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 既掲載の渡部先生の著作と、重複する内容が多い。それでも面白いのが渡部先生の本である。

 

 

【インターネットと読書】
 冒頭にインターネットを活用した情報収集と、読書の違いが記述されている。前者はサプリメントで後者は食事そのもの、というたとえで説明してくれている。確かに、そんな感じだ。
 私はインターネット情報が好きではない。それは読書ではないからである。変な理由だけれど、本を読みたい人は一般的にネット中毒なんかには決してならないはずである。調べ物ならともかく、ネット情報なんかが読書の代用になれるわけはない。体系的にまとまった見解なり思想は一連の記述を読み通すことでしか正しくは理解できないものである。一字一句に熱くなって2チャンネル情報に振り回されていても時間の無駄である。

 

 

【「活字の船」に乗って】
 探偵小説家の江戸川乱歩はかつて 「活字の船」 といいました。読書というのは活字という船に乗って大きな海に乗り出すことである、という意味です。
 この言葉を知ったとき私は、まさに言いえて妙であると感じ入りました。じっさい、文字だけを読んで 「これは面白い」 と思うのはやはりかなり高度な作業なのです。抽象性の度合いが絵本を見るのとはまるで違います。 ・・・(中略)・・・ 。自分の好きなように空想力の翼を広げることができます。その意味でも読書とは、まさに乱歩がいっているように、活字という船に乗って異次元の世界にまでこぎ出すことなのです。
  ・・・(中略)・・・ 。
 おいしい料理を食べ続けていると味に対する感覚が研ぎ澄まされていくように、読書も持続していると読解力もついてきます。だからますます本を読むことが楽しくなっていく。
 こうして人は 「活字の海」 へ乗り出していくのです。(p.27-29)
 自力でオールを漕いで近海を抜けると、やがて大きな潮の流れがある外洋に出る。渡部先生は、この本のなかで辞書についても多く言及しているけれど、自力でオールを漕ぐというのは辞書を引く努力に相当し、読解力がつくというのは外洋の潮の流れに乗ることに相当するのだろう。潮の流れに乗ったら景色を楽しみながら楽しく遠くまで行けるのである。
 また、別の個所では以下のようにも書いている。
 時間と空間を自由に超えることのできるものとして文字が生まれたわけですから、文字の世界には、真に人間としての能力が働いた結果としての巨大な蓄積がある。その巨大なる蓄積に近づくいちばんよい方法は 「活字の船」 に乗って行くことである。すなわち読書であると、私は考えているのです。(p.121)

 

 

【本の品定め法】
 こうした私の読書体験から導かれる本の品定め法は 「己に忠実であれ」 という一語に尽きます。(p.70-71)
 同じ本を読んだ年齢が人より10年遅かろうが20年遅かろうが関係ない、ということを渡部先生は言っている。ほんとそうだ。読書遍歴なんて道順が定まっているわけではない。順番がどうであれコース外であれ遍歴とはそういうもの。自分で読みたいものをじっくり読んで自分で品定めする。それでいい。

 

 

【パスカルの 『パンセ』 】
 渡部先生が既刊書で頻繁に言及しているアレキシス・カレルの 『人間 --- この未知なるもの』 についての記述の中に書かれているパスカル。
 『パンセ』 についても私は最近本を出しました(『パスカル “瞑想録” に学ぶ生き方の研究』(致知出版社)。パスカルについては三木清をはじめとして、高名な哲学者や仏文学者が立派な本を出されていますが、パスカルの本当のところを避けられているという感じが強い。パスカルは 「奇蹟」 を体験したから 『パンセ』 にあるようなことを書いたのです。(p.84)
 数多の本を出しておられる渡部先生の本の中で、私が最初に読んだのはおそらく、渡部先生が訳者として出版されていたアレキシス・カレルの本だった。神秘学的な部分は、実は少なからぬ思想家・思索家の基礎ないし核の中に伏在しているはずである。私は、それを当然だと思っている。
   《参照》   『人生力が運を呼ぶ』 木田元・渡部昇一 致知出版社
            【渡部先生の自己形成の内側】

 

 

