ペスト
アルベルト・カミュ
カミュは「異邦人」と「シーシュポスの神話」によって有名になった作家であり、ノーベル賞受賞者である。
フランスの植民地アルジェリアの都市、オランで発生したペストを題材にした物語である。
ノーベル賞受賞作品だからか、それとも、僕が大人になったために感性というか知識が洗練されたからか、それとも、そういう物語をわざわざ選択しているというバイアスによるものか、僕が最近読む本はある種の観念を提示して議論させる本のようであり、これら本によって僕らは考える事を余儀なくされる。というようなことを起こしうることが良本なのか。彼女はまだ「幸福について」を読み終わっていないのだろうか。
僕は、おしゃべりが好きな男性である。対して、人の話を聞くことに苦労する。僕は自分自身の話をする方が気が楽である。以前までは、僕は人の話を聞いていないがために、聞き手に回ると二度も三度も話し相手に同じ話をさせてしまうから話をさせるよりもする方がいいのだと結論づけていたが、そうではないらしい。僕は聞き役に回った時に、その話し相手が話したくないことを話させてしまうのではないかと恐れているようだ。だから、僕は自分のことは語り、人のことは聞かない。僕は、嘘をつくことが苦手で、本質的な話をしたがる。そうして得られた考え方がたとえ間違っていようとも考察に値すると考える。でも、「でも」というネガティブなワードはその人との会話を断ち切って、彼女の心情の吐露をせき止め、遮断してしまう恐れがあるが、本質的には意味がない接続詞だ。しかしながら、そうはいってられないのだろう。
彼女のことを知りたいと思う一方、言いたくないことを言わせたくないと思ってしまう。
ペストは、医師リウーが主人公のようであるが、物語で説かれる説は、幸せとは何か、善とは何か、人がなすべきことは何かというような高尚な話題だ。医師の職分という観点からすると、人を不幸にしないこと、できれば幸福にすることがその職分となるわけだが、それをなすにはあまりにできないことが多いことが実情であるように思う。当時ではなおさらそうで、ペストだとわかったところで何もできない。これは、僕ら神経内科にとっては、ほぼほぼ同じことが目の前の患者に起こっている。ALSと分かったからといって何もできない。IBMと分かったところで効果がある治療法は存在しない。その時に僕らが取りうる行動として、諦念か実験かがあげられる。僕は、実験だったり考察だったりそういった試行錯誤が好きな研究者のように思われがちであるが、医師の治療という点においては、てんで的外れである。僕は、絶対に効果があることをしたいと思ってしまう。もしかしたら効果があるかもしれないということをすることは倫理的に問題があるのではないかと考えてしまう。僕ら医療者が賭けをすることはできないし、それによって人生を左右させ得ないと思う。治療というのはもろ刃の剣である。効果があればあるほど、副作用というものも懸念される。これも100%そうだということはなくて、どんな人にもメリットの高い物事という事柄は存在するはずで、それは、健康的な食事とか運動とか睡眠とか、そういったトートロジーを駆使した事柄であり、それらは何があっても健康的である。なぜなら、健康なものは健康であるといっているだけだから。そういった中で、例えば、高齢者は基本的にビタミンが足りていないとか、ドーパミンが足りていないとかそういったことを持ち出してみると、だれでもそういったものを摂取したらいいじゃないかということになる。それが毒であるかどうかは知らないのだ。副作用というものは、実のところ多いわけではない。もちろん、僕ら医療従事者で当事者からすると、100分の1はかなりの高確率で生じる副作用である。それぞれの薬の副作用の発生割合が100分の1の場合、僕らが日々遭遇する副作用は、患者が100人いれば誰かに副作用が生じているということになろう。その副作用をもってしてもメリットとなりうること、この天秤の傾きが医療を突き動かすはずであるが、実際にはそうではないことも多い。治療をするという行為について、なんの疑問もなく突き進んでいる場合には、将来的に何が起こりうるかを考えるべきだ。
近年、治療薬の効果の有無だけでなく、経済的コストも議論に上がることが出てきた。これは不思議な話だが、例えば、生存期間を10日間延長する新薬Aが開発されたとして、その新薬Aは100万円するとする。対して、生存期間を3日間しか延長しない旧薬Bは100円とする。それなら、どちらがより価値が高いだろうか。この命題を解決するには、どうしても統計学的知識が必要不可欠で、そもそも生存期間10日というものの信ぴょう性について考えなければならない。例えば、この信頼区間が4日から13日だとした場合、中央値が10日間であって、旧薬Bの信頼区間は1から5日としよう。統計学的にいわゆるP値で有意差がついているとしても、本当に新薬Aに価値があるのだろうか。金銭的影響を度外視して考えた時の問題と、それを考慮した時の幸福へのQOLは全く異なったことになると思う。
不条理文学という響きが好きで、それは一種の僕の哲学のように思う。
