CACHETTOID -5ページ目

CACHETTOID

Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

さてと、旅の記録をしようと思う。ストックホルムにいると周りが英語なのでなんとか自分の思っていることも英語で話そうとしてしまう。頭で考えたことを英語化しようと試みている。今もこうやって文章を頭の中で作り出すわけだけども、それを英語にしているような感じを受ける。
しかし、そういった英語化作業によって、言語は陳腐になっていることは確実である。それは、日本語と英語のボキャブラリーの差であろうし表現力の差である。そのギャップを埋めるためには、英語をしようするしかないのである。今日、おとづれた美術館に当然のように英語の幼児向けのえほんが置かれていた。また、図鑑も置かれていた。僕にはそれを読解する能力がない。といっても、日本語でも初めましての言葉を英語で学ぶわけだから、日本語で覚えなくていいという理論になる。医学と同様で例えば、microgliaを日本語訳しようとすると非常に困るように、microgliaはmicrogliaでいい。それと同様に火山の噴火によって生じた石の名前もその英語でいい。ということになる。が、なぜそれではいけないか。
客観的な評価かどうかは知らないが、自分にとっては、英語のその言葉を暗記することに非常に時間がかかる、日本語ではすぐに覚えることができることでも英語となると困難になる。これは、artsにおける人名も同様で、今日みたswedenのartistsの名前を一人でも覚えただろうか。否。全く記憶にない。今日、眺めていた単語帳の英語を言葉にすることができるだろうか。これも難しい。その横に書いてあった日本語ならまだしもである。ということは、なんらかの作用によって、日本人は日本語を覚える能力に長けているということである。
しかし、そのような能力が遺伝的に先天的に決まっているとは考えにくい。なぜなら、日本人でも幼少期から海外で過ごしていれば、英語でも他の言語でも簡単に習得できるはずだからである。ということは、後天的な影響が言語記憶の面においても差異を与えていることになろう。
であれば、どのように差を与えるか。無意識的な記憶が作用しているような印象を受ける。例えば、日本語で、”リンゴリ”という変な言葉があったとしよう。これは、リンゴやゴリラとは全く関係がなくて、ある地方の名前だということにしよう。ある地方では黒髮の日本人形に良く似た人形が有名な産業物産であるとしよう。そして、場所は北半球にあるとする。リンゴリの英語表記がLingoliとすると、おそらく、英語で書かれていても自分は覚えられないが、日本語なら覚えることができる自信がある。脳の中がどうなっているかは判断ができない。以前、嗅球の話をした時に、人間の脳には存在しうる全ての臭いの組み合わせがすでにあるとする理論があることを聞いた。つまり、ある匂いをパラメータ化するとその組み合わせによって脳の中にすでに存在したことになる。同様の理論で、たかだか日本語の発音は有限で、リンゴリという意味が不明な単語を聞いても、リンゴとゴリラ、「り」「ん」「ご」「り」と分解してある種の神経細胞が発火するのではないだろうか。その組み合わせが長期増強されれば、その記憶は定着しやすそうだ。逆に、英語の場合には、「リン」によって、何も頭の中に想起されない。rinが何を意味しているか分からない。意味がないから記憶に結びつかない。日本語であれば、りんと響いている音だったり林だったりと何かが想起される。そういった記憶の仕方が無意識的に働いているのではないだろうか。語源に基づいた覚え方はこういったチャンク化を意識的にしているとも言える。
ということは、僕がボキャブラリーを増やす上でまず、大事なことは幼児語のような2-3語の単語で形成される単語群ではないだろうか。それもシラブルで。そうしたら、その発音が無意識的に頭の中にできて、それに関連しながら記憶できるのではないだろうか。これは非常にありうる面白い話である。試しに、やってみたい。
日本語の場合は、母音5個と子音14個で、プラス9個の音節がある。
あいうえお
かさたなはまやらわがざだばぱ
きゃぎゃ
しゃじゃ
ちゃぢゃ
ひゃびゃ
ぴゃ
それぞれ三個しか母音がつかないものもあるが、じゃっと5*23=115個+5(母音のみをたした)の音節しかない。
それぞれ、なんとなく自分の中で意味ができるのだろうか?
あ:阿(阿吽のあ)、驚きのあ
い:胃、位、意、いー
う:ウサギ、鵜、宇宙
え:絵、柄、
お:尾、
か:蚊
き:木
く:句
け:毛
こ:子、個、
さ:差
し:死、師、詩
す:酢、
せ:背、世
そ:素、祖先
た:田
・・・・多分全部できる。きゃ:脚、客、キャラバン
ぴゃ、ピューマ、ぴょん、100、

