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Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

アフリカ現代美術コレクションのすべて@世田谷美術館

 

ブルーノ・ムナーリに比べて全く人気のない展覧会。

そういえば、この2点セットで1000円は安い。アホみたいにミーハーが上野でお金を落としているのに比べてこちらは芸術を好きな人が多い印象があって非常に嬉しくなる。

 

さて、アフリカ美術。何それ?状態である。

アフリカについて知っていることはほとんどない。

タヒチってのはアフリカかしら?と思ったら、南太平洋だった。では、ジャコメッティが真似したのはアフリカかしら?ジャコメッティの立つ女がいかにもアフリカらしいと思ったけども、全然違うらしい。むしろ、古代イタリアのエトルリア文明に影響を受けているのだとか。

ということは、芸術について自分の前知識は0か。

医学としては、シエラレオネが小児の死亡率が一番ということを聞いたことがある。

VOAでイエメンの問題が多く取りざたされていて、子どもが紛争に赴いていること、何千人と子どもが戦争によって今も命を落としていることを聞いて悲しくなった。僕らは彼らに何をすることができるのだろう。地球人としてほっとけなくなってきている自分に喜びを感じながら、何をしたらいいかもわからなく悲観する。

多くの知識を得ていく中で、自分の世界の広がりを感じている。

世界が広がるにつれ、俯瞰的な視点でものごとを観察するようになり、日本を飛び出て世界に目を向けるようになった。世界という大きな括りの中で、日本はごく一部であり、それ以外にも見えていない部分が山ほどあることは事実である。

そもそも、日本文化という観点からも自分は取捨選択して自分自身はしないと思っていることを決めてしまっていると言っても過言ではない。人は、何かしらを見ないふりをして何かにだけ執着するものだ。その周りに向ける目をどれだけ持てるか、それが幸せに続くかもしれない。逆説的に不幸に続くかもしれない。

スポーツにしても、おそらく一生のうちには全てをすることはできないだろう。することが幸せに通ずるのかという疑問がいつも自分の根底にある。それは旅行も同じだ。何を得ることが良いことなのか。それは個人個人によって異なるだろうけども、僕は勉強をすることによってより多くのことを得ている。世界に目を向けた時に遠かった未来がすぐ側にある。それを人は成長という。

美術というものが何かわからないが、とりあえず、文化とでも言っておこう。

このアフリカ現代美術コレクションには、床屋の看板や服飾店の写真などもあった。住宅の壁などの写真も展示してあった。これらは単純な文化である。文化は巡り巡るし結局植民地支配の影響を免れない。ヨーロッパのようになっていることは仕方ない。そもそもアメリカだってヨーロッパの影響を色濃く受けている。

 

その中で、当然叫ばれるのは、アフリカのアイデンティティの確立と独立、不安定な状態を示す芸術である。

1989年「大地の魔術師たち」展がフランスで開かれた。「世界中から 100 人のすぐれた現代美術家の作品を集めて平等に見せる」企画であり、アフリカからは 17 人が選ばれた。しかし、欧米人の目から見て珍しいものだけを選び、エキゾチックさを強調したのではないかと言われた。

いろいろよくわからないのは、結局自分がアフリカについて知らないからだ。だから、背景が読めないし、作品だけを見てもどう解釈したらいいかわからない。例えば、アブドゥライ・コナテ「アフリカの力」という、赤い海の上に見える3つの筋の国旗のようなもの、その前には、蔓で吊るされた石と、その下に置かれた卵の大群。卵はアフリカの人たちを示すのか、過去の文化を示すのか、石は支配者であると思うが独裁者かヨーロッパか。といった当たり前な質問に対する答えが出ない。そういえば、この、緑、黄色、赤の国旗には意味があるはずで、今年の誕生日の姪っ子にあげた国旗カードに書いてあったはずだ。自然と、血と、、、忘れた。

「トーテム94()」を作成したパスカル・マルチーヌ・タユ。カメルーンの人らしい。男性だけど、女性形を使用し、ジェンダーを暗に批判していると。トーテム94はアサンブラージュのようなもので、ガラクタを集めたクルト・シュビッタース(Kurt Schwitters)やロバート・ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)を彷彿とさせたが、意味合いが同じか全然わからなかった。取り付けられた飲み物のキャップやペットボトルのようなゴミでトーテムを型作っていいのか不思議に思う。それは、日本人が仏像をガラクタから作るような所に位置しているのではと思うけど。

