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CACHETTOID

Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

夏休みの来訪です。
2018年10月10日の記録です。
平日午前なので、平均年齢が高い。基本的に定年した人達しかいない。
それは、こういった仏像の展覧会なので、なおさらなのかもしれない。
 
前知識として、快慶・運慶は、慶派と呼ばれる鎌倉時代の仏師たち。
その弟子として肥後定慶などが存在する。
 
 
はじめにあった、そもそも、大報恩寺というものは何なのかという紹介は、鎌倉時代の後の室町時代の画家、狩野松栄(狩野永徳の父、狩野正伸の3男?)によるもの。
絵としては、自分には、もっけいとか雪舟の絵に近いと思える。でも、雪舟の慧可断臂図ほど和を感じないため、山水画と行った印象。
そして、その後、洛中洛外図屏風(これは、狩野永徳の作品の真似なので、)、中村さんのじょうやとかいう誰って偉人が書いたらしい。
あとは、この大報恩寺に保存されている経典。
 
傅大士坐像(りんどうの人?)、ここまでは前座。
 
行快(誰かもう忘れた)
 
そして、快慶の十大弟子立像
釈迦如来の息子である、羅睺羅像とかもある。
一つ一つが◯◯第一と、何らかのスローガンを掲げている。
年齢は一番わかい阿難陀(アナンダ)から、腰が曲がった目犍連(モクケンレン)まで。
この何々第一はそれぞれの人となりも表していそうだけど、でも、彼らがもっている持ち物とか(例えば、智慧第一の舎利弗立像のもっている錫杖)が何かわからないので、外見からどの弟子か判断が僕にはできない。
 
舎利弗:智慧第一
目犍連:神通第一(いざという時に超能力が使え、地獄の母を救ったとか)
大迦葉:頭陀第一(清貧を貫いて修行に励む)
須菩提:解空第一(何事にも執着しないことこそ、真理です)
富楼那:説法第一
迦施延:議論第一(理論科)
阿那律:天眼第一(目は見えませんが心の目で見えます)
優波離:持律第一(基本に忠実、戒律を守ることが大事です)
羅睺羅:密行第一(綿密に隅々まで怠らずに精進しました)
阿難陀:多聞第一(話を一番よく聞きました)
 
うーん。多すぎ!そして、「かせんえん」だけ変換で出てこないでかわいそう。。。
こうやって十大弟子をみると、どれも大事だと思う。
どれがベストということはない。
 
それから、定慶作の六観音菩薩像
今回の目玉。大きい仏像で、すごく綺麗で木造なのがよくわかるし、保存状態もいい。1224年からずっと残っているところが歴史的に重要である。こういうのを運ぶ仕事っていうのは大変だなあと思う。もしかしたら、重要性をわかっていないのかもしれない。
さて、六道を救う観音は、それぞれに名前がある。
まず、六道は、「天道」「人道」「阿修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」。
何度かお目にかかったことがあるけれども、やっと覚えることができた。
今回、畜生道というのが野性動物の生きる弱肉強食の世界ということを聞いたことが理解の助けになった。
天道は、神様がすむ。次は、人、そして、人と動物の間の本能人間である阿修羅(ここが好き。)畜生っていうのは家畜とかからわかる通り動物、そして、餓鬼、鬼のような鬼じゃないような。最後に地獄。
と言う具合にすれば、割と簡単に理解できた。
六観音は、
如意輪観音=天道
准胝観音=人道
十一面観音=阿修羅像
馬頭観音=畜生道
千手観音=餓鬼道
聖観音=地獄道
これは、11面観音は、悪いことをしているとすぐに見つかりますよという阿修羅を取り締まる。畜生は馬頭だし、餓鬼を捕まえる千手。ここまでは腑に落ちたけど、准胝観音は理解できていない。
 
そして、せっかく仏像を見たので、仏像の作り方を勉強しないとと思うのだけど、書かれていないので理解できなかった。
Duchamp展がやってるのを知らなかったけど、来ることができてよかった。
東京は展覧会が多いから、美術など学習の場としては飽きない。
 
