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CACHETTOID

Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

レミゼラブル 4
 
まだ、半分にしか満たない。ユゴーが独白を始めると言っていることは興味深いなぁと思いながら眠くなる。
100分で名著でスピノザのエチカをやっていた。スピノザのいう真理とはそこらへんに転がっているものだけではなくて自分自身の成長も心理の発見に必要なのだという。自分自身が教育、成長することによって物事の本質を見ることができる。その点で真理は真理自ら我々に問いかけてくれる。
これは、あたかも幼少期に読んだ読書と今の読書の受け取り方が違うことにも通じていると伊集院は言うが、賛成しかねる。確かに、高校時代に読んだ本を今読むと全く違う印象を受けるだろう。それは、自分自身の知識や考え方が変化したからである。しかし、この変化が前向きなものか後ろ向きなものかを判断することはこの時点ではできない。さも成長したように捉えると「昔は意味を理解できなかったのに、理解できるようになった」と真理をあたかも発見したかのように声高になるが、逆も然りである。昔は面白いと思ったことが面白く無くなるのは、何かしらの問題が欠如したからなのだろう。卑近な例では、小学生が見るようなアニメを中高生では見なくなった。なぜか。それは、表現が稚拙で単調でより複雑なものを自分が好むようになったからなのだろうか、それを成長と呼ぶのだろうか。
ここ最近、英語の勉強をしなければならないとおもい、多読をしているが、英語のボキャブラリーは乏しいので、表現は非常に稚拙である。そのため、日本語で書かれた文章のような深みのある表現を認めることはなく、ただただあらすじを読むということになる。小説の論理展開は似たり寄ったりが多く、有名なものであればあるほど、オマージュやらリメイクやらもしくはそもそもあらすじは知っていたりということで文字を眺めることになってしまう。この状態で英語の普通の本を読んでも内容が理解できないだろうから、面白くないと感じるに違いない。日本語の文章であれば、なんとなく、理解をする表現があるが、それも真の意味が分からなければ本当に楽しむことができず、面白くないと感じる。
レミゼラブルについては、当時というか現在というかフランスの歴史、文化、風景、政治を知らなければ、本当に理解してすんなりと解釈することは難しいように思う。自分にはそれが欠けている。では、いつ読めるようになるのか。その答えはずっと出ることはなさそうに思う。ならば、やはり、今ではないか。
 
レミゼラブルは五巻からなる長編で、四巻の途中では、ようやくマリウスとコゼットが出会ったところ、ガブロージュが紹介されたところだ。物語は進んでいるが、這っているように遅い。
ユゴーの教養を見せつけるような隠語についての説明が長々とあったり、コゼットがマリウスから手紙を受け取るところは、少し寒気を感じる。マリウスの狂気を感じる。
レ・ミゼラブル 3
 