やっぱり理解できない。これから知識をつけていこう。

とりあえず、記録。

 

 

さて、少しネットを漁ると、アフリカをprimitive artsと位置づけているものがあり、ピカソの女性や、コンスタンティン・ブランクーシ、ヘンリー・ムーアも引き合いに出されている。

立つ女はやっぱりprimitiveなのか、

読んでみると(http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress018/?page_id=455)、ザンビア・チェワ社会のカモシカは、ラウシェンバーグのモノグラムにそっくりだった。

 

部族の仮面は面白いのが多い。

 

サカ・アクエ(1923-2007)/アナパ(1962-)/エル・アナツイ(1944-)/ムスタファ・ディメ(1952-1998)/ソカリ・ダグラス・キャンプ(1958-)/アブラデ・グローヴァー(1934-)/アブドゥライ・コナテ(1953-)/イッサ・サンブ(1945-2017)/パスカル・マルチーヌ・タユ(1967-

The Gift of the Magi, O. Henry
 
from VOA application,
Tomorrow will be the Christmas day, “the gift of the magi” is one of the most popular novels of O. Henry, as you know.

 

The story tells that love of two young couples, named Jim and Della.  

 

They are too poor to buy a wonderful, suitable, memorable gift each other even they cut their expense as possible as they could. They had two possessions which they valued. One was Jim’s gold watch, and the other was Della’s nice waterfull hair.
Della sold her hair to buy the silver chain to his gold watch. Jim sold his gold watch to buy the combs which Della wanted ever since she saw them. Both Della’s hair and Jim’s watch had gone.
 
書ききれないほど、愛情が深いことを感じる。英語力がなくて、伝わりにくいが、DellaがJimにsilver chainsを見せた時に、”Let us put our Christmas gifts away and keep them a while. They are too nice to use just right now."というJimaの対応もすごく涙を誘う。
 
もしも、もらったプレゼントが無用のものとなっても、お互いのために考えてくれたという行為に感謝する。このことは日頃でもよくある。患者は結果ではなく医師がどれだけ時間を割いてくれたかに感謝することもある。
たとえ、どれほど高価なものをもらったとしても、それが自分の意図にそぐわないのであれば、やはり感謝はされない。その時だけ、相手のことを考えたとしても、本当にその人にとって大切なものをプレゼントすることは難しく、日頃からその相手を大事にしていることが重要である。もしかすると、あまり悩まなくても、相手のことをいつも考えながら生きていれば、相手が何を欲しているか自然とわかるかもしれない。
近年、プレゼントが定番化しているように思う。女性相手であれば、ネックレス、イヤリング、指輪といった装飾品、カバン、時計、財布。男性もほぼ同様でネクタイやネクタイピンなどもここに含まれるだろう。季節に即したプレゼントとしてマフラー、手袋なども含まれると思う。Dellaがいう通り、something fine and rare, something close to being worthy of the honor of belonging to Jim.そういったものを探す必要があると思う。
この人は何を最も望んでいるのだろう。それを考えると、自分は何を望んでいるのだろうと自己分析することにもつながる。

ブルーノ・ムナーリ 「役に立たない機械をつくった男」@世田谷美術館

 
By all means, marry. If you get a good wife, you'll become happy; if you get a bad one, you'll become a philosopher.
Socrates
 
車の中で、実践ビジネス英語を勉強している時の言葉。
 
世田谷美術館を来訪するのは初めてだった。小平市から1時間半以上車でかかった。ひとえに交通渋滞のせいだ。
渋滞という予測できない因子の影響で僕の予定は大幅に乱れた。
世田谷美術館は砧公園(”きぬた"と読めなくて、なぜかずっと”はま”と読んでいた)の中に位置する。駐車場がかなり離れたところにある。駐車場は空いていて自分の車を含めても10台しか停まっていなかった。
紅葉などで人が賑わうのかと思われる砧公園は閑散としていた。もちろん、クリスマスシーズンだからだろう。
 
世田谷美術館の展覧会は、「ブルーノ・ムナーリ、役に立たない機械をつくった男」展と「アフリカ現代美術コレクションのすべて」だった。
時間がないことに加えて、「アフリカ現代美術」については、知識もない、音声ガイドもない、図録もないで結局何となく見ただけに留まっている。
 