Duchampのキーワードはレディメイドだ。でもキネティック・アートの先駆者でもあるし、キュビスムも代表的な作品の一つだし、ビデオ・アートやシュルレアリスム、ダダイズムなどの概念も見られる。
 
大ガラスはやっぱり全くもって理解できないし、こじつけとかもあるんではないかと思ってしまう。
泉。すごく有名な作品なので、知らない人なんていないんじゃないかと思っている。が、去年の自分も知らなかったので、限定的に美術を好きな人なら知らない人なんていないんじゃないかという言葉に変換させてもらう。
人は、生きていく上で成長を夢見ながら生きている訳で、その中で退化が仮に起こっているとしても仕方がないが、つまり、選択をすることが重要で、選択をしないという選択をすることも憂慮されるが、そのような事柄を知らずに何も考えずに生活をすることは許すことができない。
 
大学六年生の時に、フィラデルフィア美術館に行ったことがあるが、その時はほとんど美術というものを知らなかった。よく考えると、ニューヨーク近代美術館も拝観しているのだが、ほとんど記憶にない。当時は自分自身しっかり覚えようと思って見たのだろうか、それともなんとなく流してしまったのだろうか。全然記憶にない。デュシャンの「遺作」は、木製の古びた木の扉に穿かれた小さな穴を覗くと、裸体の女性の素足が見えるという作品であり、それも、フィラデルフィア美術館の代表作だ。僕は、「遺作」のビデオ映像をみて、にわかにフィラデルフィア美術館で同作品を見たことを思い出した。確かに、同じような、いや、それは絶対に同じだったに違いないのだけど、同じような作品を見た。当時は知識が欠けていたため、なんなのかを理解することができずに過ごしていた。よく考えたら、あの時みた作品、そういえば、絵から木が付き出ているような作品(アサンブラージュに思える)も有名な芸術家だったかもしれない。あいにく、今でさえもその作品が誰のであるということがはっきり言えない。
ともすると、今回見ることができた泉、階段を降りる女性、大かがみ、LHOOPなど彼の有名な作品を見たことも僕は忘れてしまうのだろうか。なんとなくそれは違うのではないかと感じる。それも、前に知識があるかどうかで忘却率は全然違うからだ。しかし、その記憶に保持されるという点においては、反復練習が重要であって、そして、実物を見ることつまり百聞は一見にしかずが重要なのであろう。その点においては、本だけで勉強するのではなく、確かに実物を見に旅行に行けということになろうか。
しかし、本物を見にいくメリットはなんだろうか。これはいつも感度の問題だと思っている。自分自身が本で感動をできる感銘を受ける、今後の考え方や生き方に影響を与えうるのであれば、本で知識を得るほうが断然コストパフォーマンスがいい。結局、実物を見るという経験は、足に負担を与え、時間を欠けているため、経験が一見に勝るように感じられるが、一見も同様の時間をかけることができれば、劣らないのではないかと思える。
というわけではあるけども、結局自分自身で勉強することには限界があるので、やっぱり他人・他のものを用いて勉学に励むことが重要であろう。
 
そして、なぜ、このような美術館賞をするのか。その理由も時折思い返す必要がある。僕は、それら美術作品を見て、綺麗だからとか盲目的に発言する人間は嫌いだ。彼らは本当に「泉」を見て同じ発言をするだろうか。もしもするのだとしたら、彼らは、日々トイレで同じ発言をしていないと行けない。ということは、彼らは、知識がない場合には「良いもの」と言われていることを盲目的に信じているだけということになる。
 
本展覧会はDuchampの有名作品を全て(自分が思いつく限り)網羅していたのではないだろうか。
アートとはなにか?
 
