月の満ち欠け | CACHETTOID

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Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

月の満ち欠け
佐藤正午
直木賞受賞作品
 
突飛なイベントを物語に組み込むのが、すごく多い最近の流れに見える。
秀逸なのは、小山内梢が夫にはじめに会うための大学進学を映画のようにプロモートしていたことをひたかくしにしている点。
これが、梢が自分の名前をみずきに引き継がせなかった理由を色こく暗示している。
その点がとても素晴らしい。
 
対して、竜之介の妻るりへの愛情の浅さが不思議で仕方ない。
なぜ、義務感にみちた性行為になってしまったのか、どこで足を踏み間違えたのか、その描写はない。何より、アグネスと浮気をしているのを何も関わりなく映し出しているのは?また、同時に、肝である三角への不貞を働いている瑠璃に弁解の要素がない。
なぜ、不貞を働いたのか、それは、竜之介の態度が悪すぎたということに安直にはなるのだけど、それで僕ら読者は許していいの?夫との関係修復をはかるシーンを入れなくてよかったの?そもそも、なんか竜之介のこと好きじゃなかったけど、みたいな感じに読める。個人的には、悲しく思う。
でも、じゃあ、瑠璃が人妻じゃなかったら?人妻じゃなかったら、おそらく、瑠璃は頻繁に三角と会っていただろう。死への憧憬の意図(知人の「ちょっと死んでみる」という自殺の意図)が測れない。これの説明がつかない気がする。
人妻じゃなかったら、物語は三角がより深い熱愛をすることになる。となると、二人の中には仲違いもあるはずで、出会わないことで燃え盛る愛は消失する。なぜ、彼女は生まれ変わってまで三角に会いたいと思ったか?行きすぎた偏狭愛を受け入れ安くしているのは、してはいけない不貞の愛ゆえではないのか。
書評の東野圭吾や高村薫が指摘している「生まれ変わった本人の戸惑い」が書かれていない点が不評であるようだが、同時にこの作品を際立たせている点はここであるとも僕は思う。瑠璃本人の感情を書かないことによって、瑠璃の不気味さを際立たせている。作中の瑠璃はただただアキヒコと会うことだけに執念を燃やしている。それを愛というのかはわからないけれど(僕は愛とは思えないけど)
それから、正木竜之介の死亡も解せない。希美が死んだ理由も陳腐。というのは、読んでいる途中で希美が死ぬことが予期させられるから、(むしろ死なないで記憶を繋いだらより陳腐だが)。
フッサールの現象論を論拠としているから、「あるがままを受け入れなさい」というメッセージになってる。根拠はないよ。作中に書いている通り、根拠はない。でも、そういうことが一理あると思ってくれたらいいじゃないか。それで、彼らに起こったことは「生まれ変わり」を信じるしかないでしょうということ。それだから、梢も生まれ変わっててもおかしくないでしょうとなる。さらに「死んだ後のことはわからないじゃないか」と議論を投げ出す。
それを考えるのが物語じゃなくて?
佐藤の考え方の根本には「わからないから受け入れましょう」なのか。他の作品も読まないとわからないけど、そこまでの意欲は湧きませんね。
 
書評の林真理子さん。嵐が丘と見たらしい。やっぱり嵐が丘読まなきゃよね。ジェーンエアも一緒に。。。
宮部みゆき「当事者の二人以外は誰も幸せにしない恋愛というものの暴力性と理不尽さを描いた小説だと私は思っています。」すごくいいことを言う。恋愛とはそう言うものなのかも