ブルーノ・ムナーリ展は、是非とも子どもの親に見て欲しい展覧会だと思った。もちろん、子どもが見るというのでも良い。かなりのインパクトを与えてくれるはずだ。即、子どもの教育に役立ちそうなことが多かった。もちろん、幼児から知らしめた方が良いと思うので、正確には子育てを始める家庭に最適だと思った。
 
意識改革。
この響きを最近気に入って使用しているのだが、教育というものはこの「意識改革」に他ならないのだろうと思っている。昔、家庭教師をしていた時期があるが、家庭教師によって子どもの学業成績が伸びることは望めない。なぜなら、子どもが家庭教師に触れている時間は1週間のうちたったの2時間だったりするからだ。つまりは、2/(24*7) = 0.0119なので、約1.2%しか子どもは家庭教師から教育を受けていない。仮に睡眠時間を10時間としても2/(14*7) = 0.02, 2%しか占めない。そのため、重要なのはそれ以外の時間ということがわかる。とはいえ、自分の人生を思い返すと、ある言葉が自己形成に大きく関与していることがある。その言葉自体に触れる時間は10秒程度なのに何故なのだろう。
自分の考えという仮説の域を出ないが、気づき、感動、恐怖などに基づいていると考える。これは、いわゆる「アハ体験」であるし、「意識改革」である。感動という感情は、平坦な記憶とその貯蔵、表象を司るループ以外にも違う部分を使っている。違う部分を使うこと自体が記憶しやすくなるという結論に結びつくとは思えないが、記憶というものは、所詮、表象されて初めて認知されるものだということを考えると、通常のループ以外にも表象のトリガーとなりうるものが多ければ多い方が覚えやすいという仮説が成り立つ。これは、現象論としてはかなり根拠のある話で、単語単語を覚えるときに物語化すれば覚えやすいという実験データや、語呂合わせを作るときに下ネタを持ち出す方が覚えやすいということ、ただの文字としての知識よりも見たものの方が覚えやすいという現実からも理解は容易である。
 
ブルーノ・ムナーリは、この「意識改革」をしてくれるものを提示してくれる。
彼はイタリア未来派の影響をもろに受けている。このイタリア未来派は、確かにデュシャンなど近代美術の父の力をふんだんに利用しているのであるが、かなり新しい力を与える。ジャコモ・バッラ(Giacomo Balla)、ウンベルト・ボッチョーニ(Umberto Boccioni)、カルロ・カッラ(Carlo Carrà)、ルイジ・ロッソロ(Luigi Russolo)などの作品は機械的、運動的な印象を多く受ける。この後の系譜としては、もの派が値するのではないかと思うけど、自信がないので成書を確認したい。Giacomo Ballaは[Dynamism of a Dog on a Leash(1912)]しか知らないし、なんかアニメーションみたいで可愛いので一度見たら忘れはしないと思う。Luigi Russoloは騒音芸術(L'arte dei rumori)、楽器?イントナリモールなるものを作成している。Umberto Boccioniは「空間における連続性の唯一の形態」が有名である。自分としては「階段を降りる裸体(デュシャン)」の彫刻版に見える。
 
キネティック・アートを提唱したのはデュシャンであり、本展覧会の「何の役にも立たない」ものは、キネティック・アートの一種だろう。小学生の時にだれでも、釣り合い(天秤)について勉強をしたことがあるだろう。それを思い出させるものだ。素描では、どのモーメントを作れば釣り合いが取れるか計算をしながら作成し実行される。
現実的には、元々の設計に加えて実験ができるので、作成は簡単である。「そのやり方を知っていれば簡単なこと」である。
 
個人的に大変面白く思ったものは、「おしゃべりフォーク」と「偏向器」である。
他にも「木を描こう」「自由な時間」「ハイ・テンション」「黒い彫刻」「短い訪問者のための椅子」「凹凸」などなど独創性に溢れた大変面白いものが多い。
 
