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CACHETTOID

Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

ペスト
アルベルト・カミュ
 
カミュは「異邦人」と「シーシュポスの神話」によって有名になった作家であり、ノーベル賞受賞者である。
フランスの植民地アルジェリアの都市、オランで発生したペストを題材にした物語である。
ノーベル賞受賞作品だからか、それとも、僕が大人になったために感性というか知識が洗練されたからか、それとも、そういう物語をわざわざ選択しているというバイアスによるものか、僕が最近読む本はある種の観念を提示して議論させる本のようであり、これら本によって僕らは考える事を余儀なくされる。というようなことを起こしうることが良本なのか。彼女はまだ「幸福について」を読み終わっていないのだろうか。
 
僕は、おしゃべりが好きな男性である。対して、人の話を聞くことに苦労する。僕は自分自身の話をする方が気が楽である。以前までは、僕は人の話を聞いていないがために、聞き手に回ると二度も三度も話し相手に同じ話をさせてしまうから話をさせるよりもする方がいいのだと結論づけていたが、そうではないらしい。僕は聞き役に回った時に、その話し相手が話したくないことを話させてしまうのではないかと恐れているようだ。だから、僕は自分のことは語り、人のことは聞かない。僕は、嘘をつくことが苦手で、本質的な話をしたがる。そうして得られた考え方がたとえ間違っていようとも考察に値すると考える。でも、「でも」というネガティブなワードはその人との会話を断ち切って、彼女の心情の吐露をせき止め、遮断してしまう恐れがあるが、本質的には意味がない接続詞だ。しかしながら、そうはいってられないのだろう。
彼女のことを知りたいと思う一方、言いたくないことを言わせたくないと思ってしまう。
 
ペストは、医師リウーが主人公のようであるが、物語で説かれる説は、幸せとは何か、善とは何か、人がなすべきことは何かというような高尚な話題だ。医師の職分という観点からすると、人を不幸にしないこと、できれば幸福にすることがその職分となるわけだが、それをなすにはあまりにできないことが多いことが実情であるように思う。当時ではなおさらそうで、ペストだとわかったところで何もできない。これは、僕ら神経内科にとっては、ほぼほぼ同じことが目の前の患者に起こっている。ALSと分かったからといって何もできない。IBMと分かったところで効果がある治療法は存在しない。その時に僕らが取りうる行動として、諦念か実験かがあげられる。僕は、実験だったり考察だったりそういった試行錯誤が好きな研究者のように思われがちであるが、医師の治療という点においては、てんで的外れである。僕は、絶対に効果があることをしたいと思ってしまう。もしかしたら効果があるかもしれないということをすることは倫理的に問題があるのではないかと考えてしまう。僕ら医療者が賭けをすることはできないし、それによって人生を左右させ得ないと思う。治療というのはもろ刃の剣である。効果があればあるほど、副作用というものも懸念される。これも100%そうだということはなくて、どんな人にもメリットの高い物事という事柄は存在するはずで、それは、健康的な食事とか運動とか睡眠とか、そういったトートロジーを駆使した事柄であり、それらは何があっても健康的である。なぜなら、健康なものは健康であるといっているだけだから。そういった中で、例えば、高齢者は基本的にビタミンが足りていないとか、ドーパミンが足りていないとかそういったことを持ち出してみると、だれでもそういったものを摂取したらいいじゃないかということになる。それが毒であるかどうかは知らないのだ。副作用というものは、実のところ多いわけではない。もちろん、僕ら医療従事者で当事者からすると、100分の1はかなりの高確率で生じる副作用である。それぞれの薬の副作用の発生割合が100分の1の場合、僕らが日々遭遇する副作用は、患者が100人いれば誰かに副作用が生じているということになろう。その副作用をもってしてもメリットとなりうること、この天秤の傾きが医療を突き動かすはずであるが、実際にはそうではないことも多い。治療をするという行為について、なんの疑問もなく突き進んでいる場合には、将来的に何が起こりうるかを考えるべきだ。
近年、治療薬の効果の有無だけでなく、経済的コストも議論に上がることが出てきた。これは不思議な話だが、例えば、生存期間を10日間延長する新薬Aが開発されたとして、その新薬Aは100万円するとする。対して、生存期間を3日間しか延長しない旧薬Bは100円とする。それなら、どちらがより価値が高いだろうか。この命題を解決するには、どうしても統計学的知識が必要不可欠で、そもそも生存期間10日というものの信ぴょう性について考えなければならない。例えば、この信頼区間が4日から13日だとした場合、中央値が10日間であって、旧薬Bの信頼区間は1から5日としよう。統計学的にいわゆるP値で有意差がついているとしても、本当に新薬Aに価値があるのだろうか。金銭的影響を度外視して考えた時の問題と、それを考慮した時の幸福へのQOLは全く異なったことになると思う。
 
