CACHETTOID -9ページ目

CACHETTOID

Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

読書について

 

アルトゥール・ショーペンハウアー

Arther Schopenhouer 

鈴木芳子 訳 光文社文庫 古典新訳

 

ショーペンハウアーの本は二作目。

前々から読みたいと思っていた本。

読書について、どれほどウィットに富んだ内容なのかと期待していた。そして、読書についての反対意見も多く書かれている、つまり、読書をするな、という議論も多いとのことで期待していた。

 

反芻し、噛み砕いて咀嚼し、内面化することができているかが心配である。

ショーペンハウアーが言わんとした事を僕自身が理解できているか、甚だ定かではない。 

 “私たちは、自分の興味あるもの、つまり、自分の思想体系や目的に合うものしか自分の中に留めておけない”と明記されている。

僕も同様のことをすでに考えている。

読書論(機能の内面化)で、言及している通り、思想体系に合うものしか元来留められないが、逆に反対意見により意見が変更される場合も留めておけると考えている。

 

“”"読書をする時、基本的に読者に与えられる影響は「賛成」か「反対」である。

書かれている内容に賛同、共感し、元々の自己の考え方をより強化にするか、書かれている内容が自己の理念、思想と相容れないためにその考え方を拒絶するか、もしくは、その文章を読んだ時に自分自身の理念、思想が変更され賛成するかどうかが基本的な流れである。”””

 

ショーペンハウアーは、読書が”単純な物知り”となってしまう事を危惧しているが、少なくとも、知識を得ること自体には、反対していない。考えた事を簡潔に、明瞭に、比喩表現を含めて具体的な方法で表現するには、間違いなく、知識は必要だ。

ショーペンハウアーが問題視、危惧している悲惨な状況は、誌面を埋めるためだけの当たり障りのない事を、飾って誇張していかにも自分が考えましたと書くことがはびこっている現在(彼がいる時代は過去だが)が、大問題だとしている。

これも僕の考えとほとんど同様だ。危惧される悲惨な現象が、医学・医療の分野でも当てはまっている。学術集会で発表されるほとんど全ての発表が、取るに足らない価値のない発表である。仮に良い素材(発表するに価値のある内容)があったとしても、削られた時間制限のため、正確に表現しきれていない。片手落ち、いやいや両手落ちどころか足もない、の状態で発表されている。そのため、無難で新たな知見がなく、教科書を確認すればわかるような事を、さぞ勉強になるでしょうという具合に発表する。99%の発表演題を取り消して、本当に価値のある有意義な発表演題にだけ、長めに時間を与えてディスカッションした方が良いはずだと思う。

しかし、現実には、くだらない発表を何度も繰り返しした人が偉い人、いわゆる知性に富んだできる人のように感じ取る風習になっているのが現状だ。

抗うためには、そんな現代社会に罵詈雑言を吐いて何もしないことではなく、その中で、きちんとした価値のある、良い素材を発表する必要がある。

 

書くという行為について、ショーペンハウアーが記していることは、書くことだけに当てはまる事ではない。他人と話をする際にも同様に当てはまる。これは文中でも言及されている。

 

書く理由は、確かに二つだ。

僕は、常に二極化するのでひとつの理由プラスアルファとしている。

「伝えたいことがあるか」 もしくは、 「伝えたいことがないか」。

「伝えたいことがある」は、ショーペンハウアーが論述した通り、「素材」があると言うこと。思想そのもの、研究そのものに価値がある。それは、論文として世に出されるべきである。この局面については、ショーペンハウアーが言う、"表現形式"が秀逸である事を魅せたい場合とは異なるため、"表現形式"を際立たせることはむしろ愚の骨頂だと考える。

つまり、論文はわかりやすく、簡潔明晰単純に表現すべきだと言うこと。

「伝えたいことがない」場合、なぜ、それでも書くのかと考えた時に、「主体性」があるかないかをまず場合分けする。

主体性がないとは、すなわち、自分では書きたくないのに書けと言われている場合であり、これはもう「書くな」としか言えない。それで金儲けをしたいだけなのだろうから、そう言う本は帯に「金儲け目的」と明記してほしい。現在、新人作家が減少しており、将来性に期待する出版社は、中身が溢れている人に賞を与えたり、契約するべきであった。底が見えている人は採用すべきでない。

主体性があるにも関わらず、伝えたいことがないとはどういうことか。やはり、そのほかに何らかの目的がある場合と考えるべきだろうか。それによって収入を得る、権威を得るなど。このパターンは非常に多い。これらの本についても即刻廃棄すべきだろう。

問題は、僕ら読者はこれらをどう見分けるかということだ。それを見分ける手段が残念ながら安直ではない。僕らはそのために知識をつけ、自分で考え、努力しなければならない。

