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Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

 

2017年9月18日に京都の大丸で開催されていたオードリー・ヘプバーン展の記録です。

 
 

めちゃめちゃきれいな美女!

あ、美女ときれいって言葉が重複してるな。

黒の流行りの、えっと、肩が落ちてる服をきて、白いカバンを肩にかける。

髪の毛はツヤツヤで、小さくまとめられてる。大きな栗色の目をして、爪楊枝が乗るくらいのマスカラ。横を通る時にふわりと香る、なんだろう、何かはわからないけど、ひどくいい香りだ。

道を確かめるために立ち止まると、彼女は人ごみに消えた。

 

6階にお目あての写真展があるらしい。男1人。

これ、1人ではいるの?

DAIMARUという立地。オードリーヘプバーンという被写体。

被造物としてはあまりに素晴らしすぎる。勝利に輝く歓喜に心が奪われそうだ。

どう考えても男1人で行くところじゃないように思うけども。

とりあえず入り口まで行ってみよう。

エスカレーターをあがる足はどんどん重くなる。歩いてないからそれでもいいんだけど。

一歩一歩進む。男のペアがいなかったら、やめようかな。

変なことを思う。わざわざ、ここまできたのに。

逆説的だけど、廃れていたら、入ろう。

家族連れやじじばばが多かったら、入ろう。

入り口にきてびっくりする。人は多い。老若男女問わず。

よかった。もう、立派な芸術作品だ。

 

Mark shaw, Bob Willoughby. Sid Avery

 

ヘプバーンのルックスへのコンプレックスは本当だったんだろう。それでも、彼女の真摯な目線が惹きつけられる。少女のようには見えないけど。

足をだしてもいやらしくない。

サブリナのときの。1954年4月ライフ誌の表紙。

 

確かに歯並びは実はあまりよくない。コンプレックスって言ってたけど、彼女の素朴さはでも、自然で素晴らしい。ショート。あまりにショートヘアだけど、美しい。 

ローマの休日の途中で歯並びが良くなっているのは有名だ。その時に矯正されたのか?

 

エブァ、ガードナー

エリザベス、テイラー

オードリーに妖艶って言われる。

 

オフタートルネックのコートは彼女のコンプレックスだった長い首を魅力的に見せる。

やばい。どのしぐさもかわいい。パリの恋人のときのかな??

左をむいてこっちを見るのとか、ちょっと上目遣いとか、可愛さが溢れてる。

 

姿勢がいいのも素敵なところ。

 

"世界一美しい目は世界一美しいメイクから"。謙遜。それがいいのよね。

 

たまたまかもしれないけど、お食事中もソファーに座らずに椅子に座ってた。気品が溢れてる。流れてる。

 

写真の節々におどけてる感じが映る。

ユーモアもあるって完璧じゃん。羨ましいなぁ。

 

"幸福とは健康と忘れっぽさ"

 

彼女のファッションはシンプルだ。

定番の黒のトップス、八分丈パンツにフラットシューズ

 

"弱点は隠さず、長所を伸ばそう。

自分を客観視することができるのは一つの能力でもある。"

 

なんでも、自信がない方がいいのよねー。知ってる。それを補おうと努力できる人が優れてることを。

 

古典小説を読むのが好きってほんと!?

被写体が良すぎるのか、本を読む女性って素敵だよ。ルノワールも描いてた。フラゴナールも。 フランソワ・プーシェも。いつの時代も本と女性はいいコンビネーションだね。

あ、あぐらと、床に本なのに、背筋はぴしっ!

 

小物使いのうまさは、それはもう、みんなお手本にするべき!スカーフ20枚持ってるんじゃなかったっけ?

 

彼女の好きなジバンジィ

柔らかい白のストローハット。ハットには小道具はついてない。耳には小さな真珠のイヤリング。ノースリーブのシルクの袖から細い腕が伸びる。彼女を境に時代は変わった。

 

愛犬はミスターフェイマス。presented by メルファラー

 

ドレスってこのシンプルなのって、昔というより今だよね?