不条理文学という響きが好きで、それは一種の僕の哲学のように思う。
幸福になるためにというテーマで考えた時に、不条理を理解し受け止めることが何より大事ではないかと思う。
常に持ち出したいのが、源氏物語、「宇治十帖」「椎本(しいがもと)巻」である。「源氏物語に学ぶ十三の知恵(島内景三)P19」から抜粋する。ここでは、八の宮という人物が亡くなる。皇族ではあるものの、名声も財産もなく、敗残の人生を送ってきた老人である。その老人には適齢期の二人の娘がいる。その二人の娘に対する遺言がとても不条理を浮かび上がらせており共感する。
「父さんは、どんなに努力しても、どんなにあがいても、幸せな人生を送れない運命の元に生まれてきた不幸な人間だった。そんな父さんの娘なのだから、お前たちも幸福な人生を送れない定めなのだよ。だから、お前たちは、人並みに幸福になりたいとか、結婚して今の境遇から抜け出したいとか、そんな気持ちを絶対に持ってはならない。この場所で、今まで通りに生きて、そして死ぬのだと、固く決心するのだ。父さんの人生は不幸の連続だったのだけど、思い返せば、あっという間だった。お前たちも、心さえ強く持って我慢すれば、短い人生なんか、すぐに過ぎ去ってしまうだろう。諸行無常。人生は永遠ではないから、人間の苦しみも長くない。こんな私を父親に持った宿命だと諦めて、お前たちはこれから、夢や希望などに振り回されず、父さんがこの世にいなくなっても、今のままで生き抜いておくれ」
どれほど器量が良く美しく賢くても、生まれと育ちがこれなのだから、お前たち二人が日の目を見ることはない。これからも不幸のどん底で過ごしていかなかければならない。それが、お前たちの運命だよと諭される。これだけ聞くと、なんてひどい父親だと思うけども、僕は、そうは思わない。
そのような不幸の底にいれば、小さな幸せも幸せときちんと受け取ることができるというのだ。例えば、その日の食にありつけること、気になっている人を一目見ることができること、こんな些細なことですらも、自分自身が不幸のどん底でそこから抜け出すことができない運命だと理解することで幸せと受け取ることができる。このことは、お金持ちの不幸にも通じそうで、飽食過多な現代社会においてよりよく幸せになる方法を提供していると思う。
追記。八の宮の遺言を書き写した時に、僕は、ここに仏教の理念を思い出し、最近本屋さんで立ち読みした絵本「5億年後の世界」を思い出した。その絵本のお話はこうである。ここにスイッチがある。このスイッチをおすと、君の時間は止まってしまい5億年何もないところで死ぬこともできず生きなければならない。しかし、5億年経った時に、君の記憶が消され、この現実に戻ってくる。このアルバイトをしてくれれば、100万円を与えよう。さて、君はこのアルバイトをするか否か。当然、ボタンを押しても、本人を含め他人としては5億年の何もない世界を経験した事実を忘れているため、しようとするが、5億年を経験すると途方もなく、死んだ方がいいという気持ちにもなるわけで、本当にそんなアルバイトをしたいと思うのかと思わせる。これは、人生においても似ていて、どれほど苦痛な人生を過ごしたとしても、過ぎてしまえば所詮過去。あっという間だったという感想に落ち着く。時間感覚を考えさせられる。仏教からすれば、所詮この世は偽物で、極楽浄土に行くことができるのだから、だから、涅槃図では、そのことを悟っている菩薩は微笑み、一般人は悲しむのだ。この平安時代の人生観からすると、現世をなんとか過ごしてその後幸せになりましょうという理念を感じる。その点は、現在の僕たちは反抗しなければならない。そもそも、そういった死後の世界を考えることは仏教だったりキリスト教だったりと人外の思慮を自分の行動理念に持ち込んでいるわけで、それはある意味正しくある意味全くの見当はずれである。神はいるのかいないのか、そんな論争がかれこれ何年も続けられており、ある種の哲学者はその論争に終止符を打とうとしたし、カミュ自身も、神がいると信じて行動しているパヌルーと、神はいないとしているリウーの結論が同様であれば、それは、神はいないのではないかと文学上で示そうとしている。僕たち日本人は基本的に無神教というか、逆説的に多神教、そもそもの神道は多神教であるのだが、神を信じないという立場をとると、それならば、人生に抵抗しなければいけないという教えもあげられる。これは、源氏物語の世界観から一歩進んだ観念のように思われる。源氏物語までは、不条理に対抗する術はなく、不条理を受け入れ、後は神頼み仏頼みであるが、ペストでは、そこから進んで、抵抗を見せようとしている。