おしゃべりフォークはフォークの先端を捻じ曲げてフォークに感情を与えた作品である。言われれば、もう自分でもできる。しかも、この独創性をあらゆる点に応用することができる。フォーク以外のもの、例えば、シャツでもズボンでも、手袋でも同じ試みができる。しかし、自分には思いつかなかった。そして思いつくとは思わない。感情というものは、表層に流出しているものであり、そのことは文学を嗜む人であればだれでも理解しているはずだ。Lost generationの文学を確認したらいい。それに、良い作者というものは感情を書かなくても感情を際立たせることが上手だ。京文化のようにironicalな面がある文化もあるが、それも含めて行動や行為はその人自身の感情を表に晒す。フォークも同じだ。その通りだ。同様に、目、鼻、口があれば顔になる。構成によって、顔は表情を生み出す。VS Ramachandran博士が伝えるkikiとBoubaと同じだ(脳の中の幽霊、https://www.ted.com/talks/vilayanur_ramachandran_on_your_mind#t-1294577) 。
言語とは何か?人が伝えうることは何か?を考えるに良い機会だった。
ブルーノ・ムナーリは、著名な言語学者であるウンベルト・エーコとも知り合いであるし、この言語というものにも非常に興味を持っていたのだという。まだ薔薇の名前も読めていない(挫折した)自分としては耳が痛い。
 
そして、形に対する意識。
ギフトショップには、「まる」「さんかく」「しかく」の本が売っており、どうしても購入したかったが、総額が1万円も越えようとしたので諦めた。特に秀逸なものが「しかく」。彼は特に正方形を好むが、「凹凸」では、この正方形を歪めて不思議な形を作り出すことに成功している。幾何学を納めていなければ哲学ができなかったとプラトンは言っていたような気がするし、スピノザのエチカはなんとも幾何学的な論理学的なものであるし、同様の観念を感じた。
 
ブルーノは木を観察して、木の成長には規則性を見出せるのではないかと考えた。これは僕も完全に同意見。
繰り返しの過程を経ることで形が作られていく。
「木を描こう」という作品に込められた石が見える。
「木」というものは想像しえた形を呈しているか、それとも否か。僕は、想像しえた形の木は存在する、ないしは、存在したと考える。例えば、一本の幹から二つの幹に枝分かれをし、その二つの幹はさらに倍に枝分かれをする。葉はある規則に則って枝に付き、重力と風邪と太陽光に依存しながら枝の伸張と後退を繰り返す。結果、一つの木が想像されるが、もちろん、その想像は現実に合致しない。杉と松と桜ともみの木とと、木は種類によって違った形を呈するが、それは、コンポーネントと規則性の順序とが異なることによって生まれた差である。歴史的に生存競争に打ち勝てず消失してしまって存在し得なかった木も存在するだろうが、それは存在した後に消失したと考えるか存在しなかったと考えるかは人に任せる。僕は存在した後に消失したという理論を信じる。これは、ブルーノのどのような芸術形態にも合致する。そもそも、色彩論や不協和音だって同じようなことを言っているのだと思う。ドミソではなくてドレソだって存在しているが、協和音から外されているだけだ。
 
