CACHETTOID -13ページ目

CACHETTOID

Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

よく先生方が質問してきます。
たとえば、「ステロイドが効くということはどういうこと?」とか、「この人の疾患はなに?」と言った類にである。
これらの質問に対して先生方が想像しているように解答をしないことには正答とはならない。
しかし、先生方の質問が曖昧であるが故に解答は一つに絞れないことは多い。
前述の問いかけを正しく解釈すると、たとえば、以下のように変化する。
「この脳炎の患者において、メチルプレドニゾロンを投与した前後で比較すると失見当識が改善していた。この失見当識の改善においてメチルプレドニゾロンがなんらかの作用を有していたと私は考える。なんらかの作用とはどのような作用か自己免疫の点から解説しなさい」
通常、私たちは先生方と同じ空間に属しており、同じ患者を診察し、同じ患者の問題点に対して対処しているはずであるので、上記の非常に長ったらしい質問ではなく、簡単明瞭な「ステロイドが効くということはどういうこと?」と質問が変化するのである。
質問の内容が大幅に省略されているため、考えている前提条件を質問者と解答者の間で同一にしなければ質問に沿う解答を導き出すことは失敗に終わる。質問に出現する単語の定義が質問者と解答者の間で異なっている場合にも質問に沿う解答を導き出すことは失敗に終わる。これは、ヴィトゲンシュタインが指摘した箱の中のカブトムシそのものである。
すなわち、質問者は抗NMDA抗体陽性脳炎を意図していたのに対し、解答者はヘルペス脳炎を意図していた場合、解答は異なったものになるであろう。メチルプレドニゾロンの作用と大まかであれば、それは、解答がいくつもあることになるであろう。これは自己免疫作用といっても同様ではある。
そして、解答者が答えられない場合に、質問者が解答を提示することになるわけだが、その時に解答者の反応は大きく2つである。
1:質問者の解答が予想していた解答だった場合
2:質問者の解答が予想していなかった解答だった場合
1の場合、解答者が答えることができなかったのは、一度学習して自分の知識として内面化したものが表層化(表現)できなかった場合があげられる。そして、質問者の解答つまりキーにより、知識が表層化するわけである。この時、自分の知識が確たるものとして確立される。
2の場合、解答者はそのメカニズムについて全くの無知であったか、予想していたことと異なっている場合がある。
予想していたことと異なっている場合には、質問者の知識が真実と異なっており解答者の知識が真実と合致している場合、質問者の知識が真実と合致しており解答者の知識が真実と異なっている場合、双方の知識が真実と合致していない場合がある。質問者の知識が真実と異なっている場合も相応にしてあることを学習者は留意すべきである。
我が師匠は「一人の言うことが正しいとは限らない。3人が同じことを言っていたら大体それは正しい」とpearlを教えてくれた。多くの人とコミュニケーションをとり、正解を自分で選択することが重要である。
CMF rulesにも[Fully accept what you have heard or read only when you have verified it yourself.]と記載がある。
ソクラテスは「問答法」を使用し物事の真実を突き止める努力をした。
Schellengtonも同様に講義ではわからないことを提示しそれをどのように解決するべきかを説いた。
Claude Bernardはwe only know from unknown to knownと説いた。
いずれも「知らない」と言う事実を受け止め、それをどう改善させて行くかと言う点が重要であることを示唆している。 
 
 
現在、知識は膨大である点と知識に対するaccessibilityが非常に高い点から、知識そのものよりも知識の引き出し方がより重要になった。
ステロイドの効果は何かという単純な問いでさえ、正確に答えることはなかなか難しい。
「免疫をおさえる」と口を揃えていう時の「免疫」とは何を指しているのかを理解する必要がある。これには深い免疫学の知識が必要である。一つ一つを明確に理解する点は実際の臨床では非常に重要である。たとえば、この患者においてステロイドが効果があったとしよう(何に効果があったかはまた別次元の議論である。)。そして、効果があった理由としてヘルパーT細胞の病巣への浸潤が減少していたからだとしよう。ヘルパーT細胞の病巣への浸潤が減少した理由としては、ヘルパーT細胞の絶対数が減少したからで、絶対数が減少したのは、ヘルパーT細胞の増幅を促進するIL-2が減少したから。IL-2が減少したのは、ステロイドが核内受容体に結合し、IL-2をコードするRNAを阻害したからだとしよう。ここまでの理屈を考えることができれば、この疾患はカルシニューリン阻害薬であるタクロリムスも同様の効果があるはずであるし、血中のT細胞の絶対数を正確に計測することができれば、上記の説明の一端は説明できるはずである。しかし、ヘルパーT細胞の病巣への浸潤が減少した理由として、ヘルパーT細胞自体の移動機能が損失したのかもしれないし、病巣を隔離する作用がありヘルパーT細胞が行き着けないだけなのかもしれない。
これらの仮説は無数に打ち立てられるものであり、そのうちのいくつかは証明が可能で、ほとんどは証明する手段がないことが多い。しかし、仮説をいくつも立て、それを立証する手段を考えることはresearch mindに他ならない。それに基づいた診療を行うことで、その疾患のメカニズムの解明と治療法の開発に役立つはずだと考えられる。
 
