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Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

異類婚姻譚

本谷有希子 

154回 芥川賞受賞作

 

2018年正月芥川賞読書会第2作目。

 

以下ネタバレも含みます。ご了承ください。

 

すごい。また、難しい。

難しいという感想は僕の中では賛辞だ。わからないという感触は自分を成長させうるから。

 

主人公のサンちゃんは旦那の顔と自分の顔がそっくりになっていると感じる。

ありきたりな、よく誰もが思う命題を掲げる。

自堕落な旦那。その顔が生き物じゃないみたいに、気味悪く変貌していく。

サンちゃんはそれが自分自身も同じなんだと考える。自分自身も自分を保っているのだろうかと。

その中で、キタエという老婆とその猫の問題。

猫はションベンをあちこちに撒き散らすため、キタエ夫婦はその猫を山に捨てようとする。

猫というのは、同様に家族であり、この本の中では、それは自分たちを捨てるようにも見える。どれほど正当な理由を持ち出していても。

自堕落な夫はゲームにハマり、油ものにハマり、サンちゃんは籠絡され、受け入れる。

最終的に、夫は山芍薬に変化し、妻はそれを山に還す。

 

"立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花"

 

芍薬になった夫をどのように解釈したらいいだろうか。

現代社会に疲れきっている夫。

恐ろしいことに、夫の内面と社会性を説いたことはこの文中にはない。それを僕は、夫が話したがらないから、聞くことをしなくなったのだと思っていたが、それは同時に、サンちゃんも考えることを放棄していたからだということが終盤に判明した。

夫は、なぜ山芍薬を選んだのか。

芍薬は美人の象徴だが、どういう意味があるのか。

 

 

芍薬の属名はPaeoniaというらしいが、ギリシャ神話の医の神  Paeonにちなんでいるらしい。

うーむ。芍薬甘草湯だしね。

ボタンと違って、草木。

ボタンは花王と呼ばれ、芍薬は花の宰相「花相」と呼ばれるらしい。

冬には枯れてしまう花。

 

山芍薬は? Paeonia japonica

日本に多い。

茎の高さは30-40cm, 茎の先端に直径4-5cmの花を一つつける。

花は白色、開花して4日程度で枯れる。

準絶滅器具種らしい。

 

意義がよくわからない。

単純に、女性のように綺麗な人に、考えなくてもいいように花に。という意味なのだろうか。

サンちゃんがこれまで花であり、これまでの男性が土で栄養を与えられるとともに自分自身を型作られていた経緯から、自分自身がそちら側に立ちたかったということか。それでは単純すぎて、わざわざ、本当に姿を変えなくてもいいのにと思ってしまう。

姿を変えたのは、ギリシャ神話の変身物語をおおもとにしてるのでしょう。

ヒュアキントスやナルキッスス、チューリップのように。

ギリシャ神話では、変わった物語と変えられてしまった物語が存在する。

変えられてしまったと考えた場合でも、山芍薬は少し不自然に思える。なんでか説明しにくいけど。

 

コンビニ人間

村田沙耶香 芥川賞受賞作品

 

2018年正月の芥川賞読書会。第1作目。

 

コンビニで働く主人公、古谷は生来おかしい人間だった。

おかしいという定義は社会の基準から離れているという点においてで、これは病的と判断することが僕ら医師の通例だ。

すなわち、古谷は病気だと。病名は知らない。社会不適合者という括りも単純に、価値観などがどれだけあっているかという点に即した場合において、離れすぎているというだけだから。

そもそも、人間は、どんな人でも、ある点では社会不適合であり、ある点では適合している。不適合の部分が多くなり、例えば殺人衝動や物損衝動、盗む衝動などが強い人は、anti social personality disorderとして病名をつけられる。もちろん、なんらかの情念が関与していれば、情状酌量の余地があるものの社会から抹消される。刑務所行きということ。

もちろん、作中にある通り、縄文時代からそれは変わらない。

普遍的なものであることは、あまり疑いの余地がない。

不細工の処女、定職につかず異なった思想を持っていれば排除されてしかるべきだろう。しかし、ここは人の世。そういう古谷の中におそらく、皆、自分自身の感情に類似する部分を見出すのだろう。 

