お医者さん
今シーズン、はまっているというか、なんだかみてしまうドラマがあります。それは「87%」という初期の乳がんの患者さんのお話。担当医と患者さんの会話を聞いていると「よい医者」ってどんな人だろうと考えさせられます。
今まで私が出会った中で何人か記憶に残るお医者さんがいます。
一人は在日韓国人のお医者さんでとっても優しいお医者さん。風邪をひいて高熱を出していた小学生の私のため、たくさん待っている患者さんの前で「高い熱を出している子供がいます。申し訳ないのですがこの子を先に診させてください」と頭を下げくれたお医者さん。その医者さんだけが聴診器をあてる前に自分の手やストーブでわざわざ温めてくれました(この先生以外にそうしてくれるお医者さんに出会ったことはありません)。本当に思いやりのあるお医者さんです。今でも年賀状だけのつきあいはありますが、機会があればお会いしてみたいです。もう20年以上会ってませんが・・・。
もう一人は顔すら覚えていませんが、私の目のことを母に説明するのに「この子の目は治りません。たとえるなら枯れた盆栽のようなものですから」と言ったお医者さん。私自身は小さかったからかもしれませんが、それほどショックを受けることもなく、ただ単純に「治らない」「枯れた盆栽」だけが心の中に残りました。不思議とうらみなどもありません。
そして、最後に今も私の目の主治医である眼科の先生。この先生は弱視では権威のある先生だけど、私に謝ってくれるのです。「君の目を治してあげることができなかったね」って。私はそのときに前に書いた先生から聞いた言葉を思い出し答えました。「先生がどんなに立派なお医者さんでも、神経がやられてたら無理ですよ。それよりも私は先生と出会って単眼鏡(望遠鏡の片方だけの物)やルーペ(むし眼鏡の性能のいいもの)を教えてもらい、大学にも行け、教員免許も取れ、就職もし、結婚もした。十分私の役に立ってくれてます。感謝してます。だからそんなこと言わないで下さい。悲しくなります」って。先生喜んでくれてました。
いいお医者さんとの出会いってすごく重要ですよね。ましてや命にかかわる病気になったらなおのこと。このドラマをみていてすごくそう思います。ここ関東でもいいお医者さん(信用できる人という意味)に出会えたらいいなぁーと思います。
桜が咲いた
今日は朝一番に「いい知らせ」が届きました。
甥が中学受験をし、本命ではないにしても、とりあえず「合格」したという知らせでした。
おめでとうという気持ちと、甥の母親つまり私の義姉にお疲れ様と言いたい気分です。
中学入試。私も20年以上前に経験しましたが、現在のそれは私のころとはまったく違うものであることを実感しました(親が大変なようですね、今は・・・)。
いずれにせよ、私がそうであったように、甥にも「高校入試がない分」どうか6年かかって、本当の意味でのいい友達を作って欲しいと思います。心からそう思います。
もともと私学に行きたくなかった私ですが(小学校の友達と別れるのが嫌といういかにも子供らしい理由で)、今は行ってよかったと思ってます。だって遠く関東に行ってしまった私をいつも待っていてくれる、私を支えてくれる友達を得たからです。だから私の甥にも6年という時間をかけて、じっくりとかけがえのない「宝」を見つけて欲しいと思います。きっとその「宝」は一生物になると思うから・・・。いっぱいでなくていい。たった一人でもいい。あなたのことを心から信じてくれる友達をどうか作ってください。それが「おばちゃん」の素直な気持ちです。そして本命が受かることを祈ってます。
甥が中学受験をし、本命ではないにしても、とりあえず「合格」したという知らせでした。
おめでとうという気持ちと、甥の母親つまり私の義姉にお疲れ様と言いたい気分です。
中学入試。私も20年以上前に経験しましたが、現在のそれは私のころとはまったく違うものであることを実感しました(親が大変なようですね、今は・・・)。
いずれにせよ、私がそうであったように、甥にも「高校入試がない分」どうか6年かかって、本当の意味でのいい友達を作って欲しいと思います。心からそう思います。
もともと私学に行きたくなかった私ですが(小学校の友達と別れるのが嫌といういかにも子供らしい理由で)、今は行ってよかったと思ってます。だって遠く関東に行ってしまった私をいつも待っていてくれる、私を支えてくれる友達を得たからです。だから私の甥にも6年という時間をかけて、じっくりとかけがえのない「宝」を見つけて欲しいと思います。きっとその「宝」は一生物になると思うから・・・。いっぱいでなくていい。たった一人でもいい。あなたのことを心から信じてくれる友達をどうか作ってください。それが「おばちゃん」の素直な気持ちです。そして本命が受かることを祈ってます。
やはり私はパソコンおんち?