恋愛に限っては、僕は常に彼女の一挙手一投足に翻弄されているわけだけども、それも、彼女は僕を好きでいてくれているかもしれないといった空想、そう空想なんだこんなものは、に取り憑かれているからで、そんなものは何もなく、何も僕を支えるものはない、彼女が僕を好いてくれるのはたまたまでそのようなことが長続きするはずもない、期待もなければ、失望もないと、そういった心持ちを保てば、小さなことが幸せで、何もなくてもそれが普通と思えるはずなのである。
あたかも、好きな芸能人に会えた時のような興奮であろう。しかしながら、人間は賢いから、自らを未来に投資して行動することができてしまう。つまり、彼女に好かれるように行動することができるし、賞を取れるように行動することができるのだ。それらは僕らの生活の向上を目的とし、向上してしまった後では、その下に埋もれてしまったどん底は見えなくなってしまっている。エレベータでどれだけ高層マンションを登っても、エレベータの中で足下を見ると、自分の足と目に見える床があるだけで、本当にそこが地上から100mも上にあるのかどうかということはそれだけでは判断できなくなるのだ。同様に、進歩した現在、科学に埋もれてしまった自分は、過去の不幸を見据えることができず、その地面が簡単に崩壊して、ビルから投げ出されてアスファルトに衝突することは決して望まず、そして想像だにしていない。そんなことはそう、テロリズムのような地震のような身に降りかかる天災のようなものであり、そうなれば、その時に僕らの人生が崩壊して死に直面する。そんな顔色を見せるのである。故に、僕らはそこから逃避し、見て見ぬ振りをし、気にしていない態度を取るのである。
また、人間は、行為は報われて欲しいと思っているようである。報われない行為はないというふうに教えを説いたのは誰なんだろうか。報われて欲しい行為は形を変えて、人々に襲い掛かり、報われないとしても、あの人は自分より努力をしていたから、あの人の方が自分より才能があったからとなんとか理由をつけようとする。そうして人は納得し悲しみを軽減させようとする。何の理由もなく報われない物語を人々は悲劇と呼び、そうならない、そうなっていない自分たちを上位において安心するのである。あぁ、僕らは幸せで良かったと。そのような悲劇は物語として形をなし、そんなことは現実では起こらないと安心しきる。もしも、そのようなことが起こったとしても人間には現実逃避する頭脳が備わっているのだ。
さて、不幸に見舞われた時、人間はどのような行動を取るのだろうか。ペストでは、その対応について提示がされる。慄き恐怖した群衆は、そのうち馴化して、無関心になる。不幸に良い意味でなれるのだ。この時間の流れは、がん患者における受け入れの段階にも似ている。初めは、人々は、その癌という避けられない思いがけない不幸に「拒否・否認」する。こんなことは起こるはずがない。これは嘘だ幻だと。そして、その後「怒り」が芽生え始め、なぜそうなったのだと原因に怒りを覚え、何がしかの理由をつけようとする。そのうち、それでも不幸が身に起こっていることは事実として降り注いで行き、なんとかしてその不幸を軽減しようと「取引」をする。これをするから救ってくれ、こうしたら不幸の中でもよりよく生きられるかもしれない、死ぬまでにこれをしたいと。そうして、「抑うつ」状態へと進んでいき、最終的には不幸を「享受」するのだ。悲劇が見に起こっても同様の現象が起こり得よう。
突然の悲劇を受容するには、何がしかのプロセスがいるのだ。とはいっても、初めから受容してしまっていれば、不幸はないのか。
「如意(まま)にならぬが浮世」よ。泉鏡花もそう言って、あるがままを受け入れよと諭してくる。こんなにもこのテーゼが叫ばれるのは、つまりは世の中で理解されていないことが真実だからだ。そして、その思うままに行かない人生とわかっていても思う通りにしたいと思うこの心情。どう折り合いをつけていけばいいのだろう。
 
