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CACHETTOID

Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

レ・ミゼラブル
ヴィクトル・ユゴー作
 
とうとう、レ・ミゼラブル、第一巻を読了した。
新潮文庫、佐藤朔訳である。
 
 
レ・ミゼラブルにどっぷりとはまったのは、二年前にレ・ミゼラブルの映画(2012年作)を鑑賞したからに他ならない。
前からずっとそのうち読まなければいけないと強迫観念に囚われていた。岩波文庫のレ・ミゼラブルに手を出そうかと思ったが、どうしても字が小さくて読み切る自信がなかった。そのため、たった、4000円(800円×5)をけちっていたのだ。
しかし、フランス好き、本好きの自分がこれをも持っていないことに対しても恥ずかしさを覚えるようになり、とうとう購入した。それが2018年10月19日のことだ。なんと長い時間がそこから立ったことだろう。二ヶ月の時を経て、ようやく、やっとの思いで一冊目を読み終わった。
実際には、読むことに苦労したというわけではなく、日々の労働、勉学に邪魔され、読む時間を作ることができなかっただけである。読むにはあまり努力は必要なかった。大変読みやすい文章だった。
二年前、読むことに逡巡した理由は物語の長さと前評判である。ユゴーは、本筋とは関係のない内容をたらたらと書き続け、それを自分の特権と思っているとどこかで読んだことがあった。また、翻訳本が古く、自分には読みきれないのかと思っていた。新潮文庫は、初版は昭和42年(1967年)であり、岩波文庫は1987年の完訳である。これを思うと岩波文庫の方が新しい。自分が懇意にしている光文社古典新訳では、まだレ・ミゼラブルは刊行されていない。待っていたけれども待ちきれずに新潮文庫に手をかけた。思ったよりもユゴーの情景の説明はなかった。
 
レ・ミゼラブルはLes miserable, 惨めな人達だ。複数形になっており、miserablesが女性名詞か男性名詞かわからない。miserableがいつ作られたのか、少し興味があるところである。
この話は「人間失格」に出てきた喜劇と悲劇の言い合いとも似ていると思う。
複数であるので、惨めな人達はジャン・ヴァルジャンであるし、フォンチーヌであるし、ジャベールであるし、コゼットである。まだ、一巻であり、マリウスやエポチーニは出てきていないが、彼らもこの時代の惨めな人達の一部である。
 
初めは、ディーニュ司祭の説明から始まる。いかに彼が聖人であるかがひたすらと語られる。映画では一瞬ですっ飛ばされている節であるが、非常に重要である。ディーニュ司祭が、ジャン・ヴァルジャンに銀の燭台を与えるシーンは映画同様素晴らしい。ちなみに、ジョジョの奇妙な冒険でジョースター卿が盗人に伝える場面はこれに影響され、モチーフにしているだろうし、非常に尊敬に値する。監獄からとうとう出てきたジャン・ヴァルジャンはディーニュ司祭の温かさに触れ、心を入れ替えた。にも関わらず、偶発的にプチ・ジェルヴェの銀貨を盗んでしまう。悲しい事故である。ユゴーのこの場面の描き方は非常に上手だ。僕らはすでに映画などの他の媒体を通して結末を知っているため、ジャン・ヴァルジャンが心を入れ替えたことは知っているが、それがいつなのかは知らなかったため、この銀貨を盗むシーンはで「まだ心を入れ替えていないのか!」と読み始めはどきどきしながら読み進めたが、そうではないことが読んでいくうちにわかり、非常に卓越していた。
その後は、ご存知の通り。ヴァルジャンは銀の燭台と共に聖人への道を歩く。
シャン・マチウがヴァルジャンと間違えられ、リンゴを盗んだことと前科者のため、監獄送りになるときに、ヴァルジャンが自問自答するところもとても人間らしくて良い。
これは、再三自分が色々なところで話していることであるが、人間は多価的なもので、相反する感情を心の中に飼うことができる。彼らはその内面で、戦い、最終的には行為のみが行動として他人に認知される。物語の性質上、神目線の三人称文体では、登場人物全員の心の中を知ることができるため、多価性を描きだすことができるが、現実や一人称物語では、他人の心の奥底をうかがい知ることは本当はできない。僕らは単純に、他人の行動によって内面を評価するしかない。例えば、二人の男女が向かい合って話をしている時に、一方が視線を泳がせる、違う方向を見る、しきりにストローで飲み物をかき回している、足を組み直す、携帯電話に手をやる、ウェイターをよぶ、といった行為はもう一方の会話に飽きているないしは興味がないことを示している。もちろん、内面を的確に表すことはできないため、実際のところは不明であるが、そうなのである。そのため、登場人物が一方向性にしか向いていない文章は稚拙である。下手くそな登場人物の拙劣な説明(「臆病だが大事な場面ではしっかり者」「ガサツに見えるが根は真面目」といった具合)のある文章はより稚拙である。読者はこの説明がきによって、この人はガサツな行動をしているけども根は真面目だから本当は良いことをしようと考えているに違いないと無理に解釈させられる。確かに、レ・ミゼラブルに出てくるジャベールは尊敬、厳格の生き写しであるため、二面性を現在のところは持っていおらず、ぶれることがないが、後半の話に期待しよう(僕らはこの結末も知っている)。
自首するか隠れるかという究極の二択を迫られ、ひたすら悩むヴァルジャン。これこそが人間である。to be or not to be, that’s the question。
行為を為す時に、人は自分のことを考える。自分のことしか考えられなくなる。ヴァルジャンには、人を騙そうとかそういった感情は既になくなっているため、シャン・マチウのことを考え、自首を考えるが、同時に多数の大勢を考え、自首を保留にもする。ここには少し論理の飛躍がありそうだが、まぁ、いいとしよう。
フォンティーヌはこの第一巻の中では一番惨めな人であった。貧乏と無知ゆえに子供を身籠り、さらに最愛の娘をテナルディエに預けてしまう。テナルディエの非道さは[master of the house]からもわかるだろう。Mix it in a mincer and pretend it's beef, Kidney of a horse, liver of a cat, filling up the sausages with this and that..唯一の救いは彼女は不幸な娘の姿を見ずに天に召されたことである。
春琴抄を読みながら、僕は、オム・ファタルなんだろうと思った。
 