 

表現形式が際立っている書物を読む場合には、やはり手っ取り早いのは、古典を読むことだと思う。

「新しいものが良いものであることは稀だ。よいものが新しいのは、ほんの束の間だからだ」(ルードヴィヒ・テューク)

"凡人が表現系式を駆使しても、それは誰しもの頭の中にあるから読むに値しない。"

古典が良いという保証はどこにあるのか問いたい。安易な回答としては、時代の中でより吟味されてきたからという論点を持ち出す輩が大勢いるだろう。しかし、考えてみてほしい。今、源氏物語の評価は高い。この現象は、現在の評価方法のままであれば、これからも残り続けるのではないか?それは、50年前の書物についても同様ではないか?もちろん、巷に溢れている、悪本、誰も書いた事を知らず数年も残らない本は、読むに値しないゴミだということは簡単に理解されるし、そのゴミと比較して源氏物語はbetterということは結論づけることができるが、これからも普遍的に良い本だということを立証することはできないのではないか。だから、結局のところは、良い本かどうかは自分で判断するしかない。

しかしながら、ショーペンハウアーほど自意識過剰でナルシシズムがある人ならいざ知らず、僕らみたいな一般的な彼がいう凡人が、良本か否かを判断することができるのであろうか。陳腐でなんの含みもない浅はかで愚かな書物を良本だと声高に宣言することになりはしないだろうか。その点がまた考えさせられる点である。

 

さて、読むという行為、書くという行為の前に、大前提として、思索について考える必要がある。そのため本書も「自分の頭で考える」「著述と文体について」「読書について」という構成になっているのだろう。これは、勝手に後世の人が入れ替えただけだろう(なぜなら、ショーペンハウアーの思想体系は、連綿と連なる思考ではなく、前が後ろ、後ろが前を補完しながら一個の体系を型作る有機体系であるから)。

しかし、この三段階については、容易に理解できる。

意図なし書物に読む価値なし。

 

"学者、物知りとは、書物を読破した人のことだ。だが、思想家、転載、世界に光をもたらし、人類の進歩を促す人とは、世界という書物を直接読破した人のことだ"

 

本を読むという体験は、単に他人の記憶を追随するだけであり、それどころか、実際には他人が記している事をなぞっているだけで、思考をなぞることはできない、のであり、自らの思索を放棄することに他ならない。

そのため、「本は読むな!」と安直に結論づけている感想文があまりに多い。

真意はそこではない。

僕らが生きていることの最大の理由は「生きていること考える」ためであり、ショーペンハウアーも人生のテーマとして、"生きるということについてじっくり考えて過ごそう"と生きる事をテーマとしている。そのため、生の哲学の祖と言われる。

考える事を今してほしい。何もなくても考えることができる人は非常に稀で、ほとんどの人は、テーマを与えられてやっとの事で考えることができる。実は、考えることは非常に苦慮を伴う行為であり、そこら中に群がる多くの人はこの行為を行う事を怖がっている。考えることができなければ、どれほど本で知識を詰め込んでも、それは他人の言、虎の威であり、自分自身を豊かにすることはできない。そのため、本はだめだ、と結論づけることとなった。それでも、本だけではダメだということであり、本自体を否定はしていない。当然のように、ショーペンハウアーは、数多くの過去の人を引用している。ゲーテを引用しすぎなのは、親交があったからでそれはバイアスではあろうが、ご愛嬌ということにしようと思う。

ショーペンハウアーがあげた2パターンの思索のタイプ。知を欲するタイプと、詭弁家。僕はフィロソフィアになりたいと思う。

 

もう一度、書くことについて、

書く事を有意義にして、人様に読んでいただくようにするためには、「主張するものをもつ事」と、「賢くある事」が必要条件であり、

“愚者は、より抽象的な表現を選び、知者は、より具体的な表現を選ぶ”。

具体的な表現は、理解を直観的に可能にする。そして、その代表例が比喩表現である。ショーペンハウアーの書物にはなんと比喩表現が多いことか。ここに天賦の才を感じる。僕にはなかなか難しいことである。

"ずば抜けて偉大なのは、比喩を見出すことだ。言い換えれば、これだけは他人から学べるものではなく、天賦の才の印だ。優れた比喩を駆使するには、同質性を見抜かねばならないからだ”(詩学、アリストテレス)

“哲学でも、遠くかけ離れたものに同質性を見出せるのは、鋭い洞察力の証である”(弁論術、アリストテレス)

 