この前の記事ですが、本当は画像ごと「眉山」の情報をのせたかったのに失敗しました。(T_T) 難しい。(>_<) どこをミスったのかも分らないので対処できません。画像を取り込むのかなぁー? 難しい。。。
「眉山」
私にしては凄く珍しくハードカバーの本を3日間で読みました。それが表題に書いた「眉山(びざん)」です。 このお話は徳島に住む母と娘のお話で、母は末期がんに侵されていて、東京で働く娘は母の看病のため故郷に戻り、そこで繰り広げられる人間模様を描いたお話です。末期がんとの向かい合い方・介護・恋愛・仕事・親子愛などなど色々考えさせられた一冊でした。 よかったら読んでみてくださいね。 私が3日で読めたのは京都に里帰りをしていたからという大きな理由があります。でも「次が読みたい」と思う展開であったことは確かです。 心が温かくなったそんな一冊でした。
著者: さだ まさし
著者: さだ まさし
タイトル: 眉山
著者: さだ まさし

著者: さだ まさし
タイトル: 眉山
すっかりさぼってしまいました。
ふと気づけはもう1月も終ろうとしています。なんだか長い間ブログを更新していないなぁーと思っています(実際してませんね)。
さて先日ちょっと遅い里帰りをしてきました(14日から19日まで)。17日が私の父の命日なため、同じ遅れて里帰りをするならその日に家にいようと思って、結婚して以来ほぼ確実に17日には実家にいてます。
私にとって京都へ里帰りすることはやっぱり「帰る」ことであり、そして京都から今住んでいるこの関東の地へ戻ることも「帰る」ことなんですね。なぜ私の中で「帰る」と表現するんだろうかと考えると、やっぱり「待っている人」がいることと「私の家」だからだと最近気づきました。そして自分の帰るところに「私を待ってくれている人がいる」幸せを実感しています。
東京から新幹線に乗り、名古屋に着く。気持ちがもう京都へ飛んでいます。そして京都駅についてホームから「京都、京都です。京都、京都です」というアナウンスを聞くとにっこり微笑む私(端から見たらちょっと不気味かなぁー)と心の中で「ただいまぁー」と言っている私に気づきます。歩く早さも心なしか早くなります(実際そうだと思います。だって慣れたところだから)。
逆に京都から東京に向かう新幹線で、名古屋に着くと腹が据わります。「しばらくまた夫だけが友達の生活だなぁー」って・・・。そして一瞬寂しさが私の心の中をよぎります。
お正月・お盆・そして公務として帰る法事の時に必ずと言っていいほど私と会ってくれる中学・高校時代の友達。彼女たちの存在が私の関東での生活にどれだけ大きな心の支えになっているか。それは計り知れないものです。
いつもいつも私と会うために都合を付けてくれて有難う。私を忘れずにいてくれて有難う。そんな気持ちです。
さーて、しばらく、またその友達とはメル友生活になりますが、次に会えるのを楽しみに頑張ろうと思います。
有難う、Aさん、Yさん、そして私の母。
大病院
先日、夫と共に総合病院に行きました。そこで感じた私の感想です。
「こういう所ってもうちょっと親切にならないんだろうか?」
診療科や検査室の表示も上のほうにあるだけで見にくいし、診察室に入るのもマイクで「○○さん、何番の診察室へ」という声だけで、そこへ案内してくれる人はいない。私自身が診察を受けに行ったわけではないので、その「番号」が私に見えるところに書いてあるかどうかは不明ですが、すぐに分るかどうかが不安に思ったりして・・・。町のお医者さんや昔の総合病院なら看護婦さんがその診察室の扉のところで患者の名前を呼ぶ。その声の元へいけば間違いない。