 

没個性、コンビニのように機械的に自動的に均一化されていく社会の中で、自分自身のアイデンティティーを求めているのが現代社会だ。それでも、実はこの風潮は1900年代のヨーロッパと変わらないのではないか。内面にこんな風に特別なスペシャルな自分だと言い聞かせ、それと同調する作品を褒め称えていた世界と同様だ。

そこには矛盾が生じる。その作品が特別であるのなら、なぜ、その特別を多くの人が有しているのか。実はその特別な感情は特別ではなかったということだ。

似たような感傷を「コンビニ人間」にも感じた。 

 

古谷と白羽は、周りにいる人々とは異なった生き方を望んでおり、それゆえ、社会不適合となる。古谷は、社会適合のために、周りと同調することを覚え、コンビニという空間の中でそれを実現する。 

 

この感情は誰しもあるのではないか。

僕自身、仕事をしているときは脱個性していると思っている。ルーチン化し思考の関与を無視したそうすべきことを肉体が覚えている仕事、自分がいなくなっても代わりがある仕事ばかりだろう。というよりもほとんど全てそうだろう。

仮に、突然、仕事を辞めてみたらいい。なんとかなるから。

 

人間は社会の世界の一部分でしかない、一部分にでもなれることができれば素晴らしいことではないか。どうしても、アイデンティティーを求め、自分がいなければいけない、自分ではないとこの仕事ができないと踏ん反り返って、自分自身を過大評価して、仕事に身を投じる人もいるが、それは自意識過剰な傲慢な考えだと思う。

 

コンビニという形式だった空間を抜け出してしまった古谷は自分の存在を見失ってしまう。そりゃそうだ。現状を打破するには現状に対する鬱憤や憤り、未来への希望などがなければ、打破できないのだから、古谷は現状のコンビニという空間を抜け出すことによってburn outしてしまった。よくある結末で見えていた結末だ。

そして、最終的に、コンビニへと帰依する。

コンビニという社会の底辺と揶揄された職業だから、皆が安心して読むことができたのか。僕には、コンビニも医師も教師も他のどんなクリエイティブの仕事も権威のある仕事もどれも同じに見えた。 

 

この作品の秀逸すべき、特筆すべき点は、題材をコンビニに落とし込んだところだ。コンビニは現在日本には、5万件あるらしい(https://mitok.info/?p=75099)。物語の中の設定を信じると、店長、昼勤4人程度、夜勤2人程度、 6×7=42人/週の労働力が必要で、週3-5と考えると、大体10人程度がコンビニで働いていると考えることができるだろう。とすると、日本全国でコンビニで働いている人数は50万人となる。日本の労働人口は6500万だそうだ。0.8%がコンビニで働いていることになる。医師数は30万人(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/ishi/14/)と比較すると思ったよりも少ない。もっと大勢コンビニに関与している人がいるのだろう。

しかし、身近であるコンビニなので、誰でも簡単に考えることができた点が誰しもの共感を得た点だと思う。

そして、これは、自叙伝のようなものなので、次に期待される。ということを常々思うが、恋愛小説などもすでに誰しも経験することなので、コンビニを媒介に普通を説くことは何もおかしなことではない。

 

残念な点は、白羽という異種と出会うことがたまたまできてしまった点だ。そうでなければ物語が成立しないのだが、そこが必然性がない。コンビニだから許される所以なのだろう。

ヴィクトル・ユーゴーが1862年に執筆したロマン主義フランス文学の大河小説。

 

1862年、フランス革命は1789年。ナポレオン・ボナパルトによりブルボン朝が倒された後。

 

 
舞台は1815年。
ナポレオン1世没後、王政復古の時代。
 
les miserablesはフランス語で(まぁ、英語でもわかるんだけど)、惨めな人達っていいう意味。
なので、この物語の主人公はヴァルジャンであり、ファンテーヌであり、コゼットであり、マリユスであり、ジャヴェールであり、ガヴロージュである。
 
