ剃髪して講義に臨んだという有様を揶揄した文献まで見られるという。
 また、檀家制度という住民台帳を保有する仏僧の民衆に対する影響力は名実共に大きく、神仏習合とはいえ、その実態は明らかに仏教上位であったらしい。このような仏僧が幕府(武士階級)と連携して、儒学を民衆(農・工・商階級)に説いていたのであるから、民衆の儒学に対する憤懣の圧力は時代が進むにつれ高まり、やがて国学を復活させ尊王攘夷思想を惹起するに至ったであろうことは想像に難くない。江戸時代に、お伊勢参りが盛んだったことの背景には、このような現実的な側面もあったという認識は必要なのだろう。
 著者は、神道は道教(陰陽道)であるという解釈で論じている。これはどうかと思うけれど、日中の支配者と民衆を対比的に捉えての記述は分かり易い。

 

 

【今で言うなら東大の教授たちが・・・が?】
 江戸の湯島の聖堂(孔子廟)は、幕末には昌平坂学問所と呼ばれるようになっていた。そこの正式の教授をしていた人たちの間でさえ、本当は、朱子学はかなり嫌われていた。このことが重要だ。(p.79)
 幕末期は、しばしそうだったかもしれないけれど、自らの権威を保証していた儒学的権威は、今でもかなり根強いのではないだろうか。現代においても儒教(論語)は、政治ではなく知の支配者たちのバイブルなんじゃないかと思うことがある。
 少なくとも韓国は露骨にそうであろう。老教授の権威を侵すわけにはいかないので、仮に若い優秀な学者が独自の学説を考案しても、老教授が存命中は発表するわけにはゆかない。このように、儒教は秩序維持による停滞社会の枷として機能するのである。韓国から学術・科学分野でノーベル賞の受賞者など基本的に輩出するわけはないのである。
 韓国も中国も、儒教を国家の規範として用いている限り、自ら成長の頭を摘み取るのである。そこそこ成長した段階で必ずや自ら衰えてゆく。それが儒教社会の必然である。

 

 

【富永仲基(なかもと) 「誠の道」 - まじめに働く商人の思想】
 この「誠の道」というのは、真面目に働いて、よい商品を作ってこれに正しい利益を乗せて、人々にそれを売って、サービスを提供して、世の中の役に立って人々に喜んでいただいて、それで暮らすという商人(町人)の生き方である。そういう堅実でまっとうな生き方をしろといった。この富永仲基の思想こそは、まさしく松下電器産業(現パナソニック)の創業者松下幸之助氏に受け継がれた優れた生き方と思想だろう。
 ・・・(中略)・・・。PHPから本を出してもらうからPHPの創設者(ファウンダー)にお世辞を言っているのではない。私には一切の気取りや、ごまかしや、くだらないおもねりはない。 (p.114)
 著者は、本当に、今の日本に必要な国士の一人だと思う。松下幸之助さんは自らが創設した政経塾の内部からこのような人が現われてほしかったのだろうけれど・・・・。
 富永仲基は、神・儒・仏の3つとも否定し、「誠の道」のみを語った人らしい。同時代の石田梅岩は、神・儒・仏を全ていいように取り混ぜて平明な人生哲学を語っていた。石門心学は後世に伝わったけれど、富永仲基の思想は後世に伝わらなかった。