よく先生方が質問してきます。
たとえば、「ステロイドが効くということはどういうこと?」とか、「この人の疾患はなに?」と言った類にである。
これらの質問に対して先生方が想像しているように解答をしないことには正答とはならない。
しかし、先生方の質問が曖昧であるが故に解答は一つに絞れないことは多い。
前述の問いかけを正しく解釈すると、たとえば、以下のように変化する。
「この脳炎の患者において、メチルプレドニゾロンを投与した前後で比較すると失見当識が改善していた。この失見当識の改善においてメチルプレドニゾロンがなんらかの作用を有していたと私は考える。なんらかの作用とはどのような作用か自己免疫の点から解説しなさい」
通常、私たちは先生方と同じ空間に属しており、同じ患者を診察し、同じ患者の問題点に対して対処しているはずであるので、上記の非常に長ったらしい質問ではなく、簡単明瞭な「ステロイドが効くということはどういうこと?」と質問が変化するのである。
質問の内容が大幅に省略されているため、考えている前提条件を質問者と解答者の間で同一にしなければ質問に沿う解答を導き出すことは失敗に終わる。質問に出現する単語の定義が質問者と解答者の間で異なっている場合にも質問に沿う解答を導き出すことは失敗に終わる。これは、ヴィトゲンシュタインが指摘した箱の中のカブトムシそのものである。
すなわち、質問者は抗NMDA抗体陽性脳炎を意図していたのに対し、解答者はヘルペス脳炎を意図していた場合、解答は異なったものになるであろう。メチルプレドニゾロンの作用と大まかであれば、それは、解答がいくつもあることになるであろう。これは自己免疫作用といっても同様ではある。
そして、解答者が答えられない場合に、質問者が解答を提示することになるわけだが、その時に解答者の反応は大きく2つである。
1:質問者の解答が予想していた解答だった場合
2:質問者の解答が予想していなかった解答だった場合
1の場合、解答者が答えることができなかったのは、一度学習して自分の知識として内面化したものが表層化(表現)できなかった場合があげられる。そして、質問者の解答つまりキーにより、知識が表層化するわけである。この時、自分の知識が確たるものとして確立される。
2の場合、解答者はそのメカニズムについて全くの無知であったか、予想していたことと異なっている場合がある。
予想していたことと異なっている場合には、質問者の知識が真実と異なっており解答者の知識が真実と合致している場合、質問者の知識が真実と合致しており解答者の知識が真実と異なっている場合、双方の知識が真実と合致していない場合がある。質問者の知識が真実と異なっている場合も相応にしてあることを学習者は留意すべきである。
我が師匠は「一人の言うことが正しいとは限らない。3人が同じことを言っていたら大体それは正しい」とpearlを教えてくれた。多くの人とコミュニケーションをとり、正解を自分で選択することが重要である。
CMF rulesにも[Fully accept what you have heard or read only when you have verified it yourself.]と記載がある。
ソクラテスは「問答法」を使用し物事の真実を突き止める努力をした。
Schellengtonも同様に講義ではわからないことを提示しそれをどのように解決するべきかを説いた。
Claude Bernardはwe only know from unknown to knownと説いた。
いずれも「知らない」と言う事実を受け止め、それをどう改善させて行くかと言う点が重要であることを示唆している。
現在、知識は膨大である点と知識に対するaccessibilityが非常に高い点から、知識そのものよりも知識の引き出し方がより重要になった。
ステロイドの効果は何かという単純な問いでさえ、正確に答えることはなかなか難しい。