そのため、考えることが知識よりも非常に重要である。
知識で診療することはコンピュータでもできるし、その教科書を読んだ素人でもできる。
ほとんど全ての人は、考えることを放棄して教科書に書いてあることをそのまま鵜呑みにしてしまう。
 
帰納法と演繹法の違いである。
「カラスは黒い」ことを証明する。1匹目は黒い。2匹目も黒い。3匹目、4匹目も黒い。見ているカラスみんな黒い。だから、カラスは黒い。この命題は真である。この証明方法は正しいだろうか。否、これは正しくない。なぜなら、101匹目のカラスは白いかもしれない。100001匹目のカラスは白いかもしれないからである。そのため、「カラスは黒い」ことを証明するためにその対偶である「全ての黒くないものはカラスではない」を証明すればいい。「もの」が有限だとすればひとつひとつ黒くないものがカラスでないことを確かめていけば、この証明は成立するように見える。この論法でいけばカラスを見なくてもカラスが黒くなってしまう。こうして一見不可解な証明が成立してしまう。
これは、有名なヘンペルのカラス(Hempel’s ravens)という話であり、ドイツのカール・ヘンペルが1940年代に提出した帰納法の根本的な問題を示している。しかし、黒くないものを全て網羅することは事実上不可能に近いため、科学は「反証可能性」が必要とされる。
 
反証可能性を持たない仮説は、科学ではない?
フロンギストン仮説 ものを燃やしたら軽くなるはずだ。でも実際は重くなった。それはマイナスの重さのものがなくなっただけだ。マイナスの重さを検出することが不可能だ。その仮説はもはや科学じゃない。厳しい反証に耐え抜いている仮説が信頼性のたる仮説である。
そのため、フロイトの精神分析やマルクスの思想、アドラーの思想は反証可能性がない(反証不可能性)のため、科学でないと言うことができる。
 
つまり、科学は常に反証されるリスクを背負っている。これまでも正しいと思われていたことが反証され、正しくないと判明した事実が多い(もちろん、それらも再度反証されうるわけだが)。反証可能性があれば、科学としてなりたつということ?フロンギストン仮説もマイナスの重さを検出することができれば、それは科学だ。
 
結局、物事を論理的に組み立てているつもりでも、そこには論理の飛躍が必ず存在する。だから、研究、勉強が成立するわけで、それは科学を勉強していることと同一である。論理の飛躍を「だってそこはそうなるんだもん」ってするとそれはもう科学することを諦めている。そうならないために、論理の飛躍を埋める作業をひとつずつ行い、それを反証できる可能性も受け入れるべきである。

カール・ポパーの成書を読まなければいけないのに、高くて読めない。

 

ローマの休日

 

PreservasionとRepairmentが大事だって、DVDの中で言及された。

30年から50年の作品はpreservationが重要で、50年以上経った作品はrepairmentが重要だって。

 

これだけすごい作品が後世に残っていくことをここにお祈りします。

 

さてさて、温故はすごく重要で貴重だ。それを常に忘れずにするべきだ。

僕らは巨人の肩に乗っているのだから。

実際にそれをするのは、その人達に任せた方が良い訳で、僕らは僕らの時代を作っていかなければいけない。僕等にしか知識の共有ができないクリエイティブな世界を作成していかなければいけないし、現在の芸術を評価することができる人は、僕ら以外には存在しない。

ということは、数多くある作品を吟味して一つ一つをできる限り評価しないといけない。

評価を受けていない作品が多く出回り、珠玉が検出されやすくなった代わりに、珠玉の紛い品が数多く出回るようになったから、本当の珠玉をきちんとpreservatedしていかなければいけないんだ。