【イギリス国学史】
 オールド・イングリッシュ復興とそれに関する研究の誕生を 「イギリス国学」 と位置づけた研究者は日本にはもちろん、イギリスにもいませんでした。そこで私は独自の視点から入念に研究をつづけ、それを 『イギリス国学史』 という本にまとめたのです。
 オールド・イングリッシュに関する私の研究水準はある点ではイギリス本国の上をいっていると自負しています。(p.162)
 渡部先生は英語学の世界№1の権威なのだから、高水準でそれができる唯一の人なのだろう。
   《参照》   『人生力が運を呼ぶ』 木田元・渡部昇一 致知出版社
            【渡部先生が英語学の世界№1の権威である訳】
 このような著作の発想の源は、日本の国学の興りに似た過程がイギリスにもあったかららしい。
 発想法としていえば、日本の国学者が 「漢文が入ってくる前の大和言葉に戻れ」 といったのと非常に似ています。じっさい、イギリスで初めてオールド・イングリッシュの研究が始まったのはヘンリー8世の時代でした。 ・・・(中略)・・・ 。したがって私は、「オールド・イングリッシュは英語の大和言葉である」 といっています。 (p.161)
 アングロサクソンという民族名は、先生の別の本で学んだのだけれど、現在の西ドイツ付近のアングル地方とザクセン地方からブリテン島にやって来た人々であることに由来している。だからオールド・イングリッシュとはドイツ語の方言のような言葉のことである。
 渡部先生って、日本ばかりではなくイギリスにとっても “宝物のような知性” であるに違いない。

 

 

【山縣周南】
 江戸時代の儒者である。 
 (山縣周南は) 『大学』 を繰り返し読んでいるうちに、どうも順序がおかしいのではないかと思いはじめた。錯簡があるのではないか、と気づいた。(p.165)
 錯簡というのは順序の違い。当時は竹などに字を書いて紐で綴じていたから、切れた場合バラけちゃう。
 その後、シナで昔の 『大学』 が発見されました。それを見ると、彼が並べなおしたものとまったく同じだったというのです。 ・・・(中略)・・・ 。文章の論理だけではなく文の勢いにも目を付けて読んでいたから、シナの学者も気づかなかった誤りに気付いたのでしょう。
 このエピソードについては、日本の代表的な中国文学者の吉川幸次郎先生が書いていらっしゃいますが、この一事をもってしても江戸時代の儒者、漢学者の実力がいかに恐るべきものであったかがわかると思います。(p.166)
 ホント凄っごい。
 李退渓がどうのこうのと言って、たんなる権威主義儒教くせに “尚文の韓国” とのたまう梨花大学の著者は、江戸時代や現代の日本の儒学者の実力が全然わかっていない。
   《参照》   『「ふろしき」で読む日韓文化』 李御寧 学生社
              【 “尚武” と “尚文” 】

 

 

【小学館の 『国語辞典』 の第二版】
 小学館の 『国語辞典』 の第二版は、日本語を詳しく知りたい人は揃えておくべき辞典です。(p.182)
 ブリタニカのような辞典にしても、版が新しいから良いというものではないという。全体の巻数が減って内容が大幅に削られてしまっていることがあるのだという。
 この国語辞典に関しては、イギリスの辞典に学んで作成された初版は、充分な水準に達していなかったそうである。

 

 

【古典はまず教室で】
 古典はやはり、まず教室で教えることが大事です。そうでないと、一生古典に触れる機会がなくなってしまいます。(p.184)
 ほんと、そうである。私は、今も昔も古典になんか殆ど興味はないから、教室で学んでなければ、おそらく今でも真っ白けの白紙である。

 

 

【教養書 ベッヘルの 『哲学入門』 】
 ベッヘルの 「認識論」 と 「形而上学」 を学びましたので、これで哲学の基礎を身につけることができたと思っています。私はこれまで哲学の本もずいぶん読んできましたが、どんな本を読んでも、その哲学者が何を言おうとしているのかよくわかったのは、ベッヘルの 『哲学入門』 を読んでいたおかげだと思っています。
 だからこの本が、私にとっての本当の教養書です。(p.217)
 この本に書かれている多くの図書は、渡部先生の既刊書の中にも見られるものが殆どだけれど、 ベッヘルの『哲学入門』 の言及はこの本が初めてである。