そういえば、僕は昔から一番になりたいわけではなかった。
理想はキングではなくナイトだった。
一番ではなく、自分のすべての才能を捧げることによってある天才を支えることができることが僕の希望だった。いつからかそんな気持ちはなくなった。
 
女性という異形なものは生まれからして明らかに自らではなく、故に彼女たちのように生きることは僕には不可能で、そこを比較対照し、この女より自分の方が聡明だとなどいうことは議論の意味がないと思っていた。
 
女は、やはり男の人生を狂わし得るし、狂わす権利があると思ってしまう。それはそのある女が気韻に満ちているからか。女に終生身を捧げたいと思う。
女にそれを知らしめることは、そのある女の人生に男の影を影響させることになるし、それが嬉しいと感じる男は、結局男自身の気位も高いのだろう。
 
帰り道に見た月は、寝待ち月だった。肉眼的に見えた月はすでに右側がかなりの部分欠けていたのだが、心の根底を見透かすと十六夜の方が理想的だったのだろう。現実は理想と寄り添うことはない。ほとんど顔を上げずに地平線上ほんのり少し上に見えた月。なぜかすごく綺麗だと思った。
欠けたるその月は、無欠よりも欠点がある方が人間味があって共感を得ることを示しているんだろう。
 
場所は出光美術館。2018/08/11の記録。
ルオーの絵画は数点常設されている。
 
今回のテーマは、江戸。
江戸には縁もゆかりもない。縁もゆかりもないってちょっと面白い表現だなと思う。
ゆかりも所縁だから、意味が被ってるじゃないかと。縁はないでいいのに。
とは言いつつ、今現在東京に住んでいるわけだから、これまで滞在していない街と比較すれば、縁があるということになる。
ただ、交通の拠点でもあり、東京にはむしろ様々な理由でおとづれることがあるので、より、縁が希薄となっている。
 
江戸時代というのは、よく考えるとこれもおもしろい命名方法だと思う。江戸がそのまま地名だからだ。それほど、拠点が主張されていたことを感じる。
洛中洛南図と比較して、江戸名所図は、人が多かった。
いい意味で、人を絵画の中心とする。あ、絵画というよりも歴史的産物といったほうがいい。
 
芸術というものは何なのかという議論をした時に、感覚に頼るのか理性に頼るのか、感覚に頼るとしてもそれは教育を受けてきた上での感覚であって、誰しもが正しいと思うものではないし、かといって理性も同様だ。
これらの屏風について、「素晴らしい」と感嘆できないのは、僕のそういった理性と感覚の双方が欠落しているだけなのだろうか。そもそも、文系の勉強を受けてこなかった僕にとって。とは言いつつ、では文系の人達がきちんと理解して記憶しているかというと甚だ疑問だ。僕自身、数学も物理も化学も忘れかけているから。となると、非専門家はほとんどだーれもわかっていないということで、では、何を見にこの人達はきているのか。周りを見渡すと大体が50歳代程度で一部外国人が紛れ込んでいた。これは、ある意味本邦を代表する歴史的なものということができよう。若い世代には興味がないからだ。
 