第3巻を読み終わった。
どこかの誰かのレビューでつまらないみたいな批評がされていて、まぁ、人の感性に文句をいうつもりはないのだけど、ものすごく面白い!
ただ、知識がまだまだ不十分なので、面白いところを少しすっ飛ばしてしまうところもある。結局、ユリシーズと同じで後ろの隠された意味を考える知識がなかったら、物語は普通の流れでしかないのだろう。紫式部の指摘するように、先人のありがたい言葉をふんだんに使用する必要がある。そこに作家の知性と教養が見える。もちろん、ある小説家が指摘するように(名前を忘れた)、独創的なところもよく作る必要はある。比喩表現は真似が難しい場合もある。アリストテレスの指摘するように比喩には才能が必要かもしれない。
歴史的事実、人物なども知識がなければ、例えられる人がわからない。人名が分からなければ、確かにレミゼラブルの面白みは激減する。自分の知識はここ数年で飛躍的に増加していると思われる。文学的に芸術的に。歴史としてはほとんど知らない。ナポレオンが出てきてもワーテルローの戦いが出てきても僕にはチンプンカンプンである。が、これも、フランスをよく知る人からすればすべからく面白いに違いない。なぜなら、僕だって神戸や金沢や身近な場所の情景を書いてくれていれば大いに楽しめると思うからである。だからこそか、にたような考えを持った人の文章を読む方が面白いと思うんだろう。それは、自分の表現の幅を狭める行為でもあるので、色々な文章を読まなければいけないけども。文明が発達するにつれ文學は衰退する。最近、僕は貧困についてよく考えている。レミゼラブルの影響かもしれない。1780年から1820年程度のフランスと比較して、当然ではあるが、日本は貧富の差が比較的少ない。比較的を繰り返すのはそれでも日本にも貧富の差が存在していることを示唆している。ただ、基本的人権という名目というか取り決めというかのおかげで、日本国民は基本的人権を保持することができる。なんと素晴らしいことだろう。彼らは、基本的人権という人権の名目で日々を楽しむことができる。さて、これがなかったらどうなることか。犯罪、貧乏、病気が地下街に蔓延するだろう。悪の巣窟が作られ、飢餓、不正、不実、不貞が蹂躙するに違いない。神は人間をなんと精密につくったことか。その状態になれば、頭もおかしくなる。脳という臓器はなんとvulnerabilityの高い臓器なんだろうか。現代社会の基本的人権は当時と比較するとあまりにも天国に近い世界であるはずにも関わらず、それらを知る由もない無知性は、より低取得国に流れ、そこで人生を謳歌しようとする。マラリア、HIV、結核、梅毒。そのうち頭も犯されて、何が正常か考えることもできなくなる。それでも、彼らは幸福を感じることもできる。さて、このような基本的人権が存在することをいいことに、その最低限の生活を大いに楽しもうという輩もいる。それらは基本的な生活を超えた範囲の生活となる。それはどこが敷居なのか。生活保護という制度のもとで、彼らは何ができるのか、娯楽は何か。生産性のある仕事は何か。僕は日本という国はものすごく敗者に対して甘い国だと思っている。職がなくても生産性を持っていなくても、彼らは生きていくことができる。なんのために。意味があろうとなかろうと人権が尊いのだという何か宗教がかった物言いに後押しされている。彼らは、当時であれば、死に直面していたはずである。その中にも高尚な意志は存在した。勇敢なものもいた。現代も同じだ。社会の縮図は常に同じ鏡にうつされている。
レミゼラブルという単語が文中に出てきた。P306。「ある点では、恵まれない者と恥知らずとが混合して、みじめな人達(レミゼラブル)という、宿命的な言葉に押し込められる。」
後天的疾患と先天的疾患のどちらが惨めかと問われると、原因が本人にない先天的疾患の方が惨めに思える。後天的疾患は因果応報、自己責任であるだろうからだ。が、恵まれない者もこの中には含まれるし一概に本人が悪いとも言えない。教育という宗教観念の中で僕らは生きており、それによってインプリンティングされているから。
 
レミゼラブルに出てくる教養は多い。絵画が好きな自分としては、ダヴィットが引き合いに出されたことに非常に注目した。テナルディエがジャン・ヴァルジャンを騙そうとするところである。読者にはすぐにヴァルジャンがルブラン氏だと認識できるが、3巻の中ではまだ明確にヴァルジャンだとわかったわけではない。テナルディエがマリウスの父をすくった時の絵をダヴィットが描いたと豪語している。ルイ・ダヴィットのことをおそらく指している。マラーの死!ナポレオンの戴冠式!Ill suffit que je sois bien malheureuse pour avoir droit a votre bienveillance(不幸であるなら、私にはあなたの助力を乞う権利がある)暗殺された革命家マラー。手に持っている手紙はテナルディエ含むミゼラブルが救われる心を意味する。と同時に、ナポレオンの戴冠式にあるような名誉もテナルディエに与えようとする。もちろん、自作自演ではあるが。ルイ・ダヴィットは新古典主義のフランスの画家である。
ユゴーはギリシャ神話、新約成書などの教養をふんだんに使用する。また、ダンテ、ヴォルテールなどの近代作家も引き合いにだす。ゴリアテ、アベルとカイン、他にも様々出現してきたが、あまり印象にないのは自分の知識不足ゆえだ。おそらく、また、時間が立ってレミゼラブルを読めば色々なことがわかるだろう。この点はなんだか教養小説に似ている。
 
物語は、マリウスがコゼットに会うところである。敬虔なマリウスが色恋に目覚め、盲目となる。特筆すべきは、レミゼラブルの映画だ。歌も内容も見事に合わせていることに驚かされる。まだ、第三巻ではエポチーニの良さは見えてこない。汚れた、不吉な、どうしようもない女、しかし、それも貧乏と意地汚い親のせいだ。
最後に出てきたガブロージュ。四巻からはガブロージュも話題に入ってくるだろう。楽しみ。
レ・ミゼラブル 2
ユゴー
佐藤 朔 訳
 
