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CACHETTOID

Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

外科室
泉鏡花
 
泉鏡花の文体は、過去のものであり、読書にかなりの苦労を要する。特に文系の勉強を受けていない僕にとっては、読み間違えているのではないかと、それは、古文を読んでいるようで、あの頃は読み解くことができずに、現代語訳を見ると自分が想像していた訳と異なっていて、全然読めていないじゃないかと思った。それは、語彙力の問題と単純な文法の勘違いが大きな原因であろう。
泉鏡花は金沢出身の作家であるが、僕は読んだことはなかった。医師高峰は高峰譲吉を連想させる。アドレナリンの発見者だ。僕らは敬意を込めてエピネフリンではなくアドレナリンと言うべきだ。
 
僕の中で大きな論点は、高嶺外科医は婦人を手術してよかったのかどうか。
自分ならどうするだろうか。高嶺外科医は、学生の時に婦人を見初めた。その時から、彼は彼女一筋になり独身で謙虚な生活を貫いていた。彼女は同様に彼を愛していたかもしれないが、その時代背景からして見合い結婚なり何なりで貴族は結婚してしまった。まぁ、なんにせよ、彼女は侯爵夫人になっており、簡単に言えば、侯爵のものになった。その関係性しか彼は見えていないはずであり、彼女の心の中は窺うことができないはずだ。
その状態で、彼は彼女への愛を第一に行動できるんだろうか。人の心は移ろいやすく、愛している感情は憎悪に反転することもある。それは事実なんだろうか。
医師の職分だから、救おうとするのは、当然で、それは、愛する人だろうが嫌悪のある人だろうが同様だと思う。が、本当はそれは博愛の精神からなるマザーテレサのようなことで、実際はそんなことはないのだろうか。そもそもこうやって疑ってかかる精神が間違っていて、彼女の言う通り、外科室内で物語が完結しており彼らはその時点において昔と同じ感情になっているのだろうか。
 
確かに、僕らはロールプレイをしている。それは様々な場面で使い分けられている。中学校時代の明友に会った時はその頃に戻ったような感じがする。発言も少し若年化し、少しムチャなこともしようとしてしまう。その後付き合いが増えていくと、また大人びた状態に変化していくわけだけども。久しぶりに会うということはそういうことなのだろうか。彼らの間の時計がまた止まっている状態でその後動き出したように、それまでは固定された感情は動いていないのかもしれない。
現実社会では、SNSとかインターネットとか電話とかそういった遠隔装置が発達してしまっている。僕らの時間というのは、出会わない時には動き出していないのかもしれないという理論は、アインシュタインとは反してベルクソンの時間論みたいだ。時間について言及した著書は多い。トーマス・マンの魔の山も時間論を呈する。いずれも、主観的時間と客観的時間が異なるという理論を打ち立てており、確かに、出会わないときは時が止まっているという解釈もできる。現在の遠隔装置はこれらの時計を無理やり動かしているようにも思える。それはもちろん、現実で動いている2日を穴埋めするに十分で必要でそれこそが現在人の望んだことなのかもしれないが、どうなのだろう。
上司と部下の関係でいうと、二人の関係はお互いに進捗しているが、出会っていない時には、部下の仕事がどこまでできているかは上司はうかがい知ることはできない。あたかもシュレディンガーの猫のように、その状態の仕事は進んでいるとも言えるし進んでいないとも言える。しかしまぁ、時間論的には、その時間は止まったままである。部下の報告を上司が聞くことによって、二人の時間は動き出し、瞬く間に現実に追いつく。しかし、中には、部下の仕事の出来具合を心配するあまり、何度も確認を行なっている人もいるかもしれない。いわゆる、ほうれんそう。そうなると、部下と上司は二人三脚のように時間のすり合わせをしているということになる。
恋人同士の連関で考えると、二人は会えない間は、お互いの時間を過ごしている。その時には、相手のことを思いやり、何をしてあげようか考えたり、プレゼントを買ったり、そういった準備をしたりする時間も含まれる。同時に、相手がいるとできないこと、例えば、自分自身の趣味だけに費やす時間でもある。そして、人によれば、むしろその時間に浮気を働こうという輩もいるかもしれない。
いずれも、それらの時間は個人の時間である。そうして出会っていない共有していない時間があったとしても、出会った後に二人は時間を推し進め現在に持ち込むことができる。それらの時間を細切れにして飛び石のように繋げてしまったのが、遠隔機器である。
それは果たして本当に福音だったんだろうか。
わざわざ二つの離れた過去と未来を無理やり繋げるために飛び石を何個も何個も置かなくても、その隔たりがどんなにあっても、愛し合う二人であれば、簡単にそのすき間空間と時間を共有することができるのではないだろうか。
 
