トーマス・マン著、魔の山 下巻を読みきった。
眠い。彼らの会話は僕を睡眠に誘う。
眠い。彼らの会話は僕を睡眠に誘う。
考えているはずだが、僕らはあまりそれらを言葉にできない。
たいていの人がそうであるとおり、僕自身も、表現力にかけているのだ。弁論家でないのだ。
ナフタとセテムブリーニの議論が白熱するところを読んでいると、議論には周りの取り巻き同様ついていけないのだが、論理だろうが思想だろうが、より強固なものにするには、論敵が必要なのではないかと思われた。
その中で、ハンス・カストルプが中庸を醸し出すのをみて、それらは止揚に他ならないのではないかと考えらえた。
”雄弁な弁論術は、形而上学となり、実学に結びついていない。”
この主張はものすごく面白い。しかし、これはもう好みの問題なのかもしれないが、言語の保護はどこまでが本当に有益なのだろうか。これは単にエゴなのか。
失われいく言語を保持することが、教養とすることができるが、しかし、単純言語のみで表現可能であれば、それで十分と言うこともできる。対する反論は常にある通り、その場合、情報が部分的に消失しているのであって、発し手と受け手に齟齬が生じるであろうこと。同じ白を見ることができないのと同様に。
言語は文化である。そして、言語を失うことは文化を失うことである。故に、言語を保全しなければならない。文化的多様性を保持しないといけないからだ。という理論。
言語は文化である。そして、言語を失うことは文化を失うことである。故に、言語を保全しなければならない。文化的多様性を保持しないといけないからだ。という理論。
これは、一つめの問題として、文化を保持しないといけないのはなぜかという論理を持ってこないといけない。多様性を失うことを余りにも恐れていて、果たして本当にそれが悪いことなのかどうかはなかなか判断が難しい。そこをまず教えて欲しい。
言語の多様性は生物の多様性とも違う。生物の多様性の消失は、多様性の創造(進化)を追い越していると考えることができる。故に、生物の種の保存は必要とされるといういう理論は成り立つ。言語の場合は、異なる。なぜなら、言語は消失すると同時に創造されるからであり、どこからを言語とするかは不明だが、若者言葉やコンピュータ言語を言語とすると、消失と共に創造される。
とはいっても、個人的には、やはり言語の消失は寂しい。
ヨーアヒムの死とともに、死という現象を論証していく必要がある。
まず、文章を読み返さずに、死についての概念を考える。これは、医療従事者にとって重要な事柄と言わざるを得ない。しかし、死に近すぎる存在ゆえか、僕らは死について明確に考えないこと多い。
「死ぬということは、死んでいく当人よりも、後に残る人々にとっての問題である。生きている限り、死の来る時、私たちは存在しない。
私たちと死との間にはいかなる現実的な関係も成り立たない。」
死という現象を考えるにあたって、死んだ後も爪が伸びたり、髪が伸びたりするといった現象を考える。このパターンは、単純に、その細胞群が機能停止をしていないからだと捉える。
そして、死という現象は、人体を構成する”全ての”細胞群の不可逆的な機能停止と考えることが妥当に思われる。なぜなら、全ての細胞群の機能停止ではなく、ある細胞群の機能停止とすると、例えば、皮膚角化細胞の機能不全などが生じても、人体の機能として回復し得るからである。そして、不可逆的でないとすれば、一時的な病態、ある種の炎症や感染症などの状態ですぐに人体は死を迎えなければならなくなるからだ。
そして、不可逆的な機能停止に至る過程において、あとどれくらいの時が経てば、そうなるであろうという状態が存在しうる。
臓器においては、死を迎えることが現実的に多くなってきた。このことは、時代の流れに沿って考える必要がある。人工呼吸器の発達、人工心臓の発達、透析の発達などによって、各臓器の機能維持が可能になった。ある意味では。これは、それぞれの臓器が代替可能性を有しているという事実に基づかなければならないわけで、現在、医学的に、代替が不可能と考えられている脳や肝臓でさえも、代替可能となりうる事態を想定しなければならない。