最後に、ショーペンハウアー自身について少し言及する。

ショーペンハウアーは、1788年ドイツの都市ダンツィヒで生まれる。裕福な商人の子として生まれる。父は、アルトゥールを商人にさせたく、幼少期にフランスで住まわせたりする。アルトゥールという名前は、Artherと書き、フランス語でも英語でも読める。キングアーサーのアーサーとはuがeとなっており異なる(King Arthur)、ドイツ人なのでそこは気にしていないだろう。

しかし、本人は商人でなく学者になりたかった。医学校に入ったのちに、肌に合わないと哲学科に所属する。プラトンのイデア論、カントの現象ともの自体の区別を勉強、彼の哲学体系に大きな影響を与えている。彼の哲学はその他、ヴェーダの汎神論(これは、意志と表象としての世界で顕著だった)、ペシシズムが根源にある。

(僕は、いつも、このペシシズムがよく分からない。どこがペシシズムなんだろうか?)

ショーペンハウアーはゲーテとも親交が深い。ゲーテはこう記している。「私は他の者とは語り合うだけですが、彼とは哲学をします」

彼は、生の直接的把握の始祖として、ニーチェ、ベルクソン、ディルタイ、ジンメルなどに影響を与えた。

トルストイは、彼の書物を読み、”自分の考えていたことと同じ事を、過去に、こうも美しく、鋭く、詳細に考えていたことに大変驚いて”いる。その他、トーマス・マン、フロイトもショーペンハウアーに影響を受けているという。

日本では、ショーペンハウアー生誕200年の1988年に日本ショーペンハウアー協会が発足されている。

年会費4000円。何をしているところなのか非常に気になる。ショーペンハウアーもナボコフも著者ではなく中身を重視しているのに、ショーペンハウアー自体を研究するのはちょっと本筋と離れているような気もするが、非常に興味が惹かれる。

不完全性定理とはなにか
ブルーバックス
竹内薫 
2013年
 
そもそも、なぜ、この本を読もうと思ったかを確認しないといけない。
「ゲーデル・エッシャー・バッハ。あるいは不思議の輪。」これをあげなければならないだろう。しかし、その本について、僕は何を語り得るだろうか。少なくとも、初めは何もよくわからなかった。文字を眺めてみただけ。
そもそも、初めから数学がまず好きだ。倫理学、哲学も好きだ。医学よりも。もちろん、脳科学は好きだ。
 
あ、そうそう。今日必死に考えていたのは、常に、考えていることと同様であるが、おそらく、僕自身はそれほど能力はない。発想力がほぼ欠如している。しかし、分析力と解析力はあると思われる。それはつまり、論理学が好きということとも合致するが。そして、発想力がかけているが故に、新たなことを発見する能力は低いだろう。そこで考えたのが、編集力である。現在、情報は蔓延しており、取捨選択しないといけなくなった。より専門性を有するようになることでより発展できたが、それにより他の分野に対しての知識や興味は失われて行った。
ちなみにその過程を僕は数学と同様に考えているのだが、ものすごく賢くない人々によって知識は逆行することもあると思っている。つまり、ある公理から始まったことは基本的には正しいことを累積しており、正しいと言えるはずなのであるが、それにも関わらず、根底から覆されるのは、つまり、公理が間違っていることが証明されるからである。なので、原則的に、正しさを積み上げられた結果に専門性を有したと言える。
その場合に、僕は、その最先端でより最先端に発達させることができる人材となりうるかどうかを検討した時に、答えはノーになりうる可能性が高いと思った。あー、この物言いは量子力学のようだ。
まぁ、何れにしても、答えがノーだと思ってしまう限り、新たな境地を切り開く可能性を見出さなければならない。よくよく歴史を振り返ると、いずれも派生したものが多いことに気づく。群論、集合論、神経生理学、神経数理学などなど。すなわち、エディターである。
これは、アイデンティティーの確立に他ならない。これまでの歴史が人を型作るとして(面白いことに、リップマンの世論でもこの疑似環境を言及している)、いい意味で型作るとして、それにより自分自身のアイデンティティ、オリジナリティを見いだすことができるのだ。
それを、どこにするか。そう考えた時に、やっぱり、ずっと心に残るのは、数学である。
整数論が好きだったが、論理学が好きなんだろうと思った。記号論理学はすごく魅力的だ。スマリヤンの記号論理学はすっと心に落ちていく。
と、科学の名著として、グラスホッパーの不思議の輪を読みだしたのだろう。
そして、一読目は全くの意味不明だった。何を行っているか全くわからなかった。
再読した時に、アキレスと亀の不完全性定理(パラドックス)についてを少し消化した。
そのシステム内では、無矛盾を証明できない。
そして、この読んでみようと思ったのだ。
 