いいテーマが見つかったので、そこから、もう少し先に進んでみよう。
「悲劇に見舞われた時にどう対処すべきか」。この命題には、含意として「悲劇を悲劇とみなさないためにはどうすべきか」という主題も隠れている。源氏物語やペストでは、悲劇は起こりうるということを理解すべきだと提言して終わったが、そんなことをいっても、理解をしても受け入れられないのだと実際の心境を語ってみた。がんの受容の5段階仮説を持ち出して、そうはいっても最終的には受け入れられるからというふうに推察されてしまったが、この受け入れられたという状況に陥るまでの不応状態が幸せな対処法なのかというように思えた。そのため、テーマである、どう対処すべきかという問題について、その前に悲劇を悲劇とみなさないことができるかということを提案してみる訳である。
そこにある答えが提示される。それは、保険である。保険というのは、身に覚えのない霹靂のような不幸を金銭的に支援いたしますよということで、それによって、病気・災害・最愛の人の死別などは、金銭的に補助されるようになった。つまりは幸福をお金に還元して支払われたのだ。この保険によって、悲劇が生じても悲劇にならないから大丈夫というような暗示をかけられているのである。もちろん、例えば交通事故で車両保険に入っているとか、盗難にあったときの保険とか、金を金で対処する場合はうまく働きそうだけども、病気とか死別とか、そういった類はどうなんだろうか。いくらお金を積まれても、障害は障害のまま残存するし、愛する彼女が生き返ることはない。やっぱりどうしようもないのか。そうだとしたら、不条理文学や哲学でこういった不条理に慣れておくしかないのか。愚鈍な市民のように。
1: The bedside can be your laboratory. Study the patient seriously.
2: Settle an issue as it arises at the bedside.
3: Make a hypothesis and then try as hard as you can disprove it or find the exception before accepting it as valid.
4: Always be working on one or more projects; it will make the daily routine more meaningful.
5: In arriving at a clinical diagnosis, think of the five most common findings (historical, physical findings, or laboratory) found in a given disorder.
6: Describe quantitatively and precisely.
7: The details of the case are important; their analysis distinguishes the experts from the journeyman.
8: Collect and categorize phenomena; their mechanism and meaning may become clearer later if enough cases are gathered.
9: Fully accept what you have heard or read only when you have verified it yourself.
10: Learn from your own past experience ant that of others (literature and experienced colleagues)
11: Didactic talks benefit most the lecturer. We teach others best by listening, questioning, and demonstrating.
12: Write often and carefully. Let others gain from your work and ideas.
13: Pay particular attention to the specifics of the patient with a known diagnosis; it will be helpful later when similar phenomena occur in an unknown case. 
14: Be a good listener; even from the mouths of beginners may come wisdom.
15: Resist the temptation to prematurely place a case or disorder into a diagnostic cubbyhole that fits poorly.
16: The patient is always doing the best he can. 
17: Maintain a lively interest in patients as people.
 