英語ではどうか?
母音が24個ある。。。
子音は、25個ある・・・
ということは、単純な計算では、24*(25+1)=624個も発音がある!!!
これってどういうことだ?
言語間では、単語数はほとんど差がないはずなのに、この理由は日本語は同音異義語が無茶苦茶なほど多いということ?日本語って難しいと思っていたけど、簡単なんじゃないかと思う。。。
だって、とりあえず、あめ(あ、め)といったらいいだけだもの、
さて、英語に戻って、子音pと母音で試してみよう。
pi,   piano, picture, picnic, pick, pickle.picket, piddle, pier, pierce, pig, pigeon 
pai, pai, paid(マダラの), pike (槍), pile, pineapple, pioneer, pious (敬虔な), pipe,  
pi:, piece, pea, peace, peach, peak, peal, peanut, peat (泥炭), pee
pǝ, pearl, peculiar, pedestrian, 
pe, peasant, pebble, peck, pectoral,  pedal, pen, 
pa, par, pod, pocket,
pou, poem, poet, poultry, 
pæ, Paris, parish,
pau, pouch,   
pɑ:r
:r
pɔ:m, pour, 
pʌ, pub, public, publish, pucker, pump
pu, pudding, pull, 
pju, pupa, pupil, pure, 

めちゃくちゃある
急に不安感が押し寄せてきた。涙が目の縁にたまり、ホロリと溢れそうになる。特に何かあったわけではない。むしろ生活は順調に見える。それでも、ふとした時に絶望感や漠然とした不安感が押し寄せてきて、その波にのまれて、息ができずに溺れる。
全般性不安障害という病気の域にはまだいかない。それは、まだ困ってはいないからだ。
日々生きていく中で、人は何かを邪険にして失って手放して、代わりに何かを得る。それは自ら取捨選択した場合もあれば、そうでない場合もある。
往々にして人生はうまくいかないものだし、いつのまにか断崖絶壁に立っていたりとか、気づいたら猛獣に取り囲まれていたりだとか、はたまた周りは誰もいなかったりだとか、そういう理不尽に囲まれている。雑踏の中でこそ人は孤独である。そんなふうに先人からの教えを受け継いで、今を生きている。
ネット社会が進むにつれ、幸か不幸か人は常に繋がることができるようになった。と同時に、繋がりはか細い蜘蛛の糸のようで、いつのまにか気づかないうちに切れて地獄に落ちるやもしれない。その糸をきれないように何度も何度も縒って結んで補強して頑なにその糸を離さないようにしている。次第に糸はロープとなり、橋となり、道となる。しかし、そこに到るまでどれほどの努力と献身が必要だろう。そうするときには、人は、それ以外の糸を切っている。いや自然と消退しているかもしれない。常に構築し続けなければならないのだ。あぁ、なんと生きづらい世の中になったのだろう。
それにもかかわらず、さらに多数の糸のようなものが自分から伸びていることに気づく。自分の周りから漏出し放射している糸は、先も見えないものもあれば、既にちぎれかけているものもあり、そして繋がりたくないものにも繋がってしまっている。不自然によれたマリオネットのように、右手は左側に左脚は後ろに引っ張られ、舌は突き出たまま固定されている。目が開いているのは上まぶたに天からの糸が繋がっているのだろう。歩かせようと足についたそれは自分自身の意図に関係なく前へ前へと進ませる。後ろを振り返るにも身動きが取れない。自分が作ったと信じていたその糸は自分の意志は関係なく伸び縮みし、振動している。それは誰の意志によるのだろうか。ちぎれた糸は片足に引っかかってこけてしまいそうになる。いつの間にか、足下には残骸が固まっている。こんがらがった灰色の糸も元はカラフルだったはずなのに、なぜ、こうなってしまったのだろう。
涙が片眼から溢れ、それを気にしていないかのように右手で拭う。両眼はゆらりと左の方に揺れ、幸せそうな男女が視界に入る。彼女彼らは人生を謳歌している。おそらく、そうなのだろう。謳歌とはなんだ。何をすれば謳歌できるのか。他人の感情はうかがい知ることはできない。自分自身でも自分のことがわからないのにどうして他人の心なんぞ理解することができるだろうか。とすれば、謳歌しているかどうかは誰にもわからないということになる。自分自身の幸せは自分で決めるものだ。他人によって幸せの尺度を決められることはありえない。果たして事実なのか否か。恋愛、経済、体力、健康。自分自身の幸せを測る尺度はなんなのか。例えば、先にあげた四つだとしたら、同じ尺度を利用している人間は多々いるだろう。可愛い子と付き合いたい、可愛くなくてもいいから性格がいいこと付き合いたい、自分を愛してくれる人と付き合いたい。結局のところ、尺度は有限だ。となれば、やはり、自分自身が全ての価値観を形成していないのだろうと気づく。他人に影響され、他人に綱引きのように引っ張られ、上から操り人形のように操られる。口は、自分の意志と関係なく、その場に求められることを発している。
1984 was written by George Orwell, who was a English journalist, crtisizing the modern society.
The books written by George Orwell I have read was two. 
One is Animal Form, the other is 1984, it was this.
 
The endings of this story was surprising, not expected. So it was too surprising, I didn’t have any confidence whether I had read exactly this story in English. In short words, I am fear of misunderstanding meanings and sentences.
However, even when I read again and again, the sentences was not changed.