「免疫をおさえる」と口を揃えていう時の「免疫」とは何を指しているのかを理解する必要がある。これには深い免疫学の知識が必要である。一つ一つを明確に理解する点は実際の臨床では非常に重要である。たとえば、この患者においてステロイドが効果があったとしよう(何に効果があったかはまた別次元の議論である。)。そして、効果があった理由としてヘルパーT細胞の病巣への浸潤が減少していたからだとしよう。ヘルパーT細胞の病巣への浸潤が減少した理由としては、ヘルパーT細胞の絶対数が減少したからで、絶対数が減少したのは、ヘルパーT細胞の増幅を促進するIL-2が減少したから。IL-2が減少したのは、ステロイドが核内受容体に結合し、IL-2をコードするRNAを阻害したからだとしよう。ここまでの理屈を考えることができれば、この疾患はカルシニューリン阻害薬であるタクロリムスも同様の効果があるはずであるし、血中のT細胞の絶対数を正確に計測することができれば、上記の説明の一端は説明できるはずである。しかし、ヘルパーT細胞の病巣への浸潤が減少した理由として、ヘルパーT細胞自体の移動機能が損失したのかもしれないし、病巣を隔離する作用がありヘルパーT細胞が行き着けないだけなのかもしれない。
これらの仮説は無数に打ち立てられるものであり、そのうちのいくつかは証明が可能で、ほとんどは証明する手段がないことが多い。しかし、仮説をいくつも立て、それを立証する手段を考えることはresearch mindに他ならない。それに基づいた診療を行うことで、その疾患のメカニズムの解明と治療法の開発に役立つはずだと考えられる。
そのため、考えることが知識よりも非常に重要である。
知識で診療することはコンピュータでもできるし、その教科書を読んだ素人でもできる。
ほとんど全ての人は、考えることを放棄して教科書に書いてあることをそのまま鵜呑みにしてしまう。
帰納法と演繹法の違いである。
「カラスは黒い」ことを証明する。1匹目は黒い。2匹目も黒い。3匹目、4匹目も黒い。見ているカラスみんな黒い。だから、カラスは黒い。この命題は真である。この証明方法は正しいだろうか。否、これは正しくない。なぜなら、101匹目のカラスは白いかもしれない。100001匹目のカラスは白いかもしれないからである。そのため、「カラスは黒い」ことを証明するためにその対偶である「全ての黒くないものはカラスではない」を証明すればいい。「もの」が有限だとすればひとつひとつ黒くないものがカラスでないことを確かめていけば、この証明は成立するように見える。この論法でいけばカラスを見なくてもカラスが黒くなってしまう。こうして一見不可解な証明が成立してしまう。
これは、有名なヘンペルのカラス(Hempel’s ravens)という話であり、ドイツのカール・ヘンペルが1940年代に提出した帰納法の根本的な問題を示している。しかし、黒くないものを全て網羅することは事実上不可能に近いため、科学は「反証可能性」が必要とされる。
反証可能性を持たない仮説は、科学ではない?
フロンギストン仮説 ものを燃やしたら軽くなるはずだ。でも実際は重くなった。それはマイナスの重さのものがなくなっただけだ。マイナスの重さを検出することが不可能だ。その仮説はもはや科学じゃない。厳しい反証に耐え抜いている仮説が信頼性のたる仮説である。
そのため、フロイトの精神分析やマルクスの思想、アドラーの思想は反証可能性がない(反証不可能性)のため、科学でないと言うことができる。
つまり、科学は常に反証されるリスクを背負っている。これまでも正しいと思われていたことが反証され、正しくないと判明した事実が多い(もちろん、それらも再度反証されうるわけだが)。反証可能性があれば、科学としてなりたつということ?フロンギストン仮説もマイナスの重さを検出することができれば、それは科学だ。
結局、物事を論理的に組み立てているつもりでも、そこには論理の飛躍が必ず存在する。だから、研究、勉強が成立するわけで、それは科学を勉強していることと同一である。論理の飛躍を「だってそこはそうなるんだもん」ってするとそれはもう科学することを諦めている。そうならないために、論理の飛躍を埋める作業をひとつずつ行い、それを反証できる可能性も受け入れるべきである。
カール・ポパーの成書を読まなければいけないのに、高くて読めない。