 

ローマの休日は僕が大好きなオードリー・ヘプバーンAudery Hepburnの出演。これで、僕は、三つ彼女の出演した有名作品を鑑賞したことになる。

"ローマの休日"

"パリの恋人"

"ティファニーで朝食を"

 

他にも見ておきたい作品が多いが、生きている間に見ることができるんだろうか。

"シャレード"、"麗しのサブリナ"、"マイ・フェア・レディー"、"戦争と平和"

買っちゃいたくなるよ。素敵すぎて。まぁ、全部DVD化してるから、急いで買わないと手に入らなくなるということはなさそうだ。ゆっくり落ち着くことにしよう。

 

ローマの休日は、1953年に製作された。ウィリアム・ワイラーが監督。

イタリアのローマを訪問した某国の王女と、新聞記者の24時間の恋が描かれている。

某国の王女、Ann、ちょっと、無防備すぎる!とドキドキする始めの酔いつぶれたシーンから。

お酒かと思ったけど、Wikipediaを閲覧すると、その前の鎮静剤のせいでうとうとしていただけらしい。

ブラッドレーは初めは親切心で部屋に入れた。

Annが王女だとわかった後は、スクープのネタにしようと写真と内容を聞き出そうとする。そのためにローマを観光する。

そのうち、ブラッドレーとAnnの間柄はどんどん親密になる。

表情でAnnが恋してきているとわかる。言葉はない。愛を語ることはない。

ブラッドレーがものすごく紳士だ。アメリカ人のくせに。イタリア人かと初めは考えていたけれど、その口数の少ないところ、もちろん、彼女を楽しませることは話すが。

何より、僕もブラッドレーを見習わなければいけない。少し高い声。楽しそうな表情。少し危ないところ。なんと楽しそうにブラッドレーも過ごすんだろう。

ヘプバーンは可愛すぎて、本当にただのショートカットフェチなんだけど、可愛すぎて、僕は彼女に見惚れてしまっていた。

 

論理
 

1 論理について
 論理的に道筋を立てて、ここでいう論理的という言葉はまやかしみたいなもので、僕は「論理的にいうと正しいと思う」などと能書きをたれる輩は信用していません。どんなふうに論理的に考えたかという論理的の内容が重要なはずです。というのは、人を説得したり科学をする場合には、皆、絶対に、個人的にできる範囲の論理的思考を展開しているからです。そのため、「論理的に考えました」という文言は至極当然極まりないことなので、そもそもそれを述べる必要性もありません。もちろん、全く論理的に考えず直感的に話をする人に対しては、論理的に考えてくださいと指導することは絶対的に必要と考えます。
 話が逸れましたが、論理的に道筋を立てて論理を展開した場合、その内容は、前提の真偽が変貌することがあるかもしれませんが、仮言命題と仮言命題への認識が一個人の中で変化することはなく、それゆえに導き出される結論は同等のものであってしかるべきです。もちろん、前提が覆ることがそもそも大いにあることで、それはなぜかと考えると前提・公理を証明することがそのシステム内ではできないが故です。反例が見つかれば前提は覆るということになります。思考形態に即して考えても、僕らはある前提から思考をスタートさせ、それを前進させていくわけですが、論理的に考えていても、また違う時間・違う場所で考えると違う結論になるのは、前提や仮言命題に対する意識が異なるからなのでしょうか。
 哲学(少なくとも僕が教えを受けた哲学)では、「前提から一つ一つ進むものだ」ということを学びました。これは、宗教とは違うと。宗教は前提から論理が飛躍するのだと。しかし、この論理の階段は実は簡単に崩れ去りうるものだということもご了承いただかないといけないのです。すなわち、AだからB、BだからCが成り立つという前提は、どこまで説明できるのかということになります。その穴を埋めていくのが科学でしょうか。