高嶺外科医と婦人の間には、確かに大いなる愛情が満ち満ちている。それは、この文庫に並存している「義血供血」や「夜行巡査」を読んでも分かる。
そして、それら他の作品から同様に分かることは、いずれも、「職務・責務」と「本能」との戦いであるということだ。しかし、この外科室は少しだけ異質である。医師の職務を全うするとすれば、手術をしないといけない。愛する相手だとしても、やはり手術しなければいけないのではなかろうか。しないという選択肢をどこに設けたらいいのだろう。
自分が過去に書いた文章を再掲載します。


NHKの番組で教育特集がやってて、それで、言及された事柄を流し聴きしながら、違和感を多く覚えた。
「多くを救うことはできない。個々人に特化した教育が必要である。」
この文言は至極当然である。
が、しかし、このことを実現することは困難である。なぜなら、能力の低い人にも平等に教育を施さなければならないと言うテーマが個人に特化した教育という概念と相対するからだ。自由は平等と共存できていない。
 
さて、今、僕の下に研修医がきている。
彼女への教育はどうしたらいいのか。そもそも、多くの人は教育を受けてきていないと感じる。いや、教育理論を知らないと思われる。なぜか僕はわからない。僕自身わかっているのかもわからない。弁論をたれる前に正式な現在のところ正しいとされている理念・理論を学ぶべきだ。
なので、ここで僕が述べる理論が正しいと宣言することはない。僕が心の中にあることを吐露しているだけだ。
そもそも、個別化した特別な教育体制を作成するには、その被教育者のことを把握しなければならない。
これまで、僕は、その点において重要なことは、教育しようとしている内容の知識の有無、背景の知識の有無だと考えてきた。そのため、どこまで分かっているのかを確認してきた。つまり、解剖学がわかっていない人はまずそこから、治療メカニズムがわかっていない人はそこからというふうに。
しかし、そもそも、教育を受けてきていない人たちにとって、知識がないことが足かせになっていないことは実は明白だったのだ。でなければ、二十八歳にもなって、否、大学を卒業して、研修医を1年も過ごしてきてこの知識の少なさは説明できない。そもそも、勉学をしていないという自覚がないのだ。
そのため、まず、どんなふうに育って、何に興味があって、というところから把握する必要があるだろうと考えた。つまり、幼少期にどのように勉学に励んできたか、学んできたかを検討する必要があるのではないかということだ。その土台を確認することで自分自身の理念とどこが違うか判断しなければならない。要は被教育者の根底にある理念や考え方を把握しないといけない。

このことを熟考するにあたって、そのことが望まれるのかどうかを検討しないといけないのではないかと思われる。そう、彼女において、僕が与える影響がどこまであるのだろうか。僕がその役割を担ってもいいのだろうか。僕は彼女にとっていい教育者となれるのだろうか。好かれてもないのに。
大人は、人は、ほとんど人の話を受け入れることはない。それは、尊敬や共感が人への影響力に関与するからであって、もちろん、反感や嫌悪も反面教師として影響力に関与するが、それは同様のことであって、中途半端な立ち位置はその個人に対して些細な影響しか与え得ない。つまり、僕らは、尊敬する正しいと思える人の行動や発言から教育を受け、また、嫌悪する対象と反対のことをしようと行動する。そのため、当たり障りのないことを発言しても、それは耳から耳へ空気が通り過ぎるだけで、何も彼女に与えはしない。故に、考えなければならないことは、何をすることが彼女の行動を変容させうるかということである。叱咤か媚びか。
 
正直何が正解か分からない。全ては逆効果かもしれない。そもそも、僕は彼女にとってのその役にはなりえないかもしれない。でも、いろいろ試す必要はあるだろう。彼女のためを考えるという最もらしい動機を胸に。

 

 

 

 
選民思想というのは、ユダヤ教に通ずる思想の一種であり、我々は神に選ばれた崇高な市民、民族の一種であるとする。
そのため、神、もしくは、キリストの子孫である彼らは、そのほかの人達よりも能力に秀で、そう、多彩な能力、例えば、数学、物理、医学、崇高な比喩力、表現力、身体能力から芸術的観点において秀でている。
さらには、細かい作業をする実務的労働力においても、優れているという自覚をもつ。
 