大変面白い企画だった。
行かれていないかたはぜひ。
失われた巨人
 カズオ・イシグロ 土屋政雄訳
 
一年以上前に読んだ感想。
 
2015年に発表された、カズオ・イシグロの作品。
2017年ノーベル文学賞に受賞され、その存在を知りました。村上春樹も絶賛していると言う点と、単なるミーハーな気持ちで読んでみました。
まず、巨人として、僕の頭に浮かぶのはどうしても「巨人の肩の上に立つ」です。そして、ギリシャ神話などに出てくる巨人たち。ゼウス・ヘラやオリュンポス十二神以前の統治国家の神々を思ってしまいます。オリオンとディアナ。文中にも巨人をメタファーとして使用している箇所がありますし、解説でもそう評されています。
[かつて地中に葬られ、忘れられていた巨人が動き出します。遠からず立ち上がるでしょうp447。」巨人と評するのがやはり適切なんでしょうか。
アーサー王によるブリトン人とアングロ・サクソン人統一後の安寧したブリテン島を舞台としたファンタジーとなりうる状態をイシグロは見事に普遍的な物語として描出しきっています。
早川書房が出したブックカバーに収まりきらない少し大きめの文庫本は、やはり、若干対象年齢を高めたのでしょうか。
どこの文化でも、記憶を抑圧することは多々あります。そして、その抑圧された記憶は霧がかかったように霞んでいる。しかし、それによって社会は丸く回っているとも言えます。
このことはカズオ・イシグロはテレビでも言及していました。「日本は軍国主義でおかした過ちを忘れ去ることによって平和な民主主義になった。」
アクセルとベアトリスの愛を確かめるべく記憶を戻すことがラブストーリーとしての大きな根幹ですが、この愛に関しても、揺れ動く感情が見事に表現されています。
「クエリグが死んで霧が晴れ、記憶が戻ってきたとする。戻ってくる記憶には、お前をがっかりさせるものがあるかもしれない。わたしの悪行を思い出して、わたしを見る目が変わるかもしれない。それでも、これを約束してほしい。今この瞬間におまえの心にあるわたしへの思いを忘れないでほしい。だってな、せっかく記憶が戻ってきても、今ある記憶がそのために押しのけられてしまうんじゃ、霧から記憶を取り戻す意味がないと思う。p389」
疑心暗鬼になっているところがリアリティを持たせています。もちろん、負のイメージがない小説は小説とは思えませんが。人間には相反する感情が渦巻いているはずなので、常に希望を持って人生を歩むことはできるはずがないのです。読者が読むわずかな時間を登場人物に投影させて、感情の揺れ動くところが美しくみえます。
対して、ガヴァイン卿は同様の信念を繰り返す節もあります。それも、人間たらしめている点だと思います。どうしても、小説なので、重複が抜けてしまうこともありますが、この作品では何度も同じことが繰り返されました。
船頭のになっている役割には大変感服しました。と言っても、帰り道に会うだろうなと予想はされましたが。
形式だけの確認というのは非常に正しいことです。形骸化したルーチン作業にも見えますが、その作業を軽視するのではなく、つまり、重要なのは問う内容ではなく、全体像だということを色濃く映してくれます。「愛情は言葉ではないよ。」と声が聞こえるようです。
まぁ、総じて、ほとんどの感想は、解説と同じです。文化の抑圧を知らず知らずに僕らは行なっています。そして、それが正しいか正しくないかはわかりません。アーサー王もクリエグもいなくなった中、登場人物の運命は自分自身で切り開かなければならないのです。これは、唯神論が打破された状況に類似します。現在でいうところの科学信仰でしょうか。医師でいうとガイドライン信仰でしょうか。いずれにせよ、記憶だったり正しいことだったり、そういう点に関しては、誰かに言われて意見を変容させるのではなく、自分自身で考えることが重要だということでしょうか。「ブリテン人全てを憎みなさい」と忠義を誓うウィスタンに言われたエドウィンは、アクセルとベアトリスを憎むことなく過ごすでしょう。
そして、特筆すべきもう一つの点はやはり、僕には「流れ」に見えます。ガヴェイン卿もウィスタンも双方の強さを映し出すことを中間では重視しています。そのおかげで最終的な決闘が素晴らしいものになりました。
あと、ガヴェィンが剣を地面に突き刺すシーンが多いです。ウィスタンともそこは議論になりました(おそらく、イシグロは読者が不審がることを見越していたんでしょう)。剣を抜いて置かないと速度が間に合わないと。あまり、アーサー王伝説を知らない僕にはこれがエクスカリバーにダブりますが正しいのでしょうか?エクスカリバーは正統な者にしか抜くことができない剣。何度も抜き差しされる剣はエクスカリバーとは異なることを暗示しているみたいに見えました・
 
わたしを離さないで
カズオ・イシグロ本。第二弾。
 
(一年前に読んだ文章の再掲載です。ただの記録です。)
 
失われた巨人の次に読んだ本。
カズオ・イシグロの流れるような敬語は美しかった。
そもそも、初めの段階では背景が入ってこなかった。情報の小出しの仕方が上手だった。夏目漱石の文章もそうだというので一度読んで見たい。
キャシーによる一人称物語なのに、どうしてか様々な人の考えが映し出されていた。その手法が卓越していた。そして、クローン人間を扱うというありきたりなテーマの中に表現される普遍性。
僕は、基本的に人間は多価性を有した生き物で、思想と発言が一致しないことは珍しくなく、そもそも、思想も矛盾するような思想もほんの少し異なる思想も多くが内在しているのが人間という生き物だと思っている。性欲を感じる一方で理性がそれを抑制するように。この考え方はフロイトのエゴとイドに似ているかもしれない。
多価性がそもそも普通であって、そのため、一貫して連綿と続く思考なんて嘘っぱちだと思っている。それなのに、登場人物は一個の思考を持って動くような文章からなる物語は作者によって作られた人物像でしかない。要するに文章の中で彼らは生きていない。カズオ・イシグロに出てくる登場人物はほんの少しずつ異なった感情を抱いている、ように見えた。例えば、ポシブルを探すシーンに意気揚々とする一方で不安も垣間見えたりと。その点が非常に勉強になった。