まず、大まかな世界の前に僕個人の感想。
「人は変われるのだということ」。
いや、僕個人の意見としては、「人は簡単に変わる」。
もちろん、根本のところは変えがたい時もあるところとは事実だけど、人・本・映画・旅・マスメディアなどいろいろなものに人間は簡単に影響を受ける。
 
ヴァルジャンに対しては、ヴィヤンヴニュ閣下(初めにヴァルジャンを助け、銀の燭台を2つ渡した人)だったのだろう。
彼は、そこから受け取った愛情をその後人生をかけて人類に捧げることになる。
なので、ヴァルジャンは聖人(saint)とマリユスから言われているし、ジャヴェールもヴァルジャンが成人とかしたがために、自分自身の理念と合わず身投げをしたのだろう。
 
見ながら、大学1年生の時に留学生を居候させたことを思い出した。僕は、自分の英語の勉強にもなると思ったが、彼は中国人であり日本語は堪能であり、自分と生活リズムが異なることもあり、全く彼に日本の生活を楽しませることができなかった。僕は当時はそんな彼を鬱陶しいと思っていた。彼と旅行に行くことも土日に遊びに行くこともしなかった。
そのことに僕はすごく申し訳ない気持ちを抱いていたから、3年生、4年生、5年生、6年生と留学生が来る時に積極的に関わっていった。トルコからの留学生nullとは京都や海遊館にも出かけたし、いろいろな同級生を巻き込んで彼女はとても楽しそうだった。その後もドイツ、中国、イギリス、スウェーデンと留学生がたくさん神戸大学にやってきた。その度に僕は、過去の僕の罪を償うように留学生の世話をした。と同時に、僕のように世話をしすぎて疲れてしまわないように後輩を気遣った。個人的には一番の僕の功績は後輩への愛だと思う。
 
人は間違える生き物である。
 
間違えたことを悔いて行動を改めることができるのも人である。
 
やはり、ミュージカルはいい。
流れが音楽で頭に入ってくる。
2011, ジョナサン・サフラン・フォアによるExtremely Loud & Incredibly Closeを原作とした映画
 
2000. 9.11の同時多発テロを題材とした映画。
同時多発テロにより父を失ったオスカーが、父の遺物を漁っている時に発見した鍵、手がかりはブラックという名前が書かれている、の鍵穴を探すために多くのブラック氏と出会い、その過程を通して、成長、父の死を克服する映画。
のように見せかけて、基本的には家族愛をテーマにしたヒューマンドラマ。
途中、オスカーは、声を失った祖父と行動を共にする。
母は、オスカーの行動を知りながら、前もって本人の手助けをする。

僕が一番泣いたのは、母の愛だ。
 
今をもっても、できる限り、毎年参拝している金沢神社という地元の神社がある。僕らは中学一年生からその金沢神社に初詣に行っていた。高校受験が終わった時に、お礼参りをしようとその神社に行った。僕らには絵馬を書く習慣がなかった。そのため、僕らはみんなが書いた絵馬を面白半分で見ていた。
誰が書いているのだろう。
どんな高校を書いているのだろう。
その中で、僕は、一つ、僕と同じ高校を志望校とした絵馬を見つけた。
綺麗な文字。
書いたのは、僕の母だった。
母は参拝して絵馬を書いたことなんて一言も言っていなかった。
それに準じたものを感じた。母はやはり偉大だ。
 
と、良い点はそんな感じ。
11歳という年齢にしては大人びてたかな?むしろ、大人をぶっているのが子供っぽいかな?そんな感じです。子どもの執念は凄まじいのは常なので、大方の物語でそう、アスペルガー症候群は確信じゃないのでなんとも言えないですね。その設定は必要なさそうと映画では思う。恐らくはアスペルガー症候群だから、一つのことに打ち込めたんだよという理屈を詰めてそうだけど、そして自閉症がないからこそ成立するこの設定。だけど、医師目線ではわざわざその設定をつける必要性はなかったと思う。
で、ガルガンチュアを彷彿とさせる数字至上主義ないしは数字至上主義批判。面白いことに、数字を羅列しているのに、216人とか、あ、もしかしてこれ、アスペルガー症候群だからという設定にしたのか?としたら、なおさら不要だ。数字を羅列している意味は、数字を羅列しても意味がないことを示すために羅列していると思っていたけど、少なくともガルガンチュアはそうだ。けど、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」では、むしろ、数字が意味をもっているように見えた。
9.11を忘れないように。9.11で同時多発テロを想起するように。数字に意味を持たせた?
書きながら、それでも、逆ではないかなと思ってしまう。9.11のみで想起せずに、常に忘れないでいようということか。
映画の中の英語はかなり簡単な部類だったので、英語の勉強にはすごく役立ちそうな印象でした。