それを選民思想という。

対して、非選民思想というのは、そのような選民にはなっていないと否定する立場にある。
自分には能力がない。できることがない。
幼少期に誰もが憧れたテレビアニメのヒーローにはなることができない。
ノーベル賞を取ることはできない。夢は夢のままで実現することがないから夢という。
現実を見ろ。実現可能な目標を掲げよ。
 
大人になるというつまらない過程の中で、若者は選民思想という一種の過激で情熱的で、耽美な思想から逃れ、追い出せれ、非選民となる。
その社会の中では、いてもいなくてもいい、そんな風に社会は回る。
そういう思想である。
 
現在社会、機械化、均質化が進む中で、選民思想は消失していった。代わりに、非選民思想が人々の心の水面を打つ。
それも、一種の思想じゃないのか。選民思想を卑下して、なぜ、非選民思想を卑下しない。自己矛盾。解離性。
そこに一石を投じたい。
昨日思ってたこと。
あまり記憶がなくなってはいるんだけど。
 
人がものを見た時に後頭葉皮質の神経細胞が活発になる。
今、目の前にある光を認識して、それが網膜の光受容体に作用する。
そこで電気信号が出現し(これは単純にin-current Na inflow)、それが細胞膜を伝わる。その後、電気信号が化学受容体に作用するメカニズムについては十分に理解されているし、僕自身も割と熟知している。
化学受容体の構造変化を引き起こすに至ったNaやCaなどの細胞内膜・外膜の行き来は、軸索終末からの神経伝達物質の遊離を引き起こす。その流れが連続して生じ、そして同様にcross-talkし、後頭葉皮質に到達する。
fMRIにおいて、どのような信号を拾っているのかは知らないが、まぁ、neuronの活動(活動というのは、単にin-current Na inflowに他ならない)を記録される。
この外界からの刺激が体内の物質の変化を誘発するメカニズムについては割と理解できるんだけど、本当に理解できるのかは不明で、なぜなら、外界からエネルギーを受容すると体内のエネルギー総量が増えそうだから。となるとエネルギー排泄機構が必要となって、それは、発汗やら排便やら発声やら単純に外に発するエネルギーでいいのだろうか、それとも、脳内の神経細胞が活動し、グルコースが酸化的リン酸化によって運動エネルギーに変化させられることで釣り合いが取れているのだろうか。それは僕にとっては不明である。
 
さて、では、頭の中で”考えた”こと、頭の中である景色を想像した時にどこが活動するかという研究では、忘れたけども頭頂葉の一部が発火するということだ。では、その脳の中の一部が発火したとして、どこがtriggerになっているのか。そこが僕は疑問だ。
そうした時に、triggerになる部分はなんなのかとすると、triggerのtriggerは?となってくるので、ホムンクルスの小人になっちゃうので、やっぱり、急に活動したんじゃないかとなる。
そういうことがあるのかな。
そもそも、細胞内のタンパク質など構造物は常に移動している、流動している。それは脂質二重層もそこに付随する膜蛋白も同様で、核酸も同様だろうか。
それはあたかも量子論的考え方だけど、動くにはエネルギーがいるのだけど、とにかく動いている。と思う。
もし仮に止まっているとしたら、何かの活動をする時に、エネルギーを生み出さなければならなくなる。しかし、常に動いているシステムでは、エネルギーの一部を移し変えるといった作業のみですむ。したがって、常に動いている方が効率が良いのではないかと考える。そして、その動きというのは、いつから生じたのかと思うと、結局は胎生期、さらには受精卵、卵子精子の段階からそうで、いや、だから、量子論的にはものが存在しているその時点から運動をしているというわけ。その運動エネルギーはどこから生じているのかというと、Na-Kポンプの絶え間ない運動が生じていて、そして運動エネルギーを増幅させている、と同時に減少させている。だから、タンパク質は絶えず生成され、同時に破壊される。核酸は常に転写される。その状態下では、”思う”という”行為”によって神経細胞が突然(あたかも)活動をするように見えるのは一応了承される。
情動と感情の勉強の後(Kandell)、無意識的状態が存在していることを示され、まぁ、単純に、意識下に生じた認知や知覚の前に神経細胞が発火してるということを無意識的状態つまり情動と考えただけかもしれないけども、とりあえず、そういう無意識的状態が先行することがある。それ自体も複数のコンポーネントによって調整されていて、例えば、扁桃体は前頭葉内側なんとかというところと常に連携して発火の速度・潜時を調整している。ここでも運動は常に生じていることがわかる。あとは、何かを行う実験系の前段階の時にどこかの部位がきちんと運動している発火している活動していることを示したいと思う。そうすると循環や回路といったぐるぐるした経路が重要だとわかる。
運動について考えると、中心前回のBetz神経細胞が発火する前に、前頭前野が興奮するのがわかるけども、何もしようとしていない時にぐるぐる回路があるはずだと思う。そして、それは基底核小脳系つまりは静止をするように働く細胞群がいるはずだと思う。fMRIでそれは示されてないのだろうか。
それらは記憶のPapetzやYakovlev回路の理論と同様ではないか。
カンデル神経科学から。