幸福になるためにというテーマで考えた時に、不条理を理解し受け止めることが何より大事ではないかと思う。
常に持ち出したいのが、源氏物語、「宇治十帖」「椎本(しいがもと)巻」である。「源氏物語に学ぶ十三の知恵(島内景三)P19」から抜粋する。ここでは、八の宮という人物が亡くなる。皇族ではあるものの、名声も財産もなく、敗残の人生を送ってきた老人である。その老人には適齢期の二人の娘がいる。その二人の娘に対する遺言がとても不条理を浮かび上がらせており共感する。
「父さんは、どんなに努力しても、どんなにあがいても、幸せな人生を送れない運命の元に生まれてきた不幸な人間だった。そんな父さんの娘なのだから、お前たちも幸福な人生を送れない定めなのだよ。だから、お前たちは、人並みに幸福になりたいとか、結婚して今の境遇から抜け出したいとか、そんな気持ちを絶対に持ってはならない。この場所で、今まで通りに生きて、そして死ぬのだと、固く決心するのだ。父さんの人生は不幸の連続だったのだけど、思い返せば、あっという間だった。お前たちも、心さえ強く持って我慢すれば、短い人生なんか、すぐに過ぎ去ってしまうだろう。諸行無常。人生は永遠ではないから、人間の苦しみも長くない。こんな私を父親に持った宿命だと諦めて、お前たちはこれから、夢や希望などに振り回されず、父さんがこの世にいなくなっても、今のままで生き抜いておくれ」
どれほど器量が良く美しく賢くても、生まれと育ちがこれなのだから、お前たち二人が日の目を見ることはない。これからも不幸のどん底で過ごしていかなかければならない。それが、お前たちの運命だよと諭される。これだけ聞くと、なんてひどい父親だと思うけども、僕は、そうは思わない。
そのような不幸の底にいれば、小さな幸せも幸せときちんと受け取ることができるというのだ。例えば、その日の食にありつけること、気になっている人を一目見ることができること、こんな些細なことですらも、自分自身が不幸のどん底でそこから抜け出すことができない運命だと理解することで幸せと受け取ることができる。このことは、お金持ちの不幸にも通じそうで、飽食過多な現代社会においてよりよく幸せになる方法を提供していると思う。
追記。八の宮の遺言を書き写した時に、僕は、ここに仏教の理念を思い出し、最近本屋さんで立ち読みした絵本「5億年後の世界」を思い出した。その絵本のお話はこうである。ここにスイッチがある。このスイッチをおすと、君の時間は止まってしまい5億年何もないところで死ぬこともできず生きなければならない。しかし、5億年経った時に、君の記憶が消され、この現実に戻ってくる。このアルバイトをしてくれれば、100万円を与えよう。さて、君はこのアルバイトをするか否か。当然、ボタンを押しても、本人を含め他人としては5億年の何もない世界を経験した事実を忘れているため、しようとするが、5億年を経験すると途方もなく、死んだ方がいいという気持ちにもなるわけで、本当にそんなアルバイトをしたいと思うのかと思わせる。これは、人生においても似ていて、どれほど苦痛な人生を過ごしたとしても、過ぎてしまえば所詮過去。あっという間だったという感想に落ち着く。時間感覚を考えさせられる。仏教からすれば、所詮この世は偽物で、極楽浄土に行くことができるのだから、だから、涅槃図では、そのことを悟っている菩薩は微笑み、一般人は悲しむのだ。この平安時代の人生観からすると、現世をなんとか過ごしてその後幸せになりましょうという理念を感じる。その点は、現在の僕たちは反抗しなければならない。そもそも、そういった死後の世界を考えることは仏教だったりキリスト教だったりと人外の思慮を自分の行動理念に持ち込んでいるわけで、それはある意味正しくある意味全くの見当はずれである。神はいるのかいないのか、そんな論争がかれこれ何年も続けられており、ある種の哲学者はその論争に終止符を打とうとしたし、カミュ自身も、神がいると信じて行動しているパヌルーと、神はいないとしているリウーの結論が同様であれば、それは、神はいないのではないかと文学上で示そうとしている。僕たち日本人は基本的に無神教というか、逆説的に多神教、そもそもの神道は多神教であるのだが、神を信じないという立場をとると、それならば、人生に抵抗しなければいけないという教えもあげられる。これは、源氏物語の世界観から一歩進んだ観念のように思われる。源氏物語までは、不条理に対抗する術はなく、不条理を受け入れ、後は神頼み仏頼みであるが、ペストでは、そこから進んで、抵抗を見せようとしている。
恋愛に限っては、僕は常に彼女の一挙手一投足に翻弄されているわけだけども、それも、彼女は僕を好きでいてくれているかもしれないといった空想、そう空想なんだこんなものは、に取り憑かれているからで、そんなものは何もなく、何も僕を支えるものはない、彼女が僕を好いてくれるのはたまたまでそのようなことが長続きするはずもない、期待もなければ、失望もないと、そういった心持ちを保てば、小さなことが幸せで、何もなくてもそれが普通と思えるはずなのである。
