「人間失格」の感想文。
書物を読むことは自分と向き合うことでもある。
書物を読むことは自分と向き合うことでもある。
僕は、読みながら、同様に自分の過去を振り返る。この文学は、ある天才・奇才・奇人変人が記した誰もが思いもよらない思考形態なのだろうか。それとも、素朴などこにでもあるどこにでもいる純粋無垢な人々の心の持ちようを描いているんだろうか。それらは、実は、誰しもの心の奥底、胸底にあり、しかし、表現し得ない部分なのだろうか。それらをあたかも今発見しましたというように書かれているのだろうか。
僕は、心を通わせる会話をしたいと常々思っている。
ショーペンハウアーは言った。「僕は普通の人とはお喋りしかしないが、ゲーテとは哲学をする。」
そう。この気持ちを大切にしたい。
ショーペンハウアーは言った。「僕は普通の人とはお喋りしかしないが、ゲーテとは哲学をする。」
そう。この気持ちを大切にしたい。
それは、太宰のいう、竹一と同様に思う。
読書によって過去の経験がフラッシュバックし、水面を揺らす波紋のように心の中に広がる。しかし、その波紋を生み出すには何らかの刺激が必要不可欠であり、そして、その波紋は時間とともに薄れて消えていく。経験は確かに自分のものであるはずなのに、いろいろな人の思考形態を辿ることによって、本当にそれらの経験が自分自身のものであったかということは曖昧模糊となる。ある本で読んだ内容かもしれない。過大解釈しているかもしれない。話を盛っている可能性も高いのでは。そうしていくと、何が自分の経験で何が自分の経験ではないのかもわからなくなる。そうして人は成長していく。
太宰は、自分は演じてきたという(文中の表現は道化と化していただが)。この表現は、ひどく一般的であり、正直誰しもの心の中にすくんでいるもう一人の悪魔なり天使なりであろう。しかし、実際のところ、人々には、エゴというかイドというか、そういう相反するものも自分自身なんだと理解してしまう心情があるのだろう。矛盾した考えをしていても「そうだよね。それが普通だよね。」と受け入れることができる。しかし、ある種の人々はそれを受け入れることができず、世界にふわふわ浮いている思想や思考と自分の本来の考え方は相容れていない、幾分か妥協しても、ズレが生じていると考えるのであろう。その彼らの書く文章を批評批判するのと同時にこんな考え方は一般的にはできない、故に彼は天才的だと称しているのだろうか。
言語は多義性を有し、同時に同一性を有する。
それ自体が矛盾した文言であるが、ある事柄を言語化し、「彼を天才だ」ということは、ある一般的な辞書的な意味に彼を貶める同一性があるのと同時に、天才はそのまま鬼才や異常者という違う意味を暗示させる意味で多義性を有している。そもそもが、人間の多義性に論拠を置いていると思う。僕はこの多義性の理論を好んで使用する。
それ自体が矛盾した文言であるが、ある事柄を言語化し、「彼を天才だ」ということは、ある一般的な辞書的な意味に彼を貶める同一性があるのと同時に、天才はそのまま鬼才や異常者という違う意味を暗示させる意味で多義性を有している。そもそもが、人間の多義性に論拠を置いていると思う。僕はこの多義性の理論を好んで使用する。
さて、人間失格を読み終わった。
時は、平成28年、ある病院の一室である。外は、けたたましい呻き声が鳴り止まない療養病棟であり、僕は、当直医として、その部屋にいる。外に出ることは禁じられ、ひたすら待機するのである。
太宰治文学は二作目のはずであるが、「御伽草子」は斜め読みをしたためか、深く入り込んだのは今回の人間失格が初めてだった。あらすじはどこかのホームページや書評をご覧いただければいいと思う。
解説にも書かれているが、この文学は賛否両論があるだろう。絶対肯定か絶対否定だという。もちろん、そんな二極化は否定せざるをえないと考えているので、その間のグラデーションはあってしかるべきだ。しかしながら、他の文学者と異なり好き嫌いがはっきり分かれそうなことも伺える。
太宰治は、人間失格を昭和二十三年三月から五月にかけて執筆後、六月十三日玉川上水に入水した。
人間失格はその後出版されている様子であるが、この作品は彼の心理を深く読み解いているような印象になる。ポップに軽く言えるのなら、「こんな作品書くから鬱になるんだよ。」と言いたくなるが、そういうと、太宰はより絶望するのではないか。