How terrible endings it was!
Julia and Winston had loved each other until the torture.
The torture which was done by the Party influenced their considerration and minds.
The betrayed was acceptable for me because no one can stand any more the tortures, the worst in the world. Who could maintain sane constantly ? I can’t, at least.
To the honest, it was very good way to say that the worst things were different for each persons, someone fears fire, earthquake, starvery, porverty, and for Winston, the rat. Rat was able to be enough to betray Julia, who was the most lover for him.
I am always located myself in the story the characters lives there. I also have many questions that world itself. Really ???  This is the ironical fiction that critisize the modern society as a counterparts. In this points, we, now, are said to be living the similar situation to this story, 1984. I am covered with many things that are  considered to be right. We all are blind to what the events around us is and how it works in real. We accepts an important things without consideration. One books entitled “Factfullness” expressed real worlds everyone misunderstands showed that the our thought is sometimes mislead by social media and so on. We need to pay attention to our lives. Can we do that ???  
The Brothers Karamazov
Fyodor Dostoevsky
 
This is number 4th books I have read among the Lader series from IBC publication. The lists I have read except “The Brothers Karamazov” are following; Bible stories, Four tragedies of Shakespeare, and A History of Western Tragedies and Accidents.
These trials to read books in plain English is going on from last December and it works still now because these books are composed of easy and undertandable English. But acturally, I was not able to sometimes understand and catch meanings of words, sentences and proverbs correctly.
Some books, textbooks, blog written by people like me studying English said that texts written in shcolar fields including sciences and medicine in compatible to us are easier to read than stories written for native english speakers, namely children, are. Because we don’t have enough chance to learn words to express the way to change their feelings and act. Moreover, we, English speaker as a second language, have a little English vocuabulary at most from 8,000 to 1,2000 words. Usually native people have around 70,000 words, it is beyond my capacity now. So, Reading this book is very usefull to increase my vocubulary. The concept to these Lader series is a plentiful reading. So I was not recommended to use dictionary or index to find and assure unknown word meanings. I sometimes miss meanings, besides might be misunderstand the sentences. But in general, I thought I could catch up with story.
 