あたかも、好きな芸能人に会えた時のような興奮であろう。しかしながら、人間は賢いから、自らを未来に投資して行動することができてしまう。つまり、彼女に好かれるように行動することができるし、賞を取れるように行動することができるのだ。それらは僕らの生活の向上を目的とし、向上してしまった後では、その下に埋もれてしまったどん底は見えなくなってしまっている。エレベータでどれだけ高層マンションを登っても、エレベータの中で足下を見ると、自分の足と目に見える床があるだけで、本当にそこが地上から100mも上にあるのかどうかということはそれだけでは判断できなくなるのだ。同様に、進歩した現在、科学に埋もれてしまった自分は、過去の不幸を見据えることができず、その地面が簡単に崩壊して、ビルから投げ出されてアスファルトに衝突することは決して望まず、そして想像だにしていない。そんなことはそう、テロリズムのような地震のような身に降りかかる天災のようなものであり、そうなれば、その時に僕らの人生が崩壊して死に直面する。そんな顔色を見せるのである。故に、僕らはそこから逃避し、見て見ぬ振りをし、気にしていない態度を取るのである。
また、人間は、行為は報われて欲しいと思っているようである。報われない行為はないというふうに教えを説いたのは誰なんだろうか。報われて欲しい行為は形を変えて、人々に襲い掛かり、報われないとしても、あの人は自分より努力をしていたから、あの人の方が自分より才能があったからとなんとか理由をつけようとする。そうして人は納得し悲しみを軽減させようとする。何の理由もなく報われない物語を人々は悲劇と呼び、そうならない、そうなっていない自分たちを上位において安心するのである。あぁ、僕らは幸せで良かったと。そのような悲劇は物語として形をなし、そんなことは現実では起こらないと安心しきる。もしも、そのようなことが起こったとしても人間には現実逃避する頭脳が備わっているのだ。
さて、不幸に見舞われた時、人間はどのような行動を取るのだろうか。ペストでは、その対応について提示がされる。慄き恐怖した群衆は、そのうち馴化して、無関心になる。不幸に良い意味でなれるのだ。この時間の流れは、がん患者における受け入れの段階にも似ている。初めは、人々は、その癌という避けられない思いがけない不幸に「拒否・否認」する。こんなことは起こるはずがない。これは嘘だ幻だと。そして、その後「怒り」が芽生え始め、なぜそうなったのだと原因に怒りを覚え、何がしかの理由をつけようとする。そのうち、それでも不幸が身に起こっていることは事実として降り注いで行き、なんとかしてその不幸を軽減しようと「取引」をする。これをするから救ってくれ、こうしたら不幸の中でもよりよく生きられるかもしれない、死ぬまでにこれをしたいと。そうして、「抑うつ」状態へと進んでいき、最終的には不幸を「享受」するのだ。悲劇が見に起こっても同様の現象が起こり得よう。
突然の悲劇を受容するには、何がしかのプロセスがいるのだ。とはいっても、初めから受容してしまっていれば、不幸はないのか。
「如意(まま)にならぬが浮世」よ。泉鏡花もそう言って、あるがままを受け入れよと諭してくる。こんなにもこのテーゼが叫ばれるのは、つまりは世の中で理解されていないことが真実だからだ。そして、その思うままに行かない人生とわかっていても思う通りにしたいと思うこの心情。どう折り合いをつけていけばいいのだろう。
いいテーマが見つかったので、そこから、もう少し先に進んでみよう。
「悲劇に見舞われた時にどう対処すべきか」。この命題には、含意として「悲劇を悲劇とみなさないためにはどうすべきか」という主題も隠れている。源氏物語やペストでは、悲劇は起こりうるということを理解すべきだと提言して終わったが、そんなことをいっても、理解をしても受け入れられないのだと実際の心境を語ってみた。がんの受容の5段階仮説を持ち出して、そうはいっても最終的には受け入れられるからというふうに推察されてしまったが、この受け入れられたという状況に陥るまでの不応状態が幸せな対処法なのかというように思えた。そのため、テーマである、どう対処すべきかという問題について、その前に悲劇を悲劇とみなさないことができるかということを提案してみる訳である。
そこにある答えが提示される。それは、保険である。保険というのは、身に覚えのない霹靂のような不幸を金銭的に支援いたしますよということで、それによって、病気・災害・最愛の人の死別などは、金銭的に補助されるようになった。つまりは幸福をお金に還元して支払われたのだ。この保険によって、悲劇が生じても悲劇にならないから大丈夫というような暗示をかけられているのである。もちろん、例えば交通事故で車両保険に入っているとか、盗難にあったときの保険とか、金を金で対処する場合はうまく働きそうだけども、病気とか死別とか、そういった類はどうなんだろうか。いくらお金を積まれても、障害は障害のまま残存するし、愛する彼女が生き返ることはない。やっぱりどうしようもないのか。そうだとしたら、不条理文学や哲学でこういった不条理に慣れておくしかないのか。愚鈍な市民のように。