尊敬するC. Miller Fisher先生の17つのルールです。
 
*Caplan LR: Fisher’s rules. Arch Neurol 39: 389-390: 1982.
申し訳ないことに酷評してます。
 
好きではありません。理屈もなく批判することは、こちらを攻撃させる大きな因子となりうるので、好き嫌いで分別します。好きではないに理由はないということなので、こちらを批判されても反論できません。
 
思考実験という命題であり、そもそも、有名な思考実験を紹介しているという点では非常に有益でした。
小学生向け、初学者向けの本と評した方がいいと思います。どれも有名な思考実験であり、真新しいところはありませんでした。
もちろん、知らない人も大勢いるだろうから、こういう本も必要でしょうが。
しかし、表現方法があまりに稚拙だと思ってしまいます。それぞれのテーマにおいて、読者に考えさせることが思考実験であるはずが、そもそも設問が抽象的すぎて何を問いたいのかわからない。暗に命題を知っている人に答えさせることになっており、自己矛盾していると思ってしまいます。さらに、醜悪なことに、解答欄で設問を付加し、それについて即座に答えてしまいます。

まぁいわゆるこういった思考実験があるのだよと教えてくれる点では有益です。
外科室・海城発電 他
泉鏡花
 
やっとのこさ、読了した。彼女がこの本を僕に紹介して、はや一ヶ月程度たっただろうか。この頃は、忙しく、それにかこつけて読書をサボっていた。外科室が強烈なインパクトを与えたが、僕は義血侠血の方に心惹かれた。荒唐無稽な設定だと批評され、そこにこそ、真実が見えるというが、僕には荒唐無稽には思えないことが多かった。形は違えど、理性と本能の対立に見え、制度への抵抗と制度からの解放を謳っているように見えた。僕らは、どうしても現在社会という枠組みから逃れ得ないのだろう。結婚という制度を導入することによって、この制約を手錠がわりに彼女につけ、そうして僕らは安心を得るのだろう。離縁されるは一生の恥と「化銀杏」で記載され、当時の結婚理念について大いなる男尊女卑の念を感じる。そして、彼女らは物心がつく前から好きでもない男と結婚させられているのだ。男側はどうあれ、遊びもせずに妻を監視して、愛とはなんだと考えさせられる。悪いのは夫だろうか、それとも夫を愛することができない妻の方だろうか。それともそんな善悪の判断は当人には存在せず、世間がその良し悪しを決めているのだろうか。世間というのは狭いちっぽけなおもちゃ箱のようなもので、そこからひょんな事で違うおもちゃ箱に入れられてしまえば、次はそこが遊び場となろう。そんな代わりがきくようなものでありながら、それでも人によっては逃れられない宿命のようにも思う。その世間様が行動を決定する。これまで、夫を思いやるようなそぶりをし続けることを演じてきた彼女は、夫に真実を指摘され、離縁か夫の死を選択させられる。殺したいと思う悪の欲求よりも、死んでしまえばいいと他人行儀をより悪とする手法には、とても共感し恐ろしく思う。彼女も同じようなことを言っているから。
常日頃、議論の的になるのは、「享楽と知性」の戦いであり、「理性と本能」の戦いである。
理性で行動をできるのは人間であるという文言は実はひねくれたものの見方ではないかと最近感じる。
本当に人間は理性的に行動をできるのだろうか。そもそも理性とはなんなのか。やってはいけないこと、特に姦淫としても、それを悪いことと名付けてしまったのは、理性の象徴である社会なのではないだろうか。本能のみで行動するとされる動物はなぜそのような過ちを犯さないのだろうか。それは、ひとえに、姦淫することによるデメリットがメリットを上回るからであり、ある島国の鳥は、伴侶を決めると、その時点からは、一度も浮気もせず、一生を妻に奉仕するのだという。というかよく考えると、種の問題で中には一夫多妻や多夫一妻制度を導入している動物種も存在するだろう。もしかしたら、一夫多妻がほとんどかもしれない。単純に、種の発生の問題から、妊娠・出産というストレスを考えると一夫多妻の方が生物学的には効率が良さそうだからだ。そのような社会において、女性に性欲は必要なのだろうか。単純にセックスをしたいということは起き得るのだろうか。生殖を目的としない性行為をするのは人間だけだそうだ(厳密にはもう一つ種があるが)。なぜなのか。性行為はどのような種であれ、その場面は敵から襲われやすそうである。そのため、性行為は自殺行為にも近いかもしれない。人間は性行為をするだけの安心を知性によって獲得した。まずその点が一つ。それから、性行為が快楽に結びついていること、これについては、快楽が随伴しなければ性行為はなされず種が保存できないという考えから、なんとなく、性行為=快楽の図式が真であることは想像がつく。人間は、性行為というその場の快楽を手に入れることによって、性行為ができないという矛盾した苦痛に満たされていることにどうして気がつかないのだろうか。そう思うのは男だけで、女性はそうは思わないのかもしれない。なぜ、女性の方が性欲がないと言われるのか、そもそも性欲とはなんなのか。僕はまたわからなくなってしまった。人間を理性的にしているものが知性だとしていたけども、結局、本能的になされない性行為という本能的行動に翻弄され、それを理性で抑えているのだという意味がわからない提言がなされているように思う。性行為という本能による行動は、人間以外の本能的と呼ばれる種々の動物の方が、より、理性的に行為されている。その状況下で、本能を抑える理性と言われても、なんだかおかしな感じだ。
義血俠血
泉鏡花
 
