DUCHAMP * JAPAN | CACHETTOID

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Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

Duchamp展がやってるのを知らなかったけど、来ることができてよかった。
東京は展覧会が多いから、美術など学習の場としては飽きない。
 
Duchampのキーワードはレディメイドだ。でもキネティック・アートの先駆者でもあるし、キュビスムも代表的な作品の一つだし、ビデオ・アートやシュルレアリスム、ダダイズムなどの概念も見られる。
 
大ガラスはやっぱり全くもって理解できないし、こじつけとかもあるんではないかと思ってしまう。
泉。すごく有名な作品なので、知らない人なんていないんじゃないかと思っている。が、去年の自分も知らなかったので、限定的に美術を好きな人なら知らない人なんていないんじゃないかという言葉に変換させてもらう。
人は、生きていく上で成長を夢見ながら生きている訳で、その中で退化が仮に起こっているとしても仕方がないが、つまり、選択をすることが重要で、選択をしないという選択をすることも憂慮されるが、そのような事柄を知らずに何も考えずに生活をすることは許すことができない。
 
大学六年生の時に、フィラデルフィア美術館に行ったことがあるが、その時はほとんど美術というものを知らなかった。よく考えると、ニューヨーク近代美術館も拝観しているのだが、ほとんど記憶にない。当時は自分自身しっかり覚えようと思って見たのだろうか、それともなんとなく流してしまったのだろうか。全然記憶にない。デュシャンの「遺作」は、木製の古びた木の扉に穿かれた小さな穴を覗くと、裸体の女性の素足が見えるという作品であり、それも、フィラデルフィア美術館の代表作だ。僕は、「遺作」のビデオ映像をみて、にわかにフィラデルフィア美術館で同作品を見たことを思い出した。確かに、同じような、いや、それは絶対に同じだったに違いないのだけど、同じような作品を見た。当時は知識が欠けていたため、なんなのかを理解することができずに過ごしていた。よく考えたら、あの時みた作品、そういえば、絵から木が付き出ているような作品(アサンブラージュに思える)も有名な芸術家だったかもしれない。あいにく、今でさえもその作品が誰のであるということがはっきり言えない。
ともすると、今回見ることができた泉、階段を降りる女性、大かがみ、LHOOPなど彼の有名な作品を見たことも僕は忘れてしまうのだろうか。なんとなくそれは違うのではないかと感じる。それも、前に知識があるかどうかで忘却率は全然違うからだ。しかし、その記憶に保持されるという点においては、反復練習が重要であって、そして、実物を見ることつまり百聞は一見にしかずが重要なのであろう。その点においては、本だけで勉強するのではなく、確かに実物を見に旅行に行けということになろうか。
しかし、本物を見にいくメリットはなんだろうか。これはいつも感度の問題だと思っている。自分自身が本で感動をできる感銘を受ける、今後の考え方や生き方に影響を与えうるのであれば、本で知識を得るほうが断然コストパフォーマンスがいい。結局、実物を見るという経験は、足に負担を与え、時間を欠けているため、経験が一見に勝るように感じられるが、一見も同様の時間をかけることができれば、劣らないのではないかと思える。
というわけではあるけども、結局自分自身で勉強することには限界があるので、やっぱり他人・他のものを用いて勉学に励むことが重要であろう。
 
そして、なぜ、このような美術館賞をするのか。その理由も時折思い返す必要がある。僕は、それら美術作品を見て、綺麗だからとか盲目的に発言する人間は嫌いだ。彼らは本当に「泉」を見て同じ発言をするだろうか。もしもするのだとしたら、彼らは、日々トイレで同じ発言をしていないと行けない。ということは、彼らは、知識がない場合には「良いもの」と言われていることを盲目的に信じているだけということになる。
 
本展覧会はDuchampの有名作品を全て(自分が思いつく限り)網羅していたのではないだろうか。