そう考えるときに、美術が好きですと、これがあーとですと言われることが少なからずある。よく考えるとアートというものの定義はあやふやなので、突拍子もないことや、想像力を超えたこと、あらゆる快楽や面白みというのはアートの部類に入る可能性がある。
放送大学の芸術の講義では、「芸術は哲学の一種」だと話していたように思う。個人的にその意見には同意しているが、今回の論点はそこではない。
今回の論点は、いわゆる世俗的なもの、楽しければいいじゃない、面白ければいいじゃないというものをアートと呼ぶのかどうかというところ。
デザイナーに求められる服装と日常的に求められる服装に違いがあるように(この着想は「ランウェイで笑って」(少年週間マガジン)から得た)、非日常性を追求して誰もしたことがないことをすることがデザイナーであり、アーティストである。ボーダー柄を衣装として軽蔑の意味を無くして導入したものにはアーティスティックな才能が発揮されているが、それを追従したものにはその才覚は見えない。非日常性は日常にそのうち溶け込むことが歴史の常だろう。最先端は時代遅れとなるからだ。そのため、現代社会に生きる僕たちにとって、便器に名前をつけたデュシャンや、時間の流れをデジタルの時計を並べることで表現した河村温、コンセプトだけで思考を表現した人、コスースなど、彼らの作品は現代では真似できる平凡なものと成り下がっている。彼らの歴史上重大なポイントは人間の意識の変換であるはずだが、「それは自分でもできる」といった全く馬鹿げた意見をする人間もいる。昔、youtubeで現代アートを作ってみたとというものがあったが、作られた作品はアートとはいえないのではないかと思うが、眺望するとyoutubeに投稿されたビデオはアートにも見える。
岡本太郎が発言したようにアートってのはなんでもありだという論点で考えると、このような独自性かつ発想力の豊かさかつ世間への批判などが垣間見える作品は、よりアートとして成就しやすくなる。
快楽や楽しみを第一の定義としたときに、究極の美、究極の感情、究極のなんとかを開発することも一部アートのように見える。
これはまことか?
なにかを追求するときに、たとえば、「いくらでも女が寄ってきて性処理をしてくれる花園」を作ったとして、それをアートと言えるだろうか。また、たとえば、「国会議員への反発としてテロを起こすこと」はアートと言えるだろうか?
なるほど。
こうやって記載すると明確になるものの一つに、圧倒的なオリジナリティの欠如が見え隠れしている。どちらも平凡でだれでも思いつくようなアイディアだと思うし、少なくとも前任者がいる。前任者がいることによって、模倣者としての烙印を押されるのだとしたら、前任者が存在しない中でそういったことをしていれば、アートとして成立しただろうか。
文学で考えると、「ロリータ」でも「布団」でもLGBTでも、少数派のためのフェチシズムを理解するための文学は良本となりうるか。なるのは、開発者だけだと思うけど。
一般的に風俗業はアートではない。
なぜか?
そこを理解するには、アートとは何かと認定する問題と社会的で個人的な制限の問題の可能性があがりそうだ。
ということは、アートとは、社会的政治的な意味合いが強く、それがアートだというふうに表現されるには、裏になんらかの画策がある。そうすることで政治を操ったりするように。寓意を含ませるのも同じか。
これは、実は、絵画の歴史上も同様で、あらゆる偉人の肖像画はアートというよりも実は政治的意味合いの方が強い可能性が高いのではないか。もちろん、涅槃図、地獄絵図などは、明らかにアートというものを通して、個人の行動変容をきたしうるように創造されている。となると、アートというものは、政治や宗教とは切っても切れないものだということが理解されるし、そこからの反抗として作られた芸術作品は、その存在理由から、政治的な意味を含有することは免れないし、政治的意味を剥奪された作品は価値が消失しそうだ。
その中で、現代アートという名目を打ち立てて、奇抜性を重んじる傾向の心理は何か。奇抜性を前面に出すことで、何が得られるか。
綺麗という美のみを追求した作品が内包するものは何か。
メッセージ性がないものであれば、それは人の心を動かす価値があるのだろうか。
この疑問は、ショーペンハウアーの「読書について」で、読まないべき本と読むべき本の違いに表現される、自ら考えて書かれた書物かお金目的かという点に似ているし、借り物の何かの寄せ集めは読むに値しない作品だということで、なんらかのメッセージがないものは見る価値がないとも言える。
しかし、メッセージがないものこそ、世の常ということも言えるし、あえてメッセージを残さないという表現方法も芸術のメッセージとしてありだと思う。その観点から作られた作品は生の芸術、アール・ブリュットであろう。そういえば、てんかん患者によるアート展が近日開催されていて、その冊子を手に入れたけども、何ともはや。
「きれいでしょ」「かっこいいでしょ」と、それだけを訴えかける時の脳の反応については、やっぱり、扁桃体や前帯状回を回路に組み込んだ感情(感情とは理性よりも先に立つものと定義されるか?)を惹起させるものが実際に人の心を揺さぶる事象・物事であろう。その両極性、多犠牲については言及する必要があるが、憎悪にしても尊敬にしても人の心を揺らすことができるものをアートとすることに異論があるかを考える。そのように感情においてのみ真のもの価値を検討すると、性欲や食欲、支配欲などの欲望というバケモノがそこに居座る。
 
