泉鏡花 | CACHETTOID

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Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

外科室・海城発電 他
泉鏡花
 
やっとのこさ、読了した。彼女がこの本を僕に紹介して、はや一ヶ月程度たっただろうか。この頃は、忙しく、それにかこつけて読書をサボっていた。外科室が強烈なインパクトを与えたが、僕は義血侠血の方に心惹かれた。荒唐無稽な設定だと批評され、そこにこそ、真実が見えるというが、僕には荒唐無稽には思えないことが多かった。形は違えど、理性と本能の対立に見え、制度への抵抗と制度からの解放を謳っているように見えた。僕らは、どうしても現在社会という枠組みから逃れ得ないのだろう。結婚という制度を導入することによって、この制約を手錠がわりに彼女につけ、そうして僕らは安心を得るのだろう。離縁されるは一生の恥と「化銀杏」で記載され、当時の結婚理念について大いなる男尊女卑の念を感じる。そして、彼女らは物心がつく前から好きでもない男と結婚させられているのだ。男側はどうあれ、遊びもせずに妻を監視して、愛とはなんだと考えさせられる。悪いのは夫だろうか、それとも夫を愛することができない妻の方だろうか。それともそんな善悪の判断は当人には存在せず、世間がその良し悪しを決めているのだろうか。世間というのは狭いちっぽけなおもちゃ箱のようなもので、そこからひょんな事で違うおもちゃ箱に入れられてしまえば、次はそこが遊び場となろう。そんな代わりがきくようなものでありながら、それでも人によっては逃れられない宿命のようにも思う。その世間様が行動を決定する。これまで、夫を思いやるようなそぶりをし続けることを演じてきた彼女は、夫に真実を指摘され、離縁か夫の死を選択させられる。殺したいと思う悪の欲求よりも、死んでしまえばいいと他人行儀をより悪とする手法には、とても共感し恐ろしく思う。彼女も同じようなことを言っているから。
常日頃、議論の的になるのは、「享楽と知性」の戦いであり、「理性と本能」の戦いである。
理性で行動をできるのは人間であるという文言は実はひねくれたものの見方ではないかと最近感じる。
本当に人間は理性的に行動をできるのだろうか。そもそも理性とはなんなのか。やってはいけないこと、特に姦淫としても、それを悪いことと名付けてしまったのは、理性の象徴である社会なのではないだろうか。本能のみで行動するとされる動物はなぜそのような過ちを犯さないのだろうか。それは、ひとえに、姦淫することによるデメリットがメリットを上回るからであり、ある島国の鳥は、伴侶を決めると、その時点からは、一度も浮気もせず、一生を妻に奉仕するのだという。というかよく考えると、種の問題で中には一夫多妻や多夫一妻制度を導入している動物種も存在するだろう。もしかしたら、一夫多妻がほとんどかもしれない。単純に、種の発生の問題から、妊娠・出産というストレスを考えると一夫多妻の方が生物学的には効率が良さそうだからだ。そのような社会において、女性に性欲は必要なのだろうか。単純にセックスをしたいということは起き得るのだろうか。生殖を目的としない性行為をするのは人間だけだそうだ(厳密にはもう一つ種があるが)。なぜなのか。性行為はどのような種であれ、その場面は敵から襲われやすそうである。そのため、性行為は自殺行為にも近いかもしれない。人間は性行為をするだけの安心を知性によって獲得した。まずその点が一つ。それから、性行為が快楽に結びついていること、これについては、快楽が随伴しなければ性行為はなされず種が保存できないという考えから、なんとなく、性行為=快楽の図式が真であることは想像がつく。人間は、性行為というその場の快楽を手に入れることによって、性行為ができないという矛盾した苦痛に満たされていることにどうして気がつかないのだろうか。そう思うのは男だけで、女性はそうは思わないのかもしれない。なぜ、女性の方が性欲がないと言われるのか、そもそも性欲とはなんなのか。僕はまたわからなくなってしまった。人間を理性的にしているものが知性だとしていたけども、結局、本能的になされない性行為という本能的行動に翻弄され、それを理性で抑えているのだという意味がわからない提言がなされているように思う。性行為という本能による行動は、人間以外の本能的と呼ばれる種々の動物の方が、より、理性的に行為されている。その状況下で、本能を抑える理性と言われても、なんだかおかしな感じだ。