皆が指摘するワーテルローの戦いと修道院についての長い長い説明。これによって心が折れるなんて誰が言ったのか。
全くそんなことはなかった。確かに長いことは認める。そして、本筋とはなんの関係もない。
それはユゴーも認める通りである。歴史について、自分はあまりにも無知なので、ウェリントンさん初めましてだし、読んでもなかなか理解できていないけども、それでも少しだけワーテルローの戦いに興味を持てたことはすごくいいことだ。
修道院についても同様。本を通すと、本当にそのことが事実なのか、事実に似通っているのかを認識しないと大きな間違いをしうる。もちろん、ヴァルジャンのような男が存在しなかったことは明白である。しかしながら、似たような境遇の男は存在していたのだろうと思える。文学史としては、ルポルタージュノベル、ノンフィクションノベルの代表はカポーティの冷血だと思っていたけども、レミゼラブルもその部類に含めてもいいのではないかと思えた。そう思うと、いわゆる伝記はルポルタージュノベルだと考えてもいいのではないかと思えてきた。なるほど。源氏物語、とりかえばや、伴大納言絵巻、平家物語も似た部類だ。確かにそれらは現実に起こったことを忠実に書いていないという点でルポルタージュではないのだが、歴史的な背景を忠実に再現してくれているのであれば、ルポルタージュノベルの一種と言っていいのではないだろうか。ルポルタージュノベルライク(reportage novel-like)としようかしら。ルポルタージュ・ノベロイド(reportage noveloid)の方が響きが素敵だ。物語は常に人の手を隔てるため、フィクションになる。それは、どれだけ忠実にレポートしてみせても同じものができることはない。人の目は二つしかないのだから。もちろん、物語の背景すらフィクションである場合もある。現代は著作権の問題もあるため仕方ないのかもしれない。パロディというかオマージュというか、誰が見てもすぐわかるというようなものの形容をしている場合は後世のやくにたつかもしれない。刃牙に出てくる安倍晋三やバラク・オバマがそうだ。
レ・ミゼラブルに出てくるこのワーテルローの戦いはどこまでが真実なのだろうか。さて、もう一つの疑問はそもそも真実である必要があるのだろうか。ワーテルローの戦いとはフランス対イギリス・オランダ連合軍で、フランスが惨敗し、ナポレオンのセントヘレナ流刑の経緯となったというだけで十分ではないだろうか。そう思うと、その内容がいかに脚色されていても許される。
 
とりあえず、そのワーテルローの戦いの最後にテナルディエが出現し、彼を出現させるためだけに長々と話してきたと言っても良い。そして、テナルディエは非常に重要な立ち位置を占めている。小説としてユゴーの才能をまざまざと見せられる。
そして、とうとうコゼットとヴァルジャンの邂逅。コゼットの悲惨な幼少期は想像はされていたが、映画ではほとんどカットされていたため、コゼットは客寄せパンダ化していたが、第二巻を経るとその印象は払拭される。どれだけ悲惨な八歳までの時間を過ごしてきたか。それこそ栄養失調などで死んでしまっていてもおかしくないほどだ。映画ではエポチーニが悲劇のヒロインとなっているし、彼女のon my ownは大変魅力的で大好きではあるが、コゼットの凍えた足、打撲痕、正気のない眼、身寄りもなく、テナルディエにこき使われる毎日、声に怯え、居場所はなく、暖まることもできず、遊ぶこともできず、人生とはなんなのかわからなくなる。暗く閉ざされた毎日に同情してしまう。
そこに現れる救世主のようなジャン・ヴァルジャン。
ドグラ・マグラ
夢野久作
 
日本三大奇書というドグラ・マグラ。読むと精神がおかしくなるとかならないとか、意味不明な前振りをいただいていた。前々から読もうと思っていたが、読もうと思った原因は上記の記載であり、読んでいなかった理由はそれよりも読みたい本が多かったからだ。
BSLの実習で学生が読んだと聞いて、読もうと思った。常に人に影響を受ける人生である。
さて、内容についてだが、まず、一言伝えておきたいのは、読みにくくないということ。それから、割と普通の内容だったということ。この二点を伝えておく必要がある。
まず、結論からだが、特にこれといって。
多分読み終わるのに時間がかかりすぎたんだろう。冷血を読んだ時と同じで、前提というか内容を忘れている感じだった。そこの箇所だけでもまるで重要なシーンのようで教育的な昔の啓蒙本(レミゼとか魔の山とか)と違って、その一部分だけを読んでも重要な教育を受けている感じはない。というか、それは、自分自身の背景にあって、自分自身が神経内科、神経科学者であるから、精神とは?脳とはを理解しようと勤めているせいで、そういった思想に抵抗ができている空だろう。それを具体例なく述べ連ねられてもポカンである。
心理遺伝というものについて、夢想しておく。本筋の結末については、僕はそうだね、そういう結論になるよねと割と初期から思っていたが、どうなのだろう。
心理遺伝はあるのか?ドグラ・マグラが創作されて80年の時を経て、その答えは実は出ていない。もし仮に、今自分が考えている心理が遺伝するとすれば、口承伝達の中世と印刷が発明されてからの人間の発達の乖離についてどう説明するつもりだろうか。なぜ、心理は遺伝するにも関わらず発達しなかったのだろうか。遺伝の性質についても考える。現在の通説では、4つの核酸が30億個連なったゲノムというものがまず、始まりにある。そこから、どのタンパク質を作成するか、つまりはどこのゲノムを読み取るかが偶発的におきている。ゲノムには、目とか鼻とか肺とかいった器官形成のための情報がある。大きくは、人間で有る限り、これらの情報に大きな変化はない。ゲノムは所詮核酸で、その核酸は塩基、糖、リン酸から形成され、その組み合わせが膨大なだけである。しかし、そのほかの哺乳類との相同性を考えると、マウスゲノムは25億の塩基対で、ヒトゲノムの29億塩基対と比較して短くできている。遺伝子はほぼ人と同じである。人の中ではそれほど大きな違いは生じていないはずである。単純な身体的特徴を
 