さて、竹内薫の本はどうかというと、僕はそもそもこういうあんちょこ本は苦手なのである。本質を逃してしまうから。とはいってもあまりにも知らない分野には有効だろう。

不完全性定理の理解ができたか?
全くできていない。
言っていることの言葉の意味はわかる。そして、それをなんとなく受け入れることもできる。
なんとなくなだけ。
その証明の過程であるブラックボックスを見たいのだが、結局全くよくわからなかった。

さすが二十一世紀最大の難問の一つ。
恋愛論
スタンダールより

ほとんど読んではいないけれど。チラチラと読んだところから抜粋
何かに使えるといいんだけど。
 
恋の芽生えについて
 
結晶作用の話
 
感嘆し、彼女に触れることができたらどんなに嬉しいだろうと思い、希望を持つ。
彼女に愛される事に対して、不幸な出来事も幸福に変わる。
例えば、怪我をすることも、それによって彼女が自分を慈しんでくれるならなんて喜ばしいことだろう。
 
 
人の心は、すべて単調なものに飽き、完全な幸福にさえ飽きる。
 
7つの時期として
1:感嘆
2:どんなに嬉しいか、など
3:希望
4:恋が生まれている
5;第一の結晶作用
6:疑惑が生まれる
7:第二の結晶作用
読書論というテーマでの読書をすると、やはり、それは読書がそもそも必要なのかという議論になる。
ショーペンハウアーの読書論を参照したい。
 
読書をする時、基本的に読者に与えられる影響は「賛成」か「反対」である。
書かれている内容に賛同、共感し、元々の自己の考え方をより強化にするか、書かれている内容が自己の理念、思想と相容れないためにその考え方を拒絶するか、もしくは、その文章を読んだ時に自分自身の理念、思想が変更され賛成するかどうかが基本的な流れである。
 
前者2つの場合には、本を読む価値はそれほどではない。特に、自分自身の観念が内面化、矛盾なく宗教と化している場合には、賛成、反対のどちらが誘発されるかどうかは疑いの余地がない。
後者1つの考えを改めさせる場合には、どうか。
それは、本当に考え改めさせられているのであろうか?実は、自分自身で自分の理論のほつれに気づいており、本の理論がより合致すると考えたからではないか。
人との議論、会話、雑談も同様である。
人を型作るものはそれまでの経験である。ここでいう経験には、「他人との関わり」「もの・場所との関わり」が含まれる。
どちらも自分自身の中での概念に影響を与える。
なぜ、人が皆同じ考え、思想を持たないのか。
同じ教育を受けていてもどうして異なるのか。
それはつまり、教育を受ける側がそもそもその教育に賛同するか反対するかの違いでもある。
モノとの関わりによって内面化される知識や技能・機能は所詮その個人個人の中で修飾されるものであり、明らかに歪曲されたものである。つまり、事実ではない。

 

似た者夫婦が上手くいくように。
 

 

Lolita 1955, 
監督 Stanley Kubrick
脚本 ウラジーミル・ナボコフ
 
ご存知、ロリコンの語源となった小説の映画版。
僕がこの作品を知るきっかけとなったのは西加奈子の作品i[アイ]を読んだからだ。
「テヘランでロリータを読む」がきっかけ。
ロシア文学というと長い、だるいが僕のイメージ。ごめんなさい。これはトルストイとかの影響だと思うけれど。
一応ナボコフはロシア人で、ロシア文学者だけど、ロリータはアメリカ文学の古典として残されている。
ハンバード・ハンバードは自分のこともハンバード・ハンバードと第三人称で話す。
ロリータことドロイズ・ヘイズに恋をし、映画中では性的な描写は皆無なのは時代背景によるのだと言う。
小説だと、ロリータとハンバードの性的描写もあるらしい。映画ではそこが見受けられないので、性的倒錯者の愛が少し薄らいでいる。
しかも映画でのヒロインSue Lyonが綺麗すぎてもうすでに少女でない。
当時彼女は15歳。しかもアメリカ生まれのアメリカ育ちだから、彼女は僕の中で18にも22にも見える。
だから、僕にはハンバードが偏屈な異常少女愛者には僕は見えない。単純に彼女への愛情表現の仕方は間違えていると思うけれど。そうすればするほど嫌われるだろうにと単純に思ってしまう。sue lyonは4回も結婚してる。
なぜ、ハンバードはそれほどまでにロリータに固執したのか。
 
有名な散文を引用しておこう
 
ロリータ、我が人生の光、わが腰部の炎、我が罪、我が魂。
ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。
 
Lolita, light of my life, fire in my loins.  My sin, my soul. 
Lo-lee-ta: the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth. Lo . Lee. Ta.
 
あまりにロリータと現在のロリコンがかけ離れていると感じた。
ハンバードがペディキュアをするシーンは異常に思えるけども。