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Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

老人と海

 

1952年

アーネスト・ヘミングウェイ

福田 恆存訳

 

えっと、僕は、翻訳者にもすごくこだわる。というのも、翻訳が変わると文章は大きく変わると思っているから。言い回し。比喩表現。そういうのをより美しく写すことができるかどうかは翻訳者に寄っているからと思ってる。

柳瀬さんのユリシーズは読んでみたいが、それ以外を嫌厭しているのと同じで。

 

さて、ヘミングウェイは初めて。

1952年というのは、どういう年かよくわからないけれど、アメリカは世界のトップに躍り出たはずの時代かなと思う。第二次世界大戦が終わった後だし。誰か知ってる人教えてほしい。あまりに歴史に無知なもので。

 

さて、老人の描写が素晴らしい。僕は正直、釣りのことなんてわからないけれど、漁師という仕事はこういうものなんだろうと思った。"白鯨"や"重力の虹"が百科全書的本と言われており、それに類似する感じを抱いた。すごく漁師に詳しくなったような気がしたから。

僕はひねくれているから、人は幸せになれない(作り物の中では)とどうしても思ってしまって読み進めていく。せっかくの大魚を釣り上げたのに、老人は岸につかず亡くなってしまうのではないか、魚が外れて海に沈んでしまうのではないか、そう心配しながら読み進めた。大魚を釣り上げた時点でまだ半分のページが残っていたから、あとはどんなドラマが待つのだろうと不安になりながら。

それもこれも、ヘミングウェイが生み出した、いや、元々存在していた自然の残酷さ厳粛さ偉大さが表現されすぎて、人間がちっぽけな弱い微かな存在であることが認識されてしまう。だから、不安になる。

「老人の四肢は痩せこけ、項には深い皺が刻み込まれていた。熱帯の海が反射する太陽の熱で、老人の頬には皮膚癌を思わせる褐色のしみができ、それが顔の両側にずっと下の方まで点々と広がっている。ーーーーこの男に関する限り、何もかも古かった。」

目を除いては。 

 

それでも、漁にでる老人の年齢はいくつくらいなのだろうか。違和感がある。

少なくとも、四肢はよく動いているし、認知機能も維持されている。当時の平均寿命が68歳程度みたいなので、それを思うと、それよりもだいぶ若いんだろう。50歳代後半くらいかな。今だと全然年寄りに見えない。

僕の中で老人というと80歳とかでなかなか自立した生活ができない、できていても危なっかしいと思われるのに(もちろん、何もかも自立した老人は存在するが)、この老人は元気すぎる。

 

それもこれも、時代背景が違うからだ。でも、老人は確実に脱水だ。正しいのかな。なぜ、気が遠のいたのか?

 

解説を読んで。

ハードボイルドの作風ということでそういえばヘミングウェイがあがってたな、ハードボイルドってのは、つまり、心情を表現せず、外見のみで内面も表現していく散文ってこと?

また、原文を読まないとわからないのじゃないかと思う。

 

読書メーターで、いろんな人の感想を読んで。

ライオンという象徴に言及をしていることが多い。確かに、ライオンとはどういう概念で生まれるのだろうか。

ふと、獅子座を思う。ヘラクレスと勇敢に戦った人食い獅子。ヘラクレスには負けはしたが、ヘラは獅子を星にしてくれた。それが獅子座。

アメリカにライオンなんて存在したか?

アメリカライオンはピューマのことらしい。でも、ピューマは北米の生き物で、現在は絶滅の危機にひんしているけども、ローキー山脈とか南は南米大陸南端のパタゴニア平原にいるらしいんだけど。

でも、この老人はキューバだから、いや、正しくは、ヘミングウェイがキューバに行った時に書いただけだから、ヘミングウェイの頭の中にあるライオンはどれのことか分からないけれど、少なくともピューマのことじゃないと信じたい。だって、ピューマって貧相なんだもの。

ベルクマンの法則(寒いところでは大きくなって(体表面積を小さくしたいんだって)、暑いところでは小さくなる)にのっとっている生き物なんだと。アレンの法則も類似したことらしい。

ピューマは小さく見えるんだもの。それに、亜科もライオンやヒョウのヒョウ亜科じゃなくて、ネコ亜科だし。

とすると、やっぱり、百獣の王のライオンを示唆してるんだろうな。ホメロスがライオンを百獣の王と表記したらしいけど、元文献がなくてよくわかりません。 

 
 
