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Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

N Engl J Med. 2017 Sep 28;377(13):1209-1211.
 
医学の多様性が増え続ける。
人間の能力の限界はすでに超えている。
不要な検査で偽陰性・偽陽性に悩まされる中、救急外来で帰った後にすぐ死ぬ人も多い。
(今回の主題はここじゃないが、これも面白い)
Among discharged patients, 0.12% (12 375/10 093 678,in the 20% sample over 2007-12) died within sevendays, or 10 093 per year nationally.( BMJ 2017;356:j239.)
 
医学教育にも箴言しているところがすごくいい。
"Undergraduate premedical requirements are absurdly outdated. Medical education does little to train doctors in the data science, statistics, or behavioral science required to develop, evaluate, and apply algorithms inclinical practice.”
まさにその通り。だから、研究に携わったり、統計とかにも精通するようにしているんだから。
コンピュータのアルゴリズム化もそもそもアルゴリズムを作成したのが人間なのだから、ミスも含まれていると。Neural networkingとか、どんなメカニズムで動いているかを知るべき。統計の教科書にも解析はコンピュータがアルゴリズムに沿っていて数値が間違っていようが関係ない項目が混じっていようが解析してしまうと明記してある。それを取捨選択するのが医師だ。
 
論文を読まなければ、読んでも量が多いから仕方ないじゃんみたいに言われるけど、それは、もう本を読まない、新聞を読まない、曲を聞かないとかと一緒の原理。
論文を読まなければ、学んでいけないのに、今の人は全く論文を読めていないと思う。
それは、大学の抄読会でも同じ。学生の勉強会レベルしかない。
上級医になっても読めていないと思うのはなぜ?論文を描いたことがある人なら論文はすんなり読めるはずでは?
 
アポロン
 彼は、太陽神として、文字通り、輝き続ける。
対して、デュオニュソスは、酒を飲み、踊り、我を忘れて陶酔する。
この二人を対立して考えたのが、ニーチェだ。
悲劇の誕生より。 
 *ギリシャ・ローマ神話の絵画、千足伸行
 
アポロンは、大蛇ピュトンを仕留めた時に、弓をいじくるキューピッドをからかった。
からかわれたキューピッドは仕返しに、アポロンの胸に恋心を掻き立てる黄金の矢を、アポロンが愛するダフネには冷めた心しか生まない鉛の矢を打ち立てた。
 
変身物語の一文がかっこいい・
「なんと悲しいことだろう。恋だけはどんな薬草でも癒されず、万人に役立つ医術が、その発明者には役立たないのだ。」
 
*参考
ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ
 アポロンとダフネ (ワシントン ナショナル・ギャラリー・オブ・アート)
 
アポロンの神話はもう一つ。
ヒュアキントスとの一場面。
アポロンのかわいがるヒュアキントス。円盤投げで遊んでいる最中に円盤が頭にあたり、絶命してしまう。医術に長けたアポロンでもヒュアキントスの命を止めることはできない。
「お前はこれから私の記憶と歌の中に私と一緒に生きなければならぬ。私の堅琴はお前を名高くするだろう。お前は、私の哀惜を刻んだ花となるだろう。」
彼が亡くなった後に、テュロス染よりもっと美しい色をした花が咲きました。アポロンはその花弁にAi, Aiと書きました。ギリシャ語で「悲し、悲し」という意味です。それは今も私たちは見ることができます。
ヒュアキントス(ヒアシンス)は今も、春ごとにその記憶を蘇らせます。
 
さて、ヒアシンス!!!なんてこと。ダロウェイ婦人の一人娘、エリザベスの形容に何度も何度も出てきたヒアシンス。こういう意味があったのか。ん??
あ、でも、ヒュアキントスは、ヒアシンスではなく、多分、アイリス、ラクスパ、あるいはパンジーとのことですが。
 
ダロウェイ夫人
ヴァージニア・ウルフ

さて、やっと、読みきりました。
というのも、この小説は途切れ途切れに読むのに適していない。文の主語が頻繁に入れ替わるため、途中で読むのをやめてしまうと、どこの段階で誰がしゃべっているのかを判断することが困難になる。そのため、ここ2日間で一気に読んだ。
 