若い世代と一括りにすることはよくない。人によりけりだろうし、僕自身も十分若い世代に入るだろうし、おそらくは、こういった歴史を好きだとか江戸屏風を説明できるほど長けた人も存在する。それらは一握りではあるだろうけども。一握りの人が理解する世界というものを僕が理解する必要があるのかと言われると、細を穿ち過ぎかなと思う。それよりも満遍なくしょうもないことも含めて楽しんだほうがいいんじゃないか、情報過多の時代に即してみたらと。
 
僕の趣味というものとして読書と芸術鑑賞を常々掲げているのだが、実際におモテになる趣味というのは、スポーツだったりするらしい。この事実には僕は笑うしかないなと思った。スポーツが趣味って何をもって趣味といっているのか僕には判断に困る。スポーツというものは、その人が存在しようとしまいとそこに存在していて、その人が上手にできようと上手にできなかろうとスポーツとして成り立つ。相撲だろうがパラグライダーだろうがカバディだろうがセパタクローだろうが卓球だろうがなんにせよ、下手の横好きは実現しうる。というよりも、ものすごく簡単に成立する。
その下手の横好き状態は趣味なのか?ということになる。「趣味です。」と、口が揃いそうだが、とすると、「お酒が好き」だとか「コーヒーが好き」だとか、これらは美術も一緒で、「どんなお酒をお飲みになるの?」と聞くと「ビールだけだよ」という人のことを「お酒が趣味な人」と思うだろうか。笑止千万だと思う。なぜなら、おそらくは趣味、アマチュアの域にには深い知識がいると無意識的に認識しているからではないかと思う。それは好きだから知っているはずであるということになる。
ここには、「好きだから知る=上手になる」という理論を立てることができて、スポーツも結局一緒かなと思うのだけど、事実だろうか。
ドライブが趣味、旅行が趣味。
やっぱりそういう人とは相容れないなぁと思ってしまう。
 
芸術が好きという人はたくさん存在し、彼らは僕に「何が好きですか」と聞いてくる。
まだまだ勉強が足りず、答えが出ないのが事実だ。
 
江戸の絵は、人がほとんどだった。ここには偏見が潜んでいるし、結局そういう展覧会だからなのだろうけども、こんなにも人がひしめき合っている絵画を海外で見たことはない。
いや、一応はミケランジェロとかロダンとかの作品がそこに位置するんだろうか。しかし、何か違う。
文章抄本(谷崎潤一郎)に書かれていたことを思い出す。
海外の文では、これでもかというほど詳細な描写を施してくる。これは、日本人には多すぎる情報で、日本人はその間を埋めることができる。
間を支配することが大事。この文化は日本独自のようだ。
 
江戸屏風は人は多いがある意味簡略化していると思った。
着物など凝った描写もあるが、そもそも2000人を書いていてどれも個性とかリアリティをことごとく追求したということは嘘にしか聞こえないし、やっぱり簡略化されていると思う。
簡略化というのは、一般化と言い換えることができる。
 
魅力を感じるにはこの道は遠そうだ。
 

メモ。
実際に使用する場合はこちらは、一切責任は取れません。

検査
 血清セルロプラスミン値 <10mg/dlで強く疑う。<20mg/dlで鑑別する必要がある。
 血清セルロプラスミン値が正常であってもWDを否定することはできない。

 24時間尿中銅 symptomatic patientsでは、通常 >100microg/day,  40-100microg/dayでも否定することはできない。 
血中銅:WDで低下する。血中遊離銅はWDで増加する。

ペニシラミン負荷テストは小児において有用、症候性の子供で尿中銅<100microg/24h1でペニシラミン負荷試験をする

肝組織内銅:

血中遊離銅 = 血中銅ー3.15×セルロプラスミン,
遊離銅は正常 10-15microg/dl, WDでは20-25microg/dl以上


あと、尿酸もかいてある。WDで尿酸が低下する

腹部画像検査:言わずもがな。

 

「芸術というものは、ある事柄を明らかにする学問である。」
 
僕はこのセリフを放送大学から聞き、非常に感銘を受けた。
長い長い系譜からすると、芸術は確かに近代になり異常な速度で発達した。
この発達の速度は工学に匹敵する。もちろん、工学の方がより早期に発展したと言える。僕は医学者なので、医学の発展を対比的に持ち出すわけだが、医学の発展は芸術の発展よりも四半世紀程度遅れているのではないかと思う。もちろん、発達の程度を推し量ることはできないだろうし、爆発的に進歩している現代美術、現代工学、現代医学をどれの進歩がより著しいかということを論ずることは困難だ。
 