しかし、今回のようなシステムでは私、ひょっとして間違ったドアを開けたりしてと不安になったり・・・。また色んな検査を受けるのもまた大変。色んな場所に行かねばならないけど、その説明を一気にしてしまう看護婦さん。表示の見にくい私はその説明を全部覚えるしかありません。私、いちいち覚えられませんって言いたくなりそうです。百貨店やホテルには「コンシェルジェ」なるものがいらっしゃるらしいですが、私個人的には病院こそそのような人が必要なような気がしてなりません。だって病気でしんどいときに一気に「あそこへ行って、その次はあそこに行って下さい。場所は何階のどこそこで・・・」なんていわれても覚えられないし、そんなにうろうろできないような・・・。そして私のような視覚障害者はその診察室や検査室の表示が見にくい。ここだけはもう少し「人の力」を貸して欲しいなぁーと思います。
支払いもしかり。番号をスクリーンに出すシステム。これも見えない私はどうするんだろうと思ったり・・・。ここも「アナログ」であって欲しいと思います。
総合病院や大学病院は患者数も多い故、そんなことはやってられないのかもしれないけど、そういうところだからこそ、「みんなに親切」な場所であってほしいなぁーと思います。
私の個人的固定観念かもしれませんが、総合病院や大学病院の職員や看護婦さんって「忙しい」っていうオーラを出して「分りません」とか「どこですか?」とか聞きづらい雰囲気を持っているように思います。せめて聞きやすい雰囲気があれば「デジタル化」されてもいいんだけど思うのは私だけでしょうか?
「こういう所ってもうちょっと親切にならないんだろうか?」
診療科や検査室の表示も上のほうにあるだけで見にくいし、診察室に入るのもマイクで「○○さん、何番の診察室へ」という声だけで、そこへ案内してくれる人はいない。私自身が診察を受けに行ったわけではないので、その「番号」が私に見えるところに書いてあるかどうかは不明ですが、すぐに分るかどうかが不安に思ったりして・・・。町のお医者さんや昔の総合病院なら看護婦さんがその診察室の扉のところで患者の名前を呼ぶ。その声の元へいけば間違いない。しかし、今回のようなシステムでは私、ひょっとして間違ったドアを開けたりしてと不安になったり・・・。また色んな検査を受けるのもまた大変。色んな場所に行かねばならないけど、その説明を一気にしてしまう看護婦さん。表示の見にくい私はその説明を全部覚えるしかありません。私、いちいち覚えられませんって言いたくなりそうです。百貨店やホテルには「コンシェルジェ」なるものがいらっしゃるらしいですが、私個人的には病院こそそのような人が必要なような気がしてなりません。だって病気でしんどいときに一気に「あそこへ行って、その次はあそこに行って下さい。場所は何階のどこそこで・・・」なんていわれても覚えられないし、そんなにうろうろできないような・・・。そして私のような視覚障害者はその診察室や検査室の表示が見にくい。ここだけはもう少し「人の力」を貸して欲しいなぁーと思います。
支払いもしかり。番号をスクリーンに出すシステム。これも見えない私はどうするんだろうと思ったり・・・。ここも「アナログ」であって欲しいと思います。
総合病院や大学病院は患者数も多い故、そんなことはやってられないのかもしれないけど、そういうところだからこそ、「みんなに親切」な場所であってほしいなぁーと思います。
私の個人的固定観念かもしれませんが、総合病院や大学病院の職員や看護婦さんって「忙しい」っていうオーラを出して「分りません」とか「どこですか?」とか聞きづらい雰囲気を持っているように思います。せめて聞きやすい雰囲気があれば「デジタル化」されてもいいんだけど思うのは私だけでしょうか?
