魔の山 上 | CACHETTOID

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一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

魔の山 上
トーマス・マン 1924年
トーマス・マンは、ドイツの作家でノーベル文学賞受賞者である。
 
眠い。ひたすら眠かった。
 
さて、まず、魔の山は、20世紀の教養文学の一つである。メルヴェルの白鯨やフローベールの感情教育にも同様の思考が錯綜する。
というのは、魔の山は、ハンス・カストルプがサナトリウムであるベルクホークにいる人々から影響を一部で受け、一部で影響を全く受けずに成長していく物語であるからだ。
物語の語り手はハンス・カストルプであるように見えて、神であり、第三人称が使用されている。
その中で、カストルプは単純な賢さの持ち合わせていない男性なのだということが明記されている。
 
サナトリウムは、ドイツの山の連なる都会から離れた場所に建設されているようで、このサナトリウムに居住することが、結核の治療に結びつくと信じられている。そう、信じられているという表現が正しく、現代医学からすれば、それは結核治療とはならないからだ。
結核について、簡単に細菌学に則って説明をする必要があるが、結核菌は抗酸菌と呼ばれる菌で、通常の抗生剤で死滅できる菌である黄色ブドウ球菌などとは異なる壁構造をもつ。これは、つまり、戦時にフレミングにより発見されたペニシリンの効果がない菌ということを裏付けている。ペニシリンというのは、細菌の細胞壁を破壊する物質であり、一般細菌と細胞壁が異なる結核菌には全くの無効である。
結核菌は、空気感染によってヒトからヒトへ伝染する。基本的には、口から気管支、肺を通して人体内に定着する。つまり、結核菌は空気を好むのだ。
肺の機能は、酸素交換と二酸化炭素の排出を大きな目的としている。それ以外にもホルモン産生の機能もあるが、最も重要な機能は酸素交換と二酸化炭素排出である。
そして、この酸素というものは、血液中に存在する赤血球のヘモグロビンとの結合・解離により肺で交換され、各組織で再分配される。すなわち、空気が行き来している状態だけではなく、血液が行き来する状態が非常に重要だということだ。その病態の破綻の一例が肺血栓塞栓症であり、気胸である。
門外漢なので、詳細には知らないが、人はどれほどの肺の機能を損失すると生命にかかわるのだろうか。
当時、1900年代には結核は死の病であったのか。僕は、読書と勉強を重ねることによって、そこに疑問を生じるようになった。現代2018年の時点で、細菌感染症の基本はcrescent, decresentであり、治療をしなければ増悪し、治療をすれば改善するという概念が一般的、基本的、十分に認知された概念である。しかし、そもそもその治療法がない時、なぜ、結核菌が人類を駆逐することができなかったのだろうか。いや、それ以外の菌にしても同様である。もちろん、感染力が弱いという問題もあろう。しかし、実直なヨーアヒム、敬虔な人文学者であるセテムブリーニ、そして特に人生に不安の抱いてなかった工学者であるハンス、若くして亡くなったカーレン・カールシュテット。いや、カーレン・カールシュテットは例外だろうか。母親が結核保菌だったことを考えると、幼少の時から結核に晒されてきたのだろうと考えられるから。ともかく、若く免疫状態に問題がなさそうな彼らが容易に病気に罹患している事実から考えると、結核は自然治癒する可能性を秘めていたのではないかということだ。というよりも、保菌状態になり得たということ。どこに?隔壁を伴った内部構造にか。その内部構造には酸素がいかず、結核菌は死にはしないながらも増殖せず、数十年も生き長らえさせる事ができていたのだろうか。
というようなことを頭に思い浮かべながら、この物語を読み進めるわけだが、そもそも、この魔の山での結核という媒介は所詮媒介に過ぎず、人生についての苦悩・時間についての苦悩を感じさせるただただ媒介に過ぎない。すなわち、それは結核でなくても物語は成り立つ。
 
にしても、咳の描写 p31
“まるで喜びも温かみもない咳、まともに押し出されてくるのではなくて、分解した有機体の粥の中をぞっとするほど力なくかき回す音としか言いようのないものだった”
これは、その現場をじかに見たよりも詳細で的を得ている。僕ら医師よりも表現が的確である。
 
書き記すことなど不可能に近いくらい、魔の山には教養が詰まっている。
時間に対する見方の論点
病気について
音楽のなしうる所業について
愛と純潔の対立(p208)
死について
生理学・解剖学・胎生学・遺伝子学について(p508)
 
多彩な論点が紹介される。本当は医学など以外のテーマも多彩に記されていたのだろうが、僕が医学者だからか、そこにばかり注目がいった。これは、一つの偏見であり、そして、人間に備わった残念な機能である。
 
細胞が特化してそれだけの機能を獲得していったその経過と同様に、文明が進化するにつれ、身の回りのことほとんど全てに責任を持たず、専門的に限りなく実用的でないことだけに特化した僕ら現代人と同様に、ものごとを一つの側面からしか見ることができなくなっているのだ。
この悲しい側面はどんなに用心しても解決される事象ではないと僕は考えている。多面的という文言で曖昧に処理される物事は、二面なのか3面なのか果たして二十面なのか、それ以上の面を有しているのか、それは常に無限に拡張していく宇宙のようであり、その全ての面を考慮することが不可能であるが故に、その次に現れた言い訳、そう所詮言い訳として、重要な側面だけを考慮して見たという安直な結論に至るのである。誰がその重要な側面という側面を決定したかという最も重要と思われる問題には直視せず、論理的に構成したという発言により論理的でもない文章は高尚化される。それこそ、言葉が望んでいた支配かもしれないにも関わらず、僕らは言葉を使役しているという幻想にはまっている。
 
このように、僕は、この魔の山を通して思考を巡らすのであるが、実際の魔の山の物語自体にはほとんど進行がない。
ハンス・カストルプは相変わらずセテムブリーニの話を聞いているのか聞いていないのか曖昧な態度をとるし、変わったことは、ハンス・カストルプの滞在が伸びたことと、ハンス・カストルプがショーシャに恋慕の念を抱いていること、そして、数人の患者が死ぬか退院し、代わりに違う人が居住してきた程度で、それらは正直なところ、物語の進行に必要不可欠な要素ではない。
魔の山は淡々と日々のあり方について叙述、描写し、少しずつ彼らが変化していく様を描き出しているだけに過ぎない。
 
しかし、それこそが物語であり、変化に激しい映画は、単純に、各国から集まった愚鈍な観客の共感をどこかで得るようにと集められた陳腐な作品に過ぎないのであり、このように詳細に綿密に彩られた論述の方が価値があるのではないだろうか。
このことは感情や内面を吐露せず、表象されえた物事のみで真理を表現しようとしたロストジェネレーションとは対立する考えに見える。
 
 
さて、医学者として、魔の山に残された未解決問題がどこまで解決されたかを検討することは非常に有意義だろう。
そして、そのことを意識するとすでに100年経過したわけであるが、これほど、この100年の進歩はこれまでの人類史の中で飛躍の年であったと評価されるに値するとしても、まだ何も進歩していないことが見て取れる。
 
我々は、我々を我々と表現するべきか、私と表現するべきか、そのどちらが本質的かどうかには決着をつけることができていないのである。