その場合、どこからを「死」と定義し考えるのか。
よくある話は、体の一部を機械と取り替えていったとき、どの段階をへて自分じゃなくなるのか、その時人は死ぬのか、それとも、死ななくなるのか。
もう一度、死という現象について明記する。人体を構成する全ての細胞群の不可逆的な機能停止と捉えると、それぞれが機械に置き換えられていった場合、単純に上述の一文は以下に置き換わる。
人体を構成する全ての機械の不可逆的な機能停止。
そして、このからくりから、機械は不可逆的には機能を停止しないと捉えると、人体の死は存在しないことになる。
しかし、機械にも寿命(機能停止する時が来る)があると考えると、結局のところ、機械の死(破損、故障)といった現象が存在し、その時をもって人体は死となる。
どこに倫理的な問題が生じるかと考えた時に、時間経過という概念が入って来るだろうか。
つまり、機械と人体を取り替えない場合には、人体の機能不全はせいぜい100年だが、機械だとそれを超えるのではないかという問題。果たして本当にその論理は正しいのだろうか。
人体は所詮、置換がきかず(この置換という概念は移植である)、修正を施しているだけである。
今、目の前にあるパソコンは、箱の中に、電気基盤を主としたコンピュータを内蔵し、その流れと、それから、電波を受け取るメカニズムを作成している。このパソコンの寿命は物質的破損によってまず、生じることが考えられるが、仮に、このパソコンが真っ二つに折れたとして、それを修復することができるのだろうか。
そして、道徳的基盤。経済状況。人的資源。パソコンを買い換えた方が良い状態にすぐに陥る。それは、他の家電製品も同じである。
何を持って死とするか色々検証したい。
つまり、現実的には、機械の方が先にガタがきて壊れているといった現実。これを永久的なモノとするには、技術革新を止め、故障を修理する技能だけを磨かなければならないように思えるのだが、矛盾していないだろうか。
入り乱れた主題はあまりにも難解で、ハンス・カストルプもセテムブリーニやナフタの言を理解し内包化しきれていないのと同様に、僕自身ほとんど理解ができていない。
長い長い1200ページを読み終えたという達成感は、しかし、今後の人生で大きな役に立つだろう。少なくとも、他の長編小説を読むときの自信となってくれるだろう。
「魔の山」は、主人公ハンス・カストルプが結核療養型病院であるベルクホークで、様々な人々と出会い話をし、体験を共有、体験を実践することにより、成長する、教養小説である。
ある事柄があまりにありえない事柄が次から次へと津波のように押し寄せる陳腐な現代小説とは異なる。僕は、それら現代小説を「作者の都合」で物語が進む小説と言い切っている。
しかし、これら、魔の山では、実は多くのイベントがある。ショーシャ夫人との恋。ナフタの出現とナフタとセテムブリーニの論争。ツァームセンの死。恋敵であり人生の師であるペーペルコルンとの会話。そして彼の死。エレンによる霊媒。何より、ナフタとセテムブリーニの決闘。最終的にハンス・カストルプは戦線に赴かれてしまう。
これだけの大きなイベントが何も矛盾なく見過ごされるのは、マンの筆力のおかげだと思う。自然と進んでいった。
魔の山の考察は、どこから手をつけたらいいか分からなかった。ペーペルコルンに代表される享楽主義の利点も述べる必要があっただろう。ツァームセンの死、ペーペルコルンの死、ナフタの死、そしてツァームセンの幻覚の中での再会、それら死と通じる点において、精神と肉体という常に論議されてきた観点を論じる必要もあった。力尽きてしまったが。
魔の山から僕は何を得て、魔の山の読了前後で僕の中の何の意識づけが変わったか。
結局、考え方が強化されただけのように思う。
その考え方とは、中庸の論理であり、極論の排斥である。