おめでとうございます。
あけましておめでとうございます。
みなさんはどんな年の初めをお迎えでしょうか?
私は紅白を見た(お目当ての歌手のみかなぁー?)後、近くの神社(氏神さんです)&お寺に初詣に行き、お神酒と甘酒をご馳走になり、またおみくじも頂き(吉でした)、家に帰って床に着きました。そして朝目覚めて、2日かけて作った御節を食べ、年賀状を読み、雪が降った後だけに悩んだ末洗えるきものを着て、旦那の実家へ御節を持って行きました。そして2日泊まり、昨日、帰宅。今日はゆっくりとしています。
とそんな変化も刺激もない年の初めを迎えました。
日々更新することは難しいかもしれませんが、マイペースでなんだかんだと書いていこうと思ってますので、どうぞ見捨てずに遊びにきてやってくださいね。
そんなわけで今年もどうぞよろしくお願いします。
みなさんはどんな年の初めをお迎えでしょうか?
私は紅白を見た(お目当ての歌手のみかなぁー?)後、近くの神社(氏神さんです)&お寺に初詣に行き、お神酒と甘酒をご馳走になり、またおみくじも頂き(吉でした)、家に帰って床に着きました。そして朝目覚めて、2日かけて作った御節を食べ、年賀状を読み、雪が降った後だけに悩んだ末洗えるきものを着て、旦那の実家へ御節を持って行きました。そして2日泊まり、昨日、帰宅。今日はゆっくりとしています。
とそんな変化も刺激もない年の初めを迎えました。
日々更新することは難しいかもしれませんが、マイペースでなんだかんだと書いていこうと思ってますので、どうぞ見捨てずに遊びにきてやってくださいね。
そんなわけで今年もどうぞよろしくお願いします。
今年の終わりに
今年も残るところあと少しとなりました。みなさんはどんな一年でしたか?
私はというと、今年初めて自分のうちでお正月を迎えました(つまり旦那と二人きりのお正月です)。去年までは旦那の実家で迎えてました。そんなわけで去年末は初めておせち料理を作りました。そしてお茶会に初めて行きました。またこうしてブログなるものも訳が分らないままにも始めました。そんな「初」の多い一年だったように思います。
地震・台風・凶悪犯罪・・・。巷では悲しい事が多い一年でした。来年はどんな小さなことでもいいので楽しい事が巷にあふれる一年となりますようにと願わずにはいられません。そして私自身にとっても健康で小さな幸せが一つでもあるようにと祈ってます。もちろん、私のブログを覗いてくださっている皆さんの一年も幸せに満ちた一年となるようにとお祈りしています。
2005年もマイペースでブログを続けていきますので末永くよろしくお願いします。
どうぞ良いお年をお迎えください。
私はというと、今年初めて自分のうちでお正月を迎えました(つまり旦那と二人きりのお正月です)。去年までは旦那の実家で迎えてました。そんなわけで去年末は初めておせち料理を作りました。そしてお茶会に初めて行きました。またこうしてブログなるものも訳が分らないままにも始めました。そんな「初」の多い一年だったように思います。
地震・台風・凶悪犯罪・・・。巷では悲しい事が多い一年でした。来年はどんな小さなことでもいいので楽しい事が巷にあふれる一年となりますようにと願わずにはいられません。そして私自身にとっても健康で小さな幸せが一つでもあるようにと祈ってます。もちろん、私のブログを覗いてくださっている皆さんの一年も幸せに満ちた一年となるようにとお祈りしています。
2005年もマイペースでブログを続けていきますので末永くよろしくお願いします。
どうぞ良いお年をお迎えください。
触って美術鑑賞。
前にブログに書いたとおり、私は京都がふるさとです。そして今でもやっぱりその京都の事が気になってインターネットで「京都新聞」の記事をほとんど毎日読みます。
一昨日、その京都新聞の記事に「京都視覚障害者協議会が日展の作品を触れて鑑賞する」というものがありました。
私は美術館が大嫌いです。なぜって、見えないから。分らないから。寄れないから。
美術館を想像してください。
絵は鎖の向こうにあります。よく分りません。説明文は絵の隣。つまりやっぱり鎖の中。読めません。それじゃぁ何にも分りません。ただ壁に何かが書かれている額が飾ってあるだけという感覚でしかありません。大きな肖像画、大きな風景画ならまだ何とか「勘」を働かせて見えなくもない。でもそんな絵ばかりではないのです。日本の美術館はどうしてああいう風に鎖をするんでしょうか?
