ダロウェイ夫人
ヴァージニア・ウルフ
さて、やっと、読みきりました。
ヴァージニア・ウルフ
さて、やっと、読みきりました。
というのも、この小説は途切れ途切れに読むのに適していない。文の主語が頻繁に入れ替わるため、途中で読むのをやめてしまうと、どこの段階で誰がしゃべっているのかを判断することが困難になる。そのため、ここ2日間で一気に読んだ。
ウルフは精神病らしい。意識の流れという技法がそうなのか、申し訳ないことに僕には知識がないけれど、少し、統合失調症患者の作文のように感じた。
途切れ途切れの思考。
飛んでいく思考。
停滞した思考。
途切れ途切れの思考。
飛んでいく思考。
停滞した思考。
精神分析の技法の一つである自由連想法を使用したという考察もある(川端文学における「意識の流れ」)。
意識の流れは、その中で本人の無意識を描出していく。らしい。
残念ながら、僕には理解できなかった。そもそも、物語の中で生きている彼らの心情の内面をより理解することなんてできるのか?文章として言い残された言葉がそれ自体内面ではなかったのか?
残念ながら、僕には理解できなかった。そもそも、物語の中で生きている彼らの心情の内面をより理解することなんてできるのか?文章として言い残された言葉がそれ自体内面ではなかったのか?
確かに、こう生きている中で、実は文章としてまとめられているものはすでに多くの情報を失っている。人は、言葉にはできない多くの感情を感じて生きている。それを正確に表現することはできないし、する必要もない。これは、絵画と写真の関係にも似ている。もちろん、写真も現実を切り取るには不十分な媒体だけれども。絵画は、人が見たいものを切り取り、見たくないものを削除する能力を有している。そして、キュビズムのように多方面からみることもできる。
小説の単純な構成法である一人称小説から抜け出て、ウルフは多人称を扱う。次から次へと視点が飛ぶ。
彼女が扱ったのは、第一次世界大戦が終わったその五年後ほどのある六月の一日であり、そこに生きている人達のことを単純に綴っただけのごくつまらないもののはずなのに、なんと読みやすいことか。もちろん、文章をなぞっているだけの可能性はあるが。
ダロウェイ夫人から、セプティマス、ピーター、各々の頭の中をめぐる。頭というのは間違い?心っていうべき?
一瞬を楽しむダロウェイ夫人は、そう、文章中にある通り、世俗的なのだけど、それは正しいのではないかとやはり考えてしまう。生は常に死と隣り合わせだ。この事実は、1910年代だからこそ色こく映るのだろうか。現代社会に生きる我々は考えなくていいのだろうか。戦争や病気は彼らが対処しきれない大きな問題だったはずだ。その中で、サリーは五人も子供を授かっている。対して、ダロウェイ夫人はエリザベス一人。死に直面した後のダロウェイ夫人にとって、一時の生を享受することは大切だったはずだ。
引用されたオセロの一文が響く。
「今死ねば、この上なく仕合わせだろう。」
引用されたオセロの一文が響く。
「今死ねば、この上なく仕合わせだろう。」
あまりに難しかったので、感想が稚拙。