遠い声・遠い部屋

トルーマン・カポーティ 22歳の時の作品。
表現力がすごく綿密で比喩表現がこの上なく素晴らしい。
何行かおきに現れると、その言い回しにだけに、気をとられて中身が入ってこなくなるほど。
胡椒を振りかけられた心臓のように(これも、カポーティの比喩表現だけど、出所は、ティファニーの単行本の次のお話から)、こちらの震えてしまう。
言われたら真似て書けるけども自らこの表現を想像するとなると不可能だろうとしか思えない。
そこが彼の彼たる所以で、故に天才。
シェイクスピアも読みたいと思いました。
 
ライラックの花言葉である「友情」「青春の思い出」のように、この十三歳の少年は、自分に起きた羨望、憧憬、憤怒、呆然、悲嘆、そして恋といった多くの感情を思い出のように見つめることができるようになったのか。
 
 
悪心についての見解
医学的ではないので悪しからず
 
嘔吐中枢を刺激された時に生じるこの感覚は、生命をつなぐために重要な記憶の一つである。
それは、味覚嫌悪と呼ばれる記憶であり、毒を口にした時に生じる悪心と同様である。
 
サルトルの嘔吐の中での悪心は、これに実は近い意味も示唆していると受け取ることができる。
 
ある日、僕は愛する彼女がけがらわしく人を罵るところを見た。その際に生じた悪心はどう表現すべきなのだろうか。これは、妻など自分自身の内面に深く寄与している人物であるならば、ああ、この点はカプグラ証拠群やフレゴリの錯覚を含む人物誤認症候群に章を譲りたい。要は、情動が喚起されるかどうかなんだ。身近な人かどうかという点に関しては。
でなければ、人はものと人を区別することができないだろう。

話を戻そう。
妻がけがらわしく獣のように人を罵倒していたとすると、おそらく、彼女をみる目がぐるっと変わることを自覚するだろう。
面白い。彼女を見た時に催した感情の想起が汚物を見た時に催す感情の想起と錯綜したのではないかと考えられる。なぜ、錯綜したのかを考える必要がある。つまり、僕が言いたいのは、彼女を見るとすでに吐き気を催すように"なった"時の状態と吐き気を催すように"なってしまっている”状態は大きく区別するべきだと考えているからだ。"なった"状態というのは、その時に変化が起きたと考えよう。そして、"なってしまっている"状態というのは生じた変化が固定されていると考えるべきではないだろうか。
この変化と変化後の固定の観念は、シナプスの作成とLTPに似通ってしまう。
僕は無意識的にそちらに発言を誘導しているかもしれない。
 
吐き気を催すようになったという状態を考えると、吐き気をそもそも催す時に生じる機構、表面的には、例えば、吐物の臭いを嗅いだり、生物の臭いを嗅いだり、ヌメッとした水道管の滑りを触ったり。。。僕にとって吐き気というのはほとんどはヌメヌメしたものに限局しているようだ。これを書いているときにも嘔気がしそうだ。
 
なぜ、人は気持ち悪いと思うんだろうか。
なぜ?
まぁ、なんにせよ、吐き気を生じうる感情の出現と彼女を見た時の感情が交差反応をすれば、間違って吐き気を催してもいいだろう。
そして、次に、その吐き気を催す感情が持続されれば、そうなるだろう。
幻滅する回数が増えれば増えるほど、彼女を見るのも気持ち悪いという状態に近づいていくに違いない。
とすると、言動よりも常にあるものに対しての方が吐き気は持続しうる。妻が夫の臭いが嫌だ、臭いというのは極論だ。かわいそうなことになおしようがない事柄だ。あぁ、それを前もって実感するのも吐き気に通ずるのだろう。
醜悪なブタのような、化け物のような女性と付き合おうと思えないのはそういうことか。
パリの恋人 Funny face
1957, America, Musical
監督:スタンリー・ドーネン
脚本:レナード。ガーシェ
主演:オードリー・ヘップバーン
 
パリが舞台のジョーとディックのラブストーリー
ヘップバーンが演じるジョーは、共感主義マニアの小さな本屋で働く若い女性。
共感主義なんて耳に覚えがないなと思って調べたけれど、あまりメジャーではないのか、すぐには調べられなかった。
ともかく、人は人のことを共感することができる、言葉に出さなくてもわかるでしょ。
って感じの概念なのか。
これはすごく日本的な考え方だ。一を聞いて十を知るようにしなさい、と。
うーん。そんなことは非現実的だと思うのは僕だけ。
KYという言葉が2007年流行語大賞になった。空気を読むという概念は実はものすごく洗練されたものだと思う。
フロストルと共感主義について話すジョー。それを横目でみるディック。ジョーはディックに邪魔をされて怪訝にするが、フロストルが下心だらけのことを知り失望する。
共感なんて言葉は、恋愛関係に至る場面にはなにも役に立たない。誰も彼もその人物に気に入られるように行動するから。共感されているしていると勘違いするけど、それはしっかりと勘違いである。
ちなみに出場人物のフロストル教授はサルトルがモデルらしい。
 