今、並列して大江健三郎作品も読んでいるが、どちらも人間の陰湿さやさもしさなどに主眼が置かれている。
太宰はより人生の意味を考えさせる。
太宰はより人生の意味を考えさせる。
ドエスエフスキーの地下室の手記を読んで欲しいようだしそれは読んでみようと思う。
また、「斜陽」「晩年」は読もうと思う。
また、「斜陽」「晩年」は読もうと思う。
この作品に対する意見が根本的に人によって異なるのは、どうしてだろうかと思うと、これを天才の所業だと自分とは切り離して考えることができるか、それとも自分自身も同様だと考えてしまうかにもよると思った。
その点においても解説されているが、先に僕個人について記す。
僕個人としては、この手記は全くもっと偉人天才によってのみなされた事とは思わない。その思想は、僕個人に根付いているものであり、現代アートの村上の言にもある通りであり、誰しもが実は心の奥底に潜ませている心情なのだと思っている。そのため、本当は、世間(あぁ、世間は個人ではないかという太宰の考察はものすごく僕の考えと似通っている。みんなというのは個人なのではないかという理論と同じだと思う)の人々も心のある一部では、周りの目をあまりに気にして、自分の考えは述べず、迎合し、反対意見をいうことを罪としているのではないか。それにも関わらず、世の中の享楽に溺れることで、彼らの中にある大きな世界への恐怖は薄らいだのではないか。その恐怖はこの「人間失格」によって大いに浮き上がらせられるのではないか。しかし、解剖学の勉強を実物の人体で行った後にもかかわらず食事が進むように、そのことは所詮天才の所業で自分自身とは切り離しているだけではなかろうか。
僕は、この悲しみは単純に振れ幅の違いだと思う。背景に戦争が潜んでいるし、共産主義による富豪貴族の子息における罪悪感も潜んでいるかもしれない。そう言った悲しみは時代の差があれ、ともあれ僕らにも認められるものであるし、悲しみのない人生はここ何千年の世界の中では実現されてきていないように思う。それでもやはり、当時の彼らに比べて、やはり、僕らは死に対する距離があり、悲しみの深さは少しは浅いのではないだろうかと思う。現代社会はどうしてこんなになってしまったのだろうか。経済学的には大きな物価の上昇はは大きなインフレを引き起こすだろうし、人体としても大きなバイタルサインの崩れは組織損傷を起こすだろう。僕らにも太宰らと同様に悲しみを感じる感情は生きているはずなのに、ここ最近、想像家が自殺したという話はてんで聞かない。
その点においても解説されているが、先に僕個人について記す。
僕個人としては、この手記は全くもっと偉人天才によってのみなされた事とは思わない。その思想は、僕個人に根付いているものであり、現代アートの村上の言にもある通りであり、誰しもが実は心の奥底に潜ませている心情なのだと思っている。そのため、本当は、世間(あぁ、世間は個人ではないかという太宰の考察はものすごく僕の考えと似通っている。みんなというのは個人なのではないかという理論と同じだと思う)の人々も心のある一部では、周りの目をあまりに気にして、自分の考えは述べず、迎合し、反対意見をいうことを罪としているのではないか。それにも関わらず、世の中の享楽に溺れることで、彼らの中にある大きな世界への恐怖は薄らいだのではないか。その恐怖はこの「人間失格」によって大いに浮き上がらせられるのではないか。しかし、解剖学の勉強を実物の人体で行った後にもかかわらず食事が進むように、そのことは所詮天才の所業で自分自身とは切り離しているだけではなかろうか。
僕は、この悲しみは単純に振れ幅の違いだと思う。背景に戦争が潜んでいるし、共産主義による富豪貴族の子息における罪悪感も潜んでいるかもしれない。そう言った悲しみは時代の差があれ、ともあれ僕らにも認められるものであるし、悲しみのない人生はここ何千年の世界の中では実現されてきていないように思う。それでもやはり、当時の彼らに比べて、やはり、僕らは死に対する距離があり、悲しみの深さは少しは浅いのではないだろうかと思う。現代社会はどうしてこんなになってしまったのだろうか。経済学的には大きな物価の上昇はは大きなインフレを引き起こすだろうし、人体としても大きなバイタルサインの崩れは組織損傷を起こすだろう。僕らにも太宰らと同様に悲しみを感じる感情は生きているはずなのに、ここ最近、想像家が自殺したという話はてんで聞かない。