2 非論理について
 とは言っても、書く内容については、全く論理的に展開されないこともあります。思いのままをそのまま写す場合です。恋文と同等とされます。熱烈な恋文は、論理性が全く存在せず、自己矛盾を孕み、飛躍や迂遠な言い回しなどが多用されています。これは、ルソーのエロイーズの冒頭にも記されていることで、僕はその通りだと思っています。恋や愛は論理性を有しておらず、なぜ?という疑問に答えることができないのがその特徴です。論理は重要である一方、愛の方が魅力的で、恋文のように、非論理的で感情的な文章がより人々の心を掴むものですが、この内容は刻一刻と変化をする生き物のようでもあり、故に、直感的に書かれた内容に対する自分の考えが、一ヶ月後、一年後に書く内容とは異なっているだろうことは容易に想像されます。
 さて、この場合、一年後に書く文章の方が、素晴らしいのでしょうか。もちろん、技法は進歩するかもしれません。しかし、思考内容の優劣を誰が決めることができるのでしょうか。老人は老人の、青年は青年の、少年は少年の思考を表現することができるのではないでしょうか。素晴らしさの定義もなく、それは現代の権威が考えているだけではないでしょうか。そう考えると、直感的文章の手直しはあまり良くないことなのかもしれないと感じます。
 上記の論述は、論理的文章の際にも考慮する必要があると考えます。すなわち、論理的に書いたはずの文や論理的に書かれたはずの文が自分の思考と異なっている場合、それは前提への理解が異なっているか、それとも仮言命題への理解が異なっているのかを認識する必要があると考えます。

 

Frailty, thy name is woman.

ハムレットより
 

Alas,Our frailty is the cause, not we! (II.ii.31)
ああ、私たち女の弱さがいけないんだわ、私たちのせいじゃない。

男尊女卑と男らしさ女らしさ
社会的役割について男女で区別することは別の意義であると主張したい。
 
ファッションの話、男性化粧品、アイライナーなど、女性のための化粧道具が男性も使用しうるものに変化しつつある。
 
その中で仕事においても男性を尊重する傾向が減少し、女性を登用する試みも多い。
進学校の男女比はほぼ1に近づきつつある。
これは福音か。
残念なことにそれでも日本の男女平等は世界水準とは言い難い。2016年の世界経済フォーラム(WEF)の「ジェンダー・ギャップ指数」は日本は144カ国中111位だった(http://www.nikkei.com/article/DGXLASDF25H07_V21C16A0EE8000/)。
 
女性に求められる仕事、男性に求められる仕事、それらを両性具有のようにどちらも行えると考えることはおかしくないの?と思ってしまう。少なくとも自分は男尊女卑ではないと思うのだけど。
 
酒場でも同様のことが言える。
人には人の役割がある。
人は皆ロールプレイをしているのである。母親は母親の役割を演じ、父親は父親の役割を演じる。それは環境がそうさせるものであって、個人個人はその時々で本人の意志であると感じるが本人の本質を示すものではない。
 
女性はお酒を注ぐべきなのか、サラダを取り分けるべきなのか。
結論はどちらでもいい。
どんな場合でも状況により異なるため、命題をより詳細に記載しないといけない。つまり、「恋仲でない男性と女性が二人で食事に行った場合、女性が男性に気があるのであれば、女性はサラダを取り分けるべきなのか」である。
 
日本語は常に主語が省略される傾向にある。特に、文が連なる時に省略される傾向にある(この一文も省略している)。
 
役割を担うことで個人個人の内情を吐露することも可能である。
「これは俺がやる」と男が荷物を持つ時、男は夫としてのロールプレイの他、「かっこいい」「できる」男としてのロールプレイを行なっている。逆説的に、荷物を持つということが「できる」人として同等の意義を持つ。できる人をアピールしたいのであれば、荷物を持ちなさいということだ。それはつまり、全てに通ず。「優しい人」と同等の意義をもつ行動は何か、もちろん、「優しい」「かっこいい」「できる」など抽象的でありそれぞれの人によって定義が異なる事柄の場合、個人個人にとっての「優しい」に焦点を当てなければならない。例えば、足が悪い人の立位を助けてあげることは優しさなのか、数学の問題の答えがわからない人に答えを教えてあげることは優しさなのか、仕事が遅い人の仕事を代わりにすることは優しさなのか、優しさとは相対的、抽象的なものであり、TPOに従い簡単に変化するものであることに留意しなければいけない。これはものすごく難しい。   
 
言葉に変換することで多くの情報が失われることにも注意を払うべきである。
「百聞は一見に如かず」、経験論を絶対的に信用している多くの人(これは殊更医師には多い。これをexperienced based medicineと言う。)は、経験の少ない人の経験を軽視し、自分の少ない経験を軽視する。