さあ、最後の仕上げへ。
もうちょっと復習も兼ねて、見据えるものはもっと先も。
今度はクモハ2417に乗って、一駅だけ移動。
クモハ2417はクハ2418と共に1988(昭和63)年西武所沢工場製。
書類上の落成日は1988年3月25日で、新2000系の2451Fとは約2ヶ月しか違わない。
4両編成に至っては、既に廃車された2501Fと僅か1日、2503Fと5日、2505Fが6日差。
新2000系が当初は東急車輌で製造されていたのもあるが、ここまで近いのは相当珍しい。
しかもラストナンバー2419Fは、これらよりも後の1988年4月18日付の落成である。
既に屋根上通風機や床下機器は新2000系仕様となっており、何故車体が旧2000系とされたか
いくら廃車代替とはいえ、ずいぶん頑なだな…と感じさせる移り変わりである。
そんなことを考えながら、またも恋ヶ窪で下車。
新2000系も、ここ2年ほどで急激に廃車が進行した。
中でも4両編成は、既に9本が廃車となってしまった。
まだそれでもなお主力の一翼であり続けるものの、以前より見る機会は少なくなってきたか。
他社でも類例が思い出せないほどの実状「3Mユニット」の珍編成も、そう長くなさそうだ。
さて、撮った記憶が曖昧だった恋ヶ窪駅東村山方のホーム先端で、2031F国分寺行きを出迎え。
ポイントを渡るために速度を落とすのと、対向列車も被らないから少し落ち着けば楽勝。
そしてこのあたりから、国分寺線内の運転間隔が10分から12分に延びていた。
コロナ禍を経て減便されているのを、この期まで把握していなかった。
まぁおかげで、国分寺方にも早歩き程度で回り込むことができたのだが。
そして、発車も見送った。
しかもこの時、まだ東村山行きは恋ヶ窪駅に到着していない。
それを踏まえての、長めの停車時間。
運転間隔2分の延びは、思った以上に余裕をもたらしていた。
そして約1分、東村山行きを出迎え。
ここはまず、そのまま見送り。
続けて、折り返してきた2031Fを国分寺行きホームの東村山方で出迎え。
このパターンも、ホームで多少余裕を持って編成写真の撮影ができた。
そして、余裕をもって見送り。
間延びした時間間隔、感覚と共に、気持ちも次第に穏やかに。
これで大体、別れる踏ん切りがついた。
いよいよ最後の別れに向けて、自分なりの総仕上げになる。