外国(といっても私はアメリカしか知りませんが)は鎖なんてありません。「絵にぺったり張り付いて見て」いても係員が飛んでくることもないし、第一、凄く明るい。そんなわけで説明文も張り付いて読むことも出来る(意味を理解できるできないは別問題として)。日本よりもよっぽど「絵を理解」できます。あれこそがバリアフリーだと思うのは私だけでしょうか?
今回の「触る美術鑑賞」大いに賛成です。全く見えない人にとって「目」の代わりが「触覚」になることは大いにあると思うから・・・。もちろん、いい加減な視力の私も「触覚」に頼ることは多々あるんだから・・・。私も触って見られる美術展があれば行ってみたい気もします。
今度は「鎖を外して」「好きなだけ近づいて」美術鑑賞しましょうなーんて会を催してほしいものです。
一つくらい・・・。
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目が悪いってこともまんざら悪いことでもないなぁーと思った事がついこないだありました。
ちょうど10日前に私はコンサートへ行きました。その時のトークの中に「もっと色んな人と話して想像しましょう。そしたらその人の命が愛しくなるはずです。優しくなるはずです」というコメントがありました。
その時私は思ったのです。普通に色々見えてるとその人の顔色やちょっとした表情の変化を目で見て、「あ、ちょっと気分悪くしたかな?」と思い、その時点で軌道修正をすぐにできます。でも私のようにちょっと目が悪いと「視覚に訴える」ことで判断することはやっぱり難しいです。そしたら私はどうやって人間関係をしてるんだろうと考えると、一杯話して、その人を知り、一杯話して、「想像」します。そして声色などで「顔色」の変わりに判断します。
道を説明された時、何かの使い方を説明された時、どんな時でも私の基本は「言葉」から「頭に描く」ことだとこのコメントを聞いた時実感しました。そういう意味で私は「意識して」想像することをしなくても「想像」してるんだなぁーって思いました。そしたら少しは「優しい」人間に近づいてるかなぁーって思ったりもして・・・。
でも、「優しい」というのは私が判断することではなくて「人が」判断することなので、私の「人生の花が散ってしまう時」にその答えが出るんだろうなぁーって思ってます。
一つくらい目が悪くても得な事があってもいいよねぇー? (^_^)v
目が悪いってこともまんざら悪いことでもないなぁーと思った事がついこないだありました。
ちょうど10日前に私はコンサートへ行きました。その時のトークの中に「もっと色んな人と話して想像しましょう。そしたらその人の命が愛しくなるはずです。優しくなるはずです」というコメントがありました。
その時私は思ったのです。普通に色々見えてるとその人の顔色やちょっとした表情の変化を目で見て、「あ、ちょっと気分悪くしたかな?」と思い、その時点で軌道修正をすぐにできます。でも私のようにちょっと目が悪いと「視覚に訴える」ことで判断することはやっぱり難しいです。そしたら私はどうやって人間関係をしてるんだろうと考えると、一杯話して、その人を知り、一杯話して、「想像」します。そして声色などで「顔色」の変わりに判断します。
道を説明された時、何かの使い方を説明された時、どんな時でも私の基本は「言葉」から「頭に描く」ことだとこのコメントを聞いた時実感しました。そういう意味で私は「意識して」想像することをしなくても「想像」してるんだなぁーって思いました。そしたら少しは「優しい」人間に近づいてるかなぁーって思ったりもして・・・。
でも、「優しい」というのは私が判断することではなくて「人が」判断することなので、私の「人生の花が散ってしまう時」にその答えが出るんだろうなぁーって思ってます。
一つくらい目が悪くても得な事があってもいいよねぇー? (^_^)v