実は、こんな風に短編を読んでは解説を書くことは僕には珍しいのではなかろうか。
泉鏡花の文は時代背景も相成ってか、難しい単語が多い。なんとなくの文脈で理解はできるけども、もしかしたら読み間違えているのかもしれないと思ってしまう。読みが浅い。間違えていたら、教えて欲しい。
ストーリーとしては、馭者が10銭の乗車賃のところ50銭もの大金(うーん。大金には思えないのだけど)を、白糸から受け取り、他の乗り込み員をそのままにして、彼女だけ馬に乗せ石動まで運ぶ。その時に諍いを理由に彼は職を失ってしまう。夜風にうたれて涼んでいると、金沢浅野川の磧にて彼は白糸と再会する。初対面から思い初めし白糸は、彼の素性と志を聞き心底惚れ込み、援助すると申し出る。しかし、村越欣也は、受け取るだけじゃ乞食と同じだ、あなたの望みのものはなんだと聞く。すると白糸は、彼の特別な存在になりたいと申し出る。わかったと、その後二人は3年もの長い間、愛し合い(明確には明記されず、婉曲的だが、これを愛以外にはなんと表現すればいいのだろう)、欣也は彼女からの仕送りを元に東京で法律の勉強に励んでいた。白糸も自身の水芸の太夫の仕事に励んでいる。仕送りをするための金百円を苦労して稼ぎ、彼に送ろうとする次第、彼女は強盗にあい、その大切な百円を盗まれてしまう。その場に残る強盗の遺物である出刃包丁と浴衣の裾。彼女は、欣也に送る金がないならいっそ死んでしまおうかと思うが、それも不実と悩み、ならば私も盗人とならんとするが、それも良心の呵責にさいなまされる。気も漫ろにさまよっていると、彼女は有福な豪邸の前にいる。片手には出刃包丁。運悪く、そこの亭主に発見された白糸は無意識下にその亭主を殺してしまう。負の連鎖。次に現れるは、亭主の妻。ええままよ。白糸は金を強奪する。妻は、賊がか弱い女性と見るとその金百円もわたさんとするが、片手に出刃包丁の白糸。彼女はその亭主の妻に怪我を負わせてしまうが、それでも引き下がらないその妻をついには無残に殺してしまう。白糸は、初めはその強盗殺人の罪を包丁と浴衣の裾を利用して自身を襲った出刃打に罪を擦ろうとした。裁判になり、そこに現れたのは、検事となった村越欣也。愛する彼女と検事としての職務。故に、彼は彼女を嫌いにはなりたくなかったのであろう。そして、彼女も彼に誇れる彼女だったのだろう。彼の諭しに、彼女は真実を語った。白糸は、死刑となり、欣也は後を追った。
 