感覚受容器は1種類の刺激エネルギーに応答する
各感覚器官に複数のサブクラスの感覚受容器が存在する
神経発火パターンによって感覚情報が脳へ伝達される
感覚ニューロンの受容野は空間情報を伝達する
 
感覚の始めの器官はもう研究されているので、それ以上の追求すべきものは少ない(個人的見解)
 
感覚の勉強は結局カメラの原理とか医学以外の知識も必要であると思う。(個人的見解)
 
神経生理学者たちの直感
 過去の経験に基づく類推
 感覚的な情報処理ではなく認知的な処理の結果
 
感覚系に共通する構成原理と情報を符号化するメカニズム
 
 
数千から数百万の軸索が数百まんの神経細胞によりシナプスを介して中継される
 
情報は比較的単純のものから認知の基盤となる複雑なものに変換される。
 情報という大まかなくくりになっているのでいつもそこでつまづく・・・
 
脳の高次中枢で、情報処理の初期段階へ情報をフィードバックする。
 →入力される感覚信号を修飾し再構築する。
 つまり、感覚は外にあるものが体の内部で再構築されているので、自分が感じることと他人が感じることが異なる。
 
哲学的な問題へと発展
 我々が経験する感覚はそれを引き起こす刺激を正確に反映しているのか、それとも、われわれの外界の認識は本質的に主観的で不正確なものであるのか。
 
僕は後者だと思う。
 
George Berkeleyの問い(経験論者)
「もし、誰も聞いていないところで木が倒れる時、木は倒れる音を発するのだろうか」
 
 
Kant
 知覚は脳が創出するものであり、神経系の構造に依存している( apriori)アプリオリ知識
 
 
刺激強度の知覚は心理物理学的法則に従う
強度が違う二つの刺激をどのように区別するのか?
感覚強度を数式で定量化する。
Weber(1834)
 ΔS = K・S
ΔS 参照刺激(第一の刺激)Sと第二の刺激との識別可能な刺激強度差の最小値 =最小可知差異(just noticeable difference)
K 定数
 ようは始めのSが大きければ大きいほどΔSは大きくなる(ΔSが小さければ判別できなくなる)
 Sが小さければ小さいほど小さい差も検出できる。
 
Fechner (1860)
 I = K log(S/S0)
I 感覚強度
 
logよりも累乗で表されそうだ
 I = K (S-So)^n   :: : Stevens(1953)
 
感覚強度というのは、自分自身で感じる痛みのこと。
つまり、Stevensに従えば、最も痛い(本当はあまりいい表現ではないことになる。そもそも、最も痛いがどこを基準と考えているかが不明だから)刺激(S0)を考え、自分自身が今感じている痛み(I)というのは、現実に与えられた刺激(S)とS0との差のべきに比例するということ。
S0の定義が難しく感じる・・・
 
 
感覚閾値(検出可能な最小の刺激強度)
 統計的に決定する
 心理測定関数(psychometric function)と呼ばれる関係がエアッレル
 2つのパラメータが異なっていると認識できる検出率
 
感覚強度の定量的標準化
1)恒常法(なんども同じ刺激をして同じ反応があるかどうか)
2)極限法(二つのパラメータが異なっているとわかるか)
3)調製法(同じパラメータを被験者が作り出す)
4)マグニチュード推定法(現在の主流)
 10分の何々で聞く方法は順序尺度
 
手の触覚受容器から記録された秒あたりの活動電位数は皮膚押圧の振幅に比例する。
=神経発火頻度と圧刺激強度は線形関係