ウルフは精神病らしい。意識の流れという技法がそうなのか、申し訳ないことに僕には知識がないけれど、少し、統合失調症患者の作文のように感じた。

途切れ途切れの思考。
飛んでいく思考。
停滞した思考。

精神分析の技法の一つである自由連想法を使用したという考察もある川端文学における「意識の流れ」)。
 
意識の流れは、その中で本人の無意識を描出していく。らしい。
残念ながら、僕には理解できなかった。そもそも、物語の中で生きている彼らの心情の内面をより理解することなんてできるのか?文章として言い残された言葉がそれ自体内面ではなかったのか?
確かに、こう生きている中で、実は文章としてまとめられているものはすでに多くの情報を失っている。人は、言葉にはできない多くの感情を感じて生きている。それを正確に表現することはできないし、する必要もない。これは、絵画と写真の関係にも似ている。もちろん、写真も現実を切り取るには不十分な媒体だけれども。絵画は、人が見たいものを切り取り、見たくないものを削除する能力を有している。そして、キュビズムのように多方面からみることもできる。
小説の単純な構成法である一人称小説から抜け出て、ウルフは多人称を扱う。次から次へと視点が飛ぶ。
彼女が扱ったのは、第一次世界大戦が終わったその五年後ほどのある六月の一日であり、そこに生きている人達のことを単純に綴っただけのごくつまらないもののはずなのに、なんと読みやすいことか。もちろん、文章をなぞっているだけの可能性はあるが。
ダロウェイ夫人から、セプティマス、ピーター、各々の頭の中をめぐる。頭というのは間違い?心っていうべき?
一瞬を楽しむダロウェイ夫人は、そう、文章中にある通り、世俗的なのだけど、それは正しいのではないかとやはり考えてしまう。生は常に死と隣り合わせだ。この事実は、1910年代だからこそ色こく映るのだろうか。現代社会に生きる我々は考えなくていいのだろうか。戦争や病気は彼らが対処しきれない大きな問題だったはずだ。その中で、サリーは五人も子供を授かっている。対して、ダロウェイ夫人はエリザベス一人。死に直面した後のダロウェイ夫人にとって、一時の生を享受することは大切だったはずだ。
引用されたオセロの一文が響く。
「今死ねば、この上なく仕合わせだろう。」
 
あまりに難しかったので、感想が稚拙。
月の満ち欠け
佐藤正午
直木賞受賞作品
 
突飛なイベントを物語に組み込むのが、すごく多い最近の流れに見える。
秀逸なのは、小山内梢が夫にはじめに会うための大学進学を映画のようにプロモートしていたことをひたかくしにしている点。
これが、梢が自分の名前をみずきに引き継がせなかった理由を色こく暗示している。
その点がとても素晴らしい。
 