 

"精一杯愛するから、私のことも愛して。"

激しく首を振り同意。これは、愛についての洞察で、心に留めておこう。マノン・レスコーにも似たようなことが書いてあった。

 

"彼女は、女性でいるより、母親でいることをのぞんで、もっというと、仕事人であるよりもって、それが、女性であり母親である生き方だと思う"

修身斉家ね。それについては、またどこかで書きたいと思う。僕の座右の名の一つだから。

 

オフタートルネックは本当に可愛くみせるなー。

 

 

 

以上、オードリー・ヘプバーン展でした。 

 

 

 

トルーマン・カポーティ. 1950年

 

カポーティは、早熟の天才と評されたアメリカの作家。21歳でO・Henry prizeを受賞する。「ミリアム」という短編だ。

若輩のぼくが評価するのは忍びないけれど、「ティファニーで朝食を」にせよ、「ミリアム」にせよ、カポーティは直接的に哲学的な問いに答えようとしている。

ホリーが愛について語るシーン(p129)、生き方について考えるシーンなど登場人物に語らせて答えを得ようとする。それも、ホリーは放埓だから、会話は突然に終了する。本当に突然に。

ぼくは読みながら彼女の会話に心を奪われていく。綺麗なリズム。スイスイと読むことができるのはカポーティの功績か村上春樹の功績か。村上春樹があとがきでカポーティの文章は「リズムにリズムを重ね、素晴らしいセンテンスを作り上げる」と書いてあるので前者なのだろう。

ぼくは彼女に惹かれていく。残念なことに、ホリーが映画のオードリー・ヘップバーンに重なるのは否めない。

カポーティは初めヘップバーンに演じて欲しくなかったようだが、ぼくはオードリー・ヘップバーンでも特に問題なく演じているのではないかと思う。もちろん、ご存知の通り、映画と本の流れや結末は合致していない点が多いのであるが。

ティファニーというだれでもが知っている(本当に1950年代アメリカで知られていたのかはわからないが)有名ブランドをタイトルとし、ホリーのティファニーに対する思い入れ(そう。ここが面白い。ミリアムと同様、ここは彼女自身の精神である。)がそのまま主人公の心の中に移動している印象を受ける。

映画では、ホリーが愛する人が誰かということは不明だ。まやかしなのか。

ホセに惹かれ結婚を考えていた、真実の愛を唄っていた彼女が、裏切られたことで主人公への愛に気づいたという流れが映画だが、これは、正直嘘くさい。ありきたりの結末で面白くない(もちろん、元ネタが「ティファニーで朝食を」で多くの作品がオマージュしている可能性はある)。

それよりも本の流れで彼女は幸せになったのか?名前を得たのか、読者の想像にお任せする方が話が膨らみやすい。

猫に名前をつけることができず、互いに所有されることを拒んでいたにも関わらず、最後には共依存していたことに気づく彼女は僕らに似ている。彼女いわく、「私はなくなってから、なくしたものが大事なものだということに気づく」らしいが。

 

不思議なことに僕たち(人間?)は、人との関わり合いの中で実存を確認しているはずなのに、人との関わり合いでは人はそれほど自分自身を共有させることが苦手だ。

本という一方通行性のメディアに対しての方が人は関わり合いを持ちやすい。感傷を抱きやすい。

つまり、本というメディアから一方向性に情報を共有させられ、読了後は一方向性に本に対して思いを抱く。その後、他の人と話し合ったりすることで自己の意見を共有したりするように見える。が、本の内容という他者の思想をこねくり回しているだけで、本来の自分自身を共依存させようとする気はなさそうだ。

しかし、かといって、自分自身を共有させないからといって他者を共有しないとなると寂しいという感情が渦をまく。

猫は喋らない。それでも、ホリーがお互いの所有物だということがわかったように、僕らも言葉を持たないものでも共依存することがあることを肝に銘じるべきだと思う。

 

さて、「冷血」を次に読もう。

「冷血」は優れたストーリー・テラー出会ったカポーティが作成した「ノンフィクション・ノベル」である。社会の評価は、少年は大人になるということでいつまでも神童ではいられないということだ。

物語を紡ぐ時、人は無からは創造できない。創造のタネがいる。それが大人になるにつれなくなっていく。

「ローマの休日」で見られるように新しい出会いは興奮と想像の芽を生やさせるが、見慣れた景色からは何も生まれない。

僕らも見慣れた景色にうずくまってはしないか。

日々の日常業務からは何も生まれない。

新しい視点・視野が必要だ。