In addition to reading, I want to promote writing skill so that I can easily do writing without any efforts. Nowadays studying English makes me so happy and unnervous to write and speak English, even my tutor online English conversation points me out to correct pronounciation and grammer strictly. It is true that exact grammer is important to study and understand English properly and it helps me to polish my English more and more. If I can use grammer as same as foreigners, I don’t have difficulty to utilizing English. Radio Eikaiwa broadcasting from 6:45 every morning teach me that it means subject if the words were set on the subject. I loved this maxim my teacher had said, and that sentences made me proud to use English.
In the textbook, “The first time I saw her is at the dance party.” is the best example to support this opinion. Though I was not so much proud to use English of course, I like to use it.
Let me move on to state sentiments of readings. This is the firsrt time for me to read “The Brothers Karamazov.”, Since long long story is shrank to only 16,650 words, this is just a plot. But it is enough for me. I was encouraged to read this books published from Kobunsha someday. Because Japanese editions are an enormous amount number of words, which is 5 books. It kills my motivation to read. I was happy to read this this time.
Of course, I can’t  enjoy full of the story, religion conflicts, love among family, Russian justice and so on, which are not fully expressed in this short story. Dmitri, Ivan, and Alexei, three brother’s opinions are understandable, even when love was focused on.
I enjoyed the scene of court. and Ivan finally showed evidence of Dmitri’s innnocence, consequently letters from Dmitri to Katrina was present. Verdict sentenced Dmitri to guilty. I was excited results of  loving each other.
Prologue showed funeral of Ilusha.  I like to these ideas proceeding to next generation.
 
What will I read next??

  

有為な人間は、すぐに外面から内面へ向かって自己を教養する。

ゲーテ(ゲーテ格言集、新潮文庫)

 

 

ある先生から「先生の様な有為な方とお仕事を御一緒出来る事は、我々にとって非常に嬉しい事です」とお返事が返ってきた。お褒めの言葉ということはわかったが、有為ってなに?って思って調べたら、いいことが書いてあったので嬉しくなった。

 

 

ゲーテのこの言葉もすごく素敵。

外面から内面へ向かってというのは、いわゆる「自分以外の人が全て師」といういわゆる名言と同じだ。

clinical pearlsもそうだけど、こういった名言・箴言には2パターンある。前提としては、真理を穿った言葉ということ。「皆が思っていることを言葉にした」パターンと「皆が思いもよらなかったことを言葉にした」パターンがある。

前者の方が皆の身の中にしっくりくる。後者にしても、その言葉によって「そうだ!」となるのであれば、前者の状態に陥るので、これだけ言語が溢れている世界では、基本的には前者の状態が多いだろう。

 

この言葉も実は皆実感していることだと思う。自分としては、いつからこの気持ちを持って仕事をするようになったか、できるようになったか。それは、被教育者の立場から教育者の立場も兼ねることができてから、情報受容者の立場から情報提供者の立場も兼ねることができるようになってからだと思う。つまり、受動態から能動態に変化した時からだ。

講義を受けた時の立ち位置として、講義内容だけに着目していた高校生や大学一年生の頃、その後あたりから、講義の方法、スライドの作り方、話し方などにも着目するようになった。その考え方が、講義だけではなくて私生活にも至るようになった。

 

有為な人間になるように努力をすることが重要で、実際に有為なひとかと言われると、それはなんとも言えないし、自分自身としてはまだまだ未発達でいつもいつも悲しくなっているが、できるだけのことをするしかない。