対して、竜之介の妻るりへの愛情の浅さが不思議で仕方ない。
なぜ、義務感にみちた性行為になってしまったのか、どこで足を踏み間違えたのか、その描写はない。何より、アグネスと浮気をしているのを何も関わりなく映し出しているのは?また、同時に、肝である三角への不貞を働いている瑠璃に弁解の要素がない。
なぜ、不貞を働いたのか、それは、竜之介の態度が悪すぎたということに安直にはなるのだけど、それで僕ら読者は許していいの?夫との関係修復をはかるシーンを入れなくてよかったの?そもそも、なんか竜之介のこと好きじゃなかったけど、みたいな感じに読める。個人的には、悲しく思う。
でも、じゃあ、瑠璃が人妻じゃなかったら?人妻じゃなかったら、おそらく、瑠璃は頻繁に三角と会っていただろう。死への憧憬の意図(知人の「ちょっと死んでみる」という自殺の意図)が測れない。これの説明がつかない気がする。
人妻じゃなかったら、物語は三角がより深い熱愛をすることになる。となると、二人の中には仲違いもあるはずで、出会わないことで燃え盛る愛は消失する。なぜ、彼女は生まれ変わってまで三角に会いたいと思ったか?行きすぎた偏狭愛を受け入れ安くしているのは、してはいけない不貞の愛ゆえではないのか。
書評の東野圭吾や高村薫が指摘している「生まれ変わった本人の戸惑い」が書かれていない点が不評であるようだが、同時にこの作品を際立たせている点はここであるとも僕は思う。瑠璃本人の感情を書かないことによって、瑠璃の不気味さを際立たせている。作中の瑠璃はただただアキヒコと会うことだけに執念を燃やしている。それを愛というのかはわからないけれど(僕は愛とは思えないけど)
それから、正木竜之介の死亡も解せない。希美が死んだ理由も陳腐。というのは、読んでいる途中で希美が死ぬことが予期させられるから、(むしろ死なないで記憶を繋いだらより陳腐だが)。
フッサールの現象論を論拠としているから、「あるがままを受け入れなさい」というメッセージになってる。根拠はないよ。作中に書いている通り、根拠はない。でも、そういうことが一理あると思ってくれたらいいじゃないか。それで、彼らに起こったことは「生まれ変わり」を信じるしかないでしょうということ。それだから、梢も生まれ変わっててもおかしくないでしょうとなる。さらに「死んだ後のことはわからないじゃないか」と議論を投げ出す。
それを考えるのが物語じゃなくて?
佐藤の考え方の根本には「わからないから受け入れましょう」なのか。他の作品も読まないとわからないけど、そこまでの意欲は湧きませんね。
 
書評の林真理子さん。嵐が丘と見たらしい。やっぱり嵐が丘読まなきゃよね。ジェーンエアも一緒に。。。
宮部みゆき「当事者の二人以外は誰も幸せにしない恋愛というものの暴力性と理不尽さを描いた小説だと私は思っています。」すごくいいことを言う。恋愛とはそう言うものなのかも
トルーマン・カポーティ
冷血
 
 
カポーティの洗練された比喩表現がこの小説には少なかったように思います。
それは、彼が、これを機に文体が変わったことに関係があるのか。
これまでは、天賦の才で文章を作ってきた彼が、文章を作れなくなったのではないかと思うようでした。
もちろん、冷血は本当にあった事件を元に6000枚ものノートを資料としてカポーティが作成した(執筆したよりも作成したの方が表現がしっくりくる)ノンフェクション・ノベルだから、だから、比喩表現が少なかったのかもしれません。
 
彼が作った登場人物はどれも生きているように感じました。多くは死にましたが、家族という小さな単位がこの物語にも何度も何度も繰り返し出てきます。家族愛に満ちた登場人物は読んだ後、自分の中で生き続けるようです。
また、えっと、それぞれのシーンの描写が非常に細かい。死刑執行の雰囲気や感情が読者に流れてきます。どうしてもリアリストなので、その風景がリアルなものなのか、カポーティが作成したシーンなのかどうかという点が気にかかります。法律も、裁判所の流れも。
 
かなり長い小説だったので、一気には読めませんでしたので、内容の初めらへんも忘れてしまってます。
初めの伏線が回収されたことを残念ながらわかってない可能性もあります。それは読み返さないと。ウェルズを気にかけるシーンもあったけど、ウェルズが再登場した時にはすっかり忘れてました。覚えていられない。普遍的に言える「死刑」に対する姿勢についてを考えさせられるものですが、流れは死刑に向いているのでなかなかなぜ死刑をするのか考える余地が一度目にはありませんでした。
統合失調症を引き合いに出すのは、こういう小説では正直ありふれて陳腐でしょうか?それとも、現実だからなのか、冷血が初期作品で、その後の模倣作品を読んできただけなのか、その辺は僕にはわかりません。
 
あとは、関係のない流れが文章中にあることが気にかかります。空き缶拾いとか。それは必要だったの?読み返したいけど、どこにあるかわからない。
 
さて、書評を見よう。
よく勉強になった。
 
2017/11/18 追記
映画を見ました。全然冷血に対する印象が変わっています。トルーマン・カポーティを一読。