たまに、啓蒙本を読んでみるんだけど、啓蒙本の有用性を感じたことはない。
啓蒙本は宗教と似ている。根拠だとか実験で証明したなどを最もらしく述べるのでタチが悪い。
それなら、「この本は僕の経験に基づいているので科学的に立証してない。だけど、読者も共感して行動してくれたら嬉しい」と書いておけばいいと思う。    
僕の文章はとても読みにくい。文章の中に生じる省略を極力省こうとしてしまうから。
それはつまり、英文でitを使わない文章のように。
 
啓蒙本は、多くの場面で役に立つ。役に立つが真実ではない。
真実を本は語ることはない。そこに記されていることは歪曲した解釈だけだ。
事実はそもそも誰かの目を通される時点で歪曲されている。この命題をなんというんだっけ。リンゴが落ちたことを認識していなければ、そのリンゴは本当に落ちたのだろうか?
シュレディンガーはネコが二匹存在することを示した。
量子力学にそうと、確率論に従い、つまり、ネコは50%の確率で死んでいて生きている。
僕らは絶対的に正しいことが存在していると信じられている(わざわざ婉曲に表現してみた)医療という場面にいるが、医療は正しいという概念はない。「らしさ」はその人に起こっていることを直視して生じることではなく、誰が起こっていることを語るかということによって表現される。
 
ある意味で僕の素晴らしき教師(人はこれを反面教師というのだけど)は、診察をしない。問診もしない。もちろん少しはする。しかし、ほとんど(ここも100%ではないことに留意すべきである)適切な診断を下し、適切なマネージメントをする。なぜか?
これは、医療の世界が驚くほど限定された世界だからである。
医療技術の進歩により、不必要な検査をすることが求められる。近年の優れた業績は、この進歩にコスト・パフォーマンスという概念を導入しているのが最早常識であるはずなのだが。ガイドラインという「画一した治療を」目指した結果、誰にでも、そう、それこそ看護師にも患者本人にも老若男女問わず、画一した治療をその人たちが実践できるように、ガイドラインは想定して策定されている。たったいくつかのキーワードに従った単純なアルゴリズムにより治療は遂行される。もちろん、現状、同様の結果が返ってこないことは多々あるが、「経験豊富な」医師が行った結果は「正しい」か、「仕方がなかった」出来事となる。つまり、誤診をしていても、「経験豊富な」医師の発言はそれだけで権力を持ち、誤診をしていても患者に悪影響がなければ、「現代のシステムでは」「仕方がなかった」と済まされる。
これに応答して、遺伝子検査など「誰が見ても」一つの結果と決まる検査が台頭してきた。この理論に従うと「経験豊富な」医師が誤診をする機会が露呈したかというとそんなことはなく、遺伝子検査もルーチンに行われるようになり、つまりアルゴリズムに内包された。
さて、なぜ、こんなことが起こるのか?
答えの一つに情報へのアクセシビリティの高さがある。
キーワードを認識することさえできれば(これはものすごく重要)、後のマネージメントを間違えることはない。
キーワードの認識の間違い、選択の間違いによって物事は間違った方向に進む。このことは多々ある。
例えば、「発熱」のキーワード「だけ」だと考え、肺炎・尿路感染症と診断し、抗生剤加療を行う医師に対し、「発熱」に「関節痛」が加わった時、偽痛風を想起することは簡単である。
難しい問題は、関節痛の認識が難しい場合にどうするかという問題である。つまり、そんな偽痛風はあるのか?ということ。
これはいつも判断が難しい。
関節痛がない偽痛風が仮に存在するとして、それは、マネージメントをしないといけない状態なのかということである。つまり、誤診してもいい、ということになる。
逆に、咳・痰のない肺炎がある。これを誤診すると死に関わるとなれば、キーワードの選択はほぼ無意味に等しくなる。
要するに、「発熱」というキーワードだけで、抗生剤加療をしておいたらとりあえず間違ってないといことになる。
さて、一つ疑問が生じた。
なぜ、教科書は正しく診断しなさいと伝えるのか?
診断することによる患者へのメリット(もしくは医療従事者へのメリット)がなければ、診断は不必要である。
仮に、「何にでも効く薬」があれば、診断をする必要ない。
 