まぁ、ヘップバーンが可愛いのでなんでも許そう。

スクラップ・アンド・ビルド

羽田圭介

 

2018年正月の芥川賞読書会第4作目

 

帯には、「慣例、常識、価値観の違い。最近すごく考えます」と。

 

「死にたい」と常々口にする爺を介護する無職の主人公28歳。

主人公は、爺が健やかに死ねるように肉体が衰え、脳が衰えるような介護をしようと決意する。

一度、心不全に伴う肺水腫になり入院するも、軽快する。最終的には特別養護老人ホームへの入所を決定(入所する前)し、主人公の就職先が決定し、二人は離れ離れになる。

死に向かう爺と、これからも生き続ける若い主人公。その違いを主人公は常々意識している。

 

さて、一般論。

おそらく、生きていることが一番大事だよ、生命が第一に決まってるという大衆の愚鈍な意見の中で、この作品はいやいや人間死ねばいい人間もたくさんいるよと提唱しているところに、価値観の違いを見せつけているのだと一般的には解釈するのだろう。

行なっていることからすると、息子は介護を頑張っているが、真意は早く死んでくれた方が世の中のためだと考えている。

そんなこと、この現実社会ではいうことはできないでしょ?すごいでしょ?オリジナリティ溢れるでしょ?どう?と。

 

死というターニングポイントは現在社会ではかなりあやふやになった。というのが、これまでの古い世界とは違うことを意味するよく耳にする一文だ。人工呼吸器がその一助を担っている。しかし、僕らの中では、それは、最終的に本当に死ぬ瀬戸際の時のことを細分化しただけであって、おそらく、その段階に一般の方が直面すると死んでいると同義だろうと思う。

なぜなら、彼らは、実の両親や知っている数かぎりない人の死しか見ていないからだ。

その最終局面に至る前段階で、基本的には入院したり医療資源を得たりする。

そのレベルでは基本的には死へは直面していない。

つまり、元のように生活を営むことができるレベルまで改善する人が大勢いるということを知らない。

 

さて、この作品にあるように、生産性のない老人を排除することを考えてみよう。

そもそも、生産性がないということをどのように定義したらいいだろうか。僕は生産性があるのか?この主人公は?何を持って生産性というのか?子孫を繁栄させる能力か生活(誰の?)を向上させる能力か?

現時点の問題だけを取り上げればいいのか?

将来性を加味する必要があるのか?

つまり、現段階で生産性がなくても、将来的に生産性がある人物になる可能性がある場合、生産性をあると考えるべきなのか。この可能性はどの程度の可能性であれば、許容すべきなのか。

現実的に、どこからを老人と定義してどこからを生産性と規定するのか?

そう考えると、若い主人公もすぐに死刑の順番が回ってくるのでは?と思えてしまう。

十戒では「人を殺すこと」は禁じられている。死刑を反対する国も多い。

しっくりくる説明は人を殺すことをすると自分も殺されるかもしれないから人を殺してはいけない、という説明。

自分が殺されないと確信できるなら殺してもいいじゃないか。そういう暴論に至る。

まぁ、何が言いたいかというと、どこから排除したらいいか基準は非常に曖昧である。故に、どんなに不具合がある人でも死に至らせることに賛同を得るための基準の作成は難しいと思う。

そうすると、死の前段階、Frailとしましょうか、Frailの人は全員死ねと言いかねない。やっぱり、何を持って基準になるかわからない。

 

スクラップ アンド ビルドというタイトルであり、scrap and buildであり。

作中もなんども何度も繰り返される筋トレに示唆されるように、ダメにして、再構築することが書かれている。

大きな流れの中では、祖父をスクラップして子孫である孫をビルドするし、祖父の中でも、病気になってスクラップされ、改善していく。流れは常に同様のことを示唆していた。

 

感想としては、これに賛成の人も多々いるだろう。特に際立ってダメだ!ということを言っていないから。

存在の否定という点をどの視点で考えるかだ。

 

爺にもっと過去を与えた方が個人的には美しい物語になったと思う。あまり、この二人に共感できなかったからだ。