不思議なことに、どの分野でも革命と形容するしか方法がないと思われるような重大な人や出来事が生じてきた。
 
中世においては、レオナルド・ダ・ヴィンチなどルネサンス期における遠近法などの手法であるし、
医学では、アンドレウス・ヴェサリウスの解剖学の発展である。
工学においてもガリレオやニュートンによって力学の基礎が築かれた。
それらののちに、蒸気機関車などが発達した。
 
どの分野においても人類の大いなる進歩に至らしめたものは、印刷技術であろうと思う。印刷技術によって、人間は「思想」を保存することができるようになった。さらに、蒸気機関車など交通手段の発達により、情報を流布することができるようになった。情報の保存という観点はどの分野でも非常に重要である。これまでも紙媒体において文字や絵画を使用して考えの保存と発展を行ってきたが、所詮は身の回りの手が届く範囲内での話だった。情報伝達は紙媒体の写しや口頭によった。これにむしろ恩恵を授かったものは、新約聖書や旧約聖書であろうし、口頭で伝達されることにより不必要な情報が削ぎ落とされ、重要なもののみが残っていったと考えられるし、その文化に根付いた伝承となった。これは、いわゆるローカルルールというものを考えてみたらよい。
 
学術的には、伝達され得なかったものがどうなっていったかが非常に興味がある。仮に、ある数式を突きつけられた時、ピタゴラスの定理を突きつけられた時に、それを証明もせずに自分の重要な理論の武装のために使用できるかということである。後世の学者は幸い、自ら証明をしていったのだろうか。科学は進歩せずに、一人一人の限界点で頓挫していた。印刷技術により、保存が飛躍的に可能になったことによって、他人の証明を利用することができるようになった。「驚くべき証明方法を思いついたが書き記す余白がない」と証明を利用できなかった。この保存可能性というものについては、実学において多大に活用され、物理学や数学、生物学の理解により、医学などが発展していくことになった。
芸術においても、実は同様の過程が必要であることが示唆される。
 
繋がりが発展を生む。
 
影響を受けることによって創造性が発揮される。
無からは何も生まれない。
 
カンディンスキーはモネの積みわらに影響を受けた。
ピカソはセザンヌに影響を受けた。
ターナーの印象的な風景画はモネら印象派の下地になったであろう。
クールベの写実性と現実性もまた然り。
ルーベンスもティティアーノから多大な影響を受けている。
そもそもの起源はローマに通ず。
ゴッホは真似をする達人であるし、影響を受けるということは、巨人の肩の上に乗ると言い換えることもできる。
セザンヌからキュビズムが生まれ、キュビズムから抽象主義が生まれ、抽象主義から反芸術やポップアートが生まれ、ランドアートも同様に抽象主義に源泉をみることができる。
 
対称的に生の芸術といわれる、アート・ビュレットは対をなすものと考えられるけども、対照を見据えることでアール・ビュレットが生じている。
 
医学においては、考え方の発展、解析方法、妥当性などの観点からも生の医学は存在し得ないと思われる。医学において生の医学を行なうと、採血すらできないかもしれない!
 
ということは、医学や科学は全て何かの上に成り立っているのである。
工学の発展により医学は発展する。
僕は、それはなんとおもしろくないことだと思っているが(工学が偉そうだ)、それは真実であり、よく考えると、工学の前には物理学や数学があるんだろう。
 
何が言いたいかわかりにくいかもしれないが、つまり、なんでも発展したものは利用しろということだ。利用できるものは利用した方が良い。最新技術は使用できるのであれば使用すべきである。
 
さて、ある研究室はお金がなく、お金というのは研究の業績とこれから行う研究の社会還元の見込みに対して生み出されるものである。お金がないと良い研究ができないというのは理にかなっている。しかし、業績のない分野にお金をかける道理はない。あたかもこれは人生のようでもある。お金というものは重要だということがよくわかる。
 
常々、自分が他人に対して理解できないものは、なぜ生きているのかという命題である。金の必要性は十分承知している。彼らは自分自身が稼ぐちっぽけな金額しか目に見えていない。研究を行う時には数千万から億単位の金が動く。数百万円を稼いで日々高くても数万円の食べ物を食べることと、数千から億の金を使用して最先端の研究をすること、どちらが魅力的かはいうまでもない。