医学はかなり特殊な環境にあるように思う。
5年後の予測をすることが重要であるにもかかわらず。
考え方の一部だと思ってください。全てがこれに論拠してはいないと思います。

死についてです。
残念なことに、いや、それを残念とするべきなのかはわからないが。
誰が死んでも、少しの間だけ、もっというと、誰かが僕を目視している間だけ、悲しむのだろうと思う。
 
親が死んでも。
兄弟が死んでも。
恩師が死んでも。
親友が死んでも。
なぜなら、僕は今一人だからだ。
 
愛していた彼女は死んだも同然だ。なんだったら死んでくれていた方が嬉しい。そう感じるのは僕が卑劣で下劣な人間だからなのか。
しかし、彼女がこの世の中にこれから長い間、僕の生命が続く間生存していても、僕とは平行線をたどるだけだろう。それならまだいいが、交わった時に心が惑わされるのはどうしても嫌だ。だから、彼女の存在がなくなってほしいと思う。そうするには死ぬしかない。
会わなければ、やはり死んだのと同じだ。
とは言っても、会わなくなる可能性がゼロになることはほとんどない。だから、死ぬという現象が必要だということになる。
 
父親は死んだ。現実には生きているかもしれない。死んでいるかもしれない。
もしも訃報が届いたらどうするだろうか。誰かが見ている前でははらりと涙を流すかもしれない、それは偽善だ。なんとも思ってなくても、無感傷で哀惜の念が浮かばなくても、そうすることは偽善だ。僕はおそらくその気持ちでいっぱいになるだろう。なぜなら、父親は死んでいるも同義だからだ。
彼が今後僕に与える影響はない。
 
影響を与えうる個体について、死という概念は当てはまらないかもしれない。
 
死んでいても、存在しなくても、それが自分になんらかの、害悪か善か知らないが、影響を与えるのであれば、それは死んでいるのだろうか。
 
存在しているのだろうか、存在とはなんなのか。
存在していないと考えていたものが存在しうるのか。

コーヒーの味。
耳に残る説教。
香水の匂い。
残存する感覚はそれらの発生源の存在を抹消しえない。となると、それらの存在はあたかも現在も存在しているのであり、死んでいることはない。
 
逆説的に、死んでいる存在は死ななくなり、生きている存在は常に死に続けることになる。つまり、変化することで以前の記憶が抹消、上書きされうる?いや、思い出が増え続ける?
たまにあった方が違いに気づくのは、その存在が彼の中で生きていて、瞬く間に上書きされたからか。
いつも一緒にいると違いに気づかないのはどうしてか。