教育理念 | CACHETTOID

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Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

自分が過去に書いた文章を再掲載します。


NHKの番組で教育特集がやってて、それで、言及された事柄を流し聴きしながら、違和感を多く覚えた。
「多くを救うことはできない。個々人に特化した教育が必要である。」
この文言は至極当然である。
が、しかし、このことを実現することは困難である。なぜなら、能力の低い人にも平等に教育を施さなければならないと言うテーマが個人に特化した教育という概念と相対するからだ。自由は平等と共存できていない。
 
さて、今、僕の下に研修医がきている。
彼女への教育はどうしたらいいのか。そもそも、多くの人は教育を受けてきていないと感じる。いや、教育理論を知らないと思われる。なぜか僕はわからない。僕自身わかっているのかもわからない。弁論をたれる前に正式な現在のところ正しいとされている理念・理論を学ぶべきだ。
なので、ここで僕が述べる理論が正しいと宣言することはない。僕が心の中にあることを吐露しているだけだ。
そもそも、個別化した特別な教育体制を作成するには、その被教育者のことを把握しなければならない。
これまで、僕は、その点において重要なことは、教育しようとしている内容の知識の有無、背景の知識の有無だと考えてきた。そのため、どこまで分かっているのかを確認してきた。つまり、解剖学がわかっていない人はまずそこから、治療メカニズムがわかっていない人はそこからというふうに。
しかし、そもそも、教育を受けてきていない人たちにとって、知識がないことが足かせになっていないことは実は明白だったのだ。でなければ、二十八歳にもなって、否、大学を卒業して、研修医を1年も過ごしてきてこの知識の少なさは説明できない。そもそも、勉学をしていないという自覚がないのだ。
そのため、まず、どんなふうに育って、何に興味があって、というところから把握する必要があるだろうと考えた。つまり、幼少期にどのように勉学に励んできたか、学んできたかを検討する必要があるのではないかということだ。その土台を確認することで自分自身の理念とどこが違うか判断しなければならない。要は被教育者の根底にある理念や考え方を把握しないといけない。

このことを熟考するにあたって、そのことが望まれるのかどうかを検討しないといけないのではないかと思われる。そう、彼女において、僕が与える影響がどこまであるのだろうか。僕がその役割を担ってもいいのだろうか。僕は彼女にとっていい教育者となれるのだろうか。好かれてもないのに。
大人は、人は、ほとんど人の話を受け入れることはない。それは、尊敬や共感が人への影響力に関与するからであって、もちろん、反感や嫌悪も反面教師として影響力に関与するが、それは同様のことであって、中途半端な立ち位置はその個人に対して些細な影響しか与え得ない。つまり、僕らは、尊敬する正しいと思える人の行動や発言から教育を受け、また、嫌悪する対象と反対のことをしようと行動する。そのため、当たり障りのないことを発言しても、それは耳から耳へ空気が通り過ぎるだけで、何も彼女に与えはしない。故に、考えなければならないことは、何をすることが彼女の行動を変容させうるかということである。叱咤か媚びか。
 
正直何が正解か分からない。全ては逆効果かもしれない。そもそも、僕は彼女にとってのその役にはなりえないかもしれない。でも、いろいろ試す必要はあるだろう。彼女のためを考えるという最もらしい動機を胸に。