冷血を書いた頃のカポーティの伝記映画。
Wikipediaより
2005年のアメリカ映画。タイトルの通り、作家のトルーマン・カポーティを描いたもので、彼が代表作『冷血』を取材し書き上げるまでを中心に描いた伝記映画でもある。
監督はこれが劇映画初監督作となるベネット・ミラー。
冷血は in cold bloodというタイトルである。
スミスが終始してトルーマンにタイトルはなんだと問い詰めていたところから推測するに、殺人を犯したスミスの印象を、暗に、世界にはどのように知ってほしいとトルーマンが考えているかどうかを確認する事の唯一根本的な解決策は、タイトルを聞くことだったのだと思う。
in cold bloodは、日本語訳では、冷血と訳され、これは殺人の凄惨さや無残さ、殺人犯の悪魔的心情を形容しているように感じるが、僕には、スミスが殺人を引き起こすに至っては、その血の中でやむなくされたのだという弁解の意図が取れるとしか思えない。というのも、トルーマンの生涯とスミスの生涯が類似していること、明らかにトルーマンはスミスに愛情を持っていること、スミスが人間だということを示すには本を書かなくてはいけないとトルーマンが語るところから、スミスは殺人をしてしまう運命にあったのだというように汲み取れる。つまり、cold bloodではなくて、in cold bloodなんだ。
ショーペンハウアーの意志と表象としての世界にもある通り、人間は死に向かって進んでいるのであり、あらゆる苦悩が道々で人生の障害となっていたとしても、最終的には死ぬということは誰にも妨げられないのである。
当時の時代背景は、僕には正直いまいちよく分からない。死という終着駅を突発的に理解するものとして考えていたのか、それとも近づきつつある、迫り来る恐怖として認識していたのか。
つまり、僕が言いたいのは、常に人間は生きている限り死を意識せざるを得ない。しかし、殺人や事故、病気による死が横行跋扈している世界に生きている人間と、戦争などによってしか死が身近に感じられない人間、もしくは現代日本に生きるような老人や病気の人にしか死が身近でなく、遠い不透明な問題として死を認識している人間のそれぞれによって、三者三様に死への取り組み方は異なるのだ。
つまり、僕が言いたいのは、常に人間は生きている限り死を意識せざるを得ない。しかし、殺人や事故、病気による死が横行跋扈している世界に生きている人間と、戦争などによってしか死が身近に感じられない人間、もしくは現代日本に生きるような老人や病気の人にしか死が身近でなく、遠い不透明な問題として死を認識している人間のそれぞれによって、三者三様に死への取り組み方は異なるのだ。
トルーマンの時代は二番目の戦争などによってしか死が身近に感じられない人間がひしめく時代だと思うが、本当にそうかどうかは知らない。
その中で、殺人という予告なく幕が閉じられる事象を引き起こしたスミス、そして、死刑という予告ある死への道のりを経験するスミス。その両者を客観的に愛するように見つめるカポーティ。文章化するという行為によって、トルーマンはより死を意識したに違いない。
彼は、死刑が実行されること待ち望んだはずであるが、僕には到底そうは思えない。あれだけの関わりをしたカポーティは親友の最愛な人の死をどうやって受け止めたのだろうか。
ニュージャーナリズムと呼ばれたノンフェクション・ノベル。彼はその境地を切り開いた第一人者であるが、ノンフェクション・ノベルは完全に彼の人生の一区画であった。彼はそれ以降大作を完成させていない。それによって彼の人生は終わりを告げたのかもしれない。
1984年、彼は、アルコール中毒により死亡する。