この映画を見た理由は「世界文学大図鑑」にも掲載されてた事が理由の一つ。
まぁ、最近読んだ「ナボコフの文学講義」のせいで、背景を作品に持ち込むな論を現在、展開してるので、純粋に9.11を無視するとどうなんだろう。つまり、未来永劫にはどうなんだろうと思った。
冷血を書いた頃のカポーティの伝記映画。
 
Wikipediaより
2005年アメリカ映画。タイトルの通り、作家のトルーマン・カポーティを描いたもので、彼が代表作『冷血』を取材し書き上げるまでを中心に描いた伝記映画でもある。
監督はこれが劇映画初監督作となるベネット・ミラー
 
冷血は in cold bloodというタイトルである。
スミスが終始してトルーマンにタイトルはなんだと問い詰めていたところから推測するに、殺人を犯したスミスの印象を、暗に、世界にはどのように知ってほしいとトルーマンが考えているかどうかを確認する事の唯一根本的な解決策は、タイトルを聞くことだったのだと思う。
in cold bloodは、日本語訳では、冷血と訳され、これは殺人の凄惨さや無残さ、殺人犯の悪魔的心情を形容しているように感じるが、僕には、スミスが殺人を引き起こすに至っては、その血の中でやむなくされたのだという弁解の意図が取れるとしか思えない。というのも、トルーマンの生涯とスミスの生涯が類似していること、明らかにトルーマンはスミスに愛情を持っていること、スミスが人間だということを示すには本を書かなくてはいけないとトルーマンが語るところから、スミスは殺人をしてしまう運命にあったのだというように汲み取れる。つまり、cold bloodではなくて、in cold bloodなんだ。

ショーペンハウアーの意志と表象としての世界にもある通り、人間は死に向かって進んでいるのであり、あらゆる苦悩が道々で人生の障害となっていたとしても、最終的には死ぬということは誰にも妨げられないのである。
当時の時代背景は、僕には正直いまいちよく分からない。死という終着駅を突発的に理解するものとして考えていたのか、それとも近づきつつある、迫り来る恐怖として認識していたのか。
つまり、僕が言いたいのは、常に人間は生きている限り死を意識せざるを得ない。しかし、殺人や事故、病気による死が横行跋扈している世界に生きている人間と、戦争などによってしか死が身近に感じられない人間、もしくは現代日本に生きるような老人や病気の人にしか死が身近でなく、遠い不透明な問題として死を認識している人間のそれぞれによって、三者三様に死への取り組み方は異なるのだ。
トルーマンの時代は二番目の戦争などによってしか死が身近に感じられない人間がひしめく時代だと思うが、本当にそうかどうかは知らない。
その中で、殺人という予告なく幕が閉じられる事象を引き起こしたスミス、そして、死刑という予告ある死への道のりを経験するスミス。その両者を客観的に愛するように見つめるカポーティ。文章化するという行為によって、トルーマンはより死を意識したに違いない。
彼は、死刑が実行されること待ち望んだはずであるが、僕には到底そうは思えない。あれだけの関わりをしたカポーティは親友の最愛な人の死をどうやって受け止めたのだろうか。
ニュージャーナリズムと呼ばれたノンフェクション・ノベル。彼はその境地を切り開いた第一人者であるが、ノンフェクション・ノベルは完全に彼の人生の一区画であった。彼はそれ以降大作を完成させていない。それによって彼の人生は終わりを告げたのかもしれない。
1984年、彼は、アルコール中毒により死亡する。