あまりに美しい欣也の諭しに涙が溢れた。
p82
”其方は全く金子を奪られた覚えはないのか。虚偽(いつわり)を申すな。たとひ虚偽を以て一時を免るるとも、天知る、地知る、我知るで、いつがいつまでしれずにはをらんぞ。しかし知れるの、知れぬのとそんな事は通常の人に言ふ事だ。其方も滝の白糸といはれては、随分名代の芸人ではないか。それが、仮初(かりそめ)にも虚偽などを申しては、その名に対しても実に愧づべき事だ。人は一代、名は末代だぞ。また其方のやうな名代の芸人になれば、随分多くの贔屓もあらう、その贔屓が、裁判所において其方が虚偽の申立てて、それがために罪なき者に罪を負はせたと聞いたならば、ああ、白糸は天晴な心掛だと云って誉めるか、喜ぶかな。もし本官が其方の贔屓であつたなら、今日限り愛想を尽かして、以来は道で遭はうとも唾もしかけんな。しかし長年の贔屓であつて見れば、まづ愛想を尽くす前に十分勧告をして、卑怯千万な虚偽の申立などは、命に換へてもさせんつもりだ。”
 
理解するために、金銭感覚を学びたい。同じ、泉鏡花の著作「金時計」にて、「まことや金一百円、一銭銅貨一万枚は、これ等の細民が三四年間粒々辛苦の所得なるを・・・」とある。自分の所得にあわせてみたら、税を抜いても約700ー800万になろう。なるほど。うーん。ちょっと感覚がわからない。
僕は読みながら、いったん本を閉じた。白糸が強盗に会った時だ。彼女はどうするのか。僕ならどうするか。単純にごめんなさいと欣也に謝るだろうか。これが現在の親事情ならどうだろうか。例えば、大学に送り出したがいいが、仕送りができず大学費用が出せないとなった時、僕の親なら自分でなんとかして欲しいと伝えそうな気がする。僕なら、、、、答えがなかなか出ない。それも白糸も悠々と百円を稼いだ訳ではないからだ。これからなんとかなるやというものでもない。それは彼女がすでに借金をしていることから分かる。夢は諦めてほしくない。なんと美しい愛であろう。それでも彼女は欣也の成果を聞こうとはせず、安否を確認するのみである。僕だったらどうするか、泉鏡花の文にはそう思わせる展開が多い。僕はどうしたらいいだろう。答えに窮してしまう。白糸も同じだったのかもしれない。自殺を図ろうとしたり、強盗にしようか謝ろうか、どうしたらいいかわからなくなってしまっている。愛し合っているから、自分の非も許してくれるに違いないと思い込むことができないことを罪というべきだろうか。欣也は、彼女からの仕送りがなくなれば夢を諦めることを笑って許してくれるだろうか。いや、そうに違いない。だけども、そんなことができただろうか。紛れもなく悲劇である。夢とはそこまでに大きいものだと感じてしまう。彼女は過って殺してしまったあとはどう対処すればよかったのだろうか。
 
欣也のこじき論も素敵だ。”自分の所望を遂げるために恩を受けて、望みを果たしただけでご恩にはならない。それだとこじきと同じだ”。