難しい。また、今度・・・
 
さてと、改めて、ドグラ・マグラを考察する。九大精神科病棟7号室で目を覚ました自分の名前を忘れてしまった男性。彼に対して妻だと言い張るモヨコという女性。法医学者若林は、彼の記憶?を戻そうと順を追って説明する。
肝は、心理遺伝。潜在的に押し込められた先祖の意識?があることをきっかけに発露し、人を狂人たらしめる。天才精神科正木と間接的に若林はその理論を立証するために、呉一郎の母親との子供に意識の隔世遺伝を試みる。そして、妻を殺し、写生した呉青秀。妻の名前はモヨコといい、自分を妻と言い張るモヨコは呉青秀に殺された過去のモヨコの生き写しである。呉家の男児?は、呉青秀が描いた絵巻物を見ると、過去の心理が表出し、狂人となる。なんだか間違えて記憶しているような気もする。
 
荒唐無稽なストーリーを真実であるように描ききることが作家として重要であろう。無理やり世界はこうなっていると説明されると、僕はいつも作者の都合により登場人物が動かされている物語と評価する。作者の都合で人々が動き出すと、物語の人の上にうっすらと糸が見え、さらに目をこらすと、奥に著者という神様が見える。そうなると物語は味気ないものとなる。性格を統一して描写することが物語の簡単な方法であり、それを第三者視点、つまり神視点で記載しておくと、もっと味気ない文章が出来上がる。「ファミリーレストランで働く彼女は、内向的でバイト仲間とは馴染めず、それよりも一人で物思いにふけることが好きな可愛らしい女性だ」。もちろん、ある文脈ではこれらの説明文も有効である、しかし、使いすぎることはよくない。彼女の性格は、彼女の行動や思考から読み取られるはずである。そもそも、性格というものは自分でも社交的であり内向的であるという相反する感情が入り乱れるのが常であると信じているため、常に社交的であるという人間は人間らしくない。同様に、愛についても常に一人の女性を愛している、疑う余地もない、何があっても愛しているという登場人物は作者の都合で作られた愛の化身であり、偽物のように見える。そのため、ほとんどの物語の人物は他価性を有している。一人称形式で物語が展開される場合、その心情や相手の行動の解釈には、著述する人物のその時の心情が写し出されるため、真実と異なっている可能性があることを考えなければならない。気持ちは他人に慮られてもそれが正しいとは限らない。そのため、一人称物語で、彼女は恥ずかしがったというように内面を表現することは厳密には正しくなく、彼女は恥ずかしいのだと主人公は考えたということが正しい。となると、彼女は本当に恥ずかしかったのかどうかは定かではない。そこで、彼女の行動に焦点を当てることを主とした作家も存在する。確か、ロスト・ジェネレーションだったと思う。ヘミングウェイとか。忠実に何が起きているかだけを記載する。そうすると、その行動の解釈は読者に委ねられる。描出力が重要となる。なかなか難しい問題だ。二人の男女が向かい合って座っている。男性は、片手にスマホを持ち、何やら画面を凝視している。彼女は身振り手振りを交え、男にやかましく何やら説明している。というように記載すると、なんとなく男は女の話に興味がないのではないかという推測がされる。男はつまらなさそうにというように心理を推測する言葉が間に挟まれることもあり、そうなると、つまらないのだというように読者は錯覚させられる。本当につまらないのかどうかは定かではない。
しかし、現実には、文章を作ることは大変難しく、内的描写のない表現はあまり見ない。どんどん文学も進歩していくと、人間の行動は、内面と結びついているように教育されていく。
しきりに髪をいじる。腕時計に目をやる。足を組み直す。下をむく。こういった表現はネガティブな印象を読者に与える。現実で考えると確かにこれらのことを行う人は、相手に対していい印象を持っていないのだろうと推測される。逆に、目を凝視する。時々、相槌をうつ。といった好意的行為も存在する。さて、しかし、学習が過ぎた彼らは騙すということはないのだろうか。つまらないけども楽しそうに振る舞う。興味はないけども興味があるように「それは面白いですね」と答える。美味しくない料理をゆっくりと味わって食べる。そういったことは存在しないのだろうか。いや、存在するように思う。そもそも、描写するある視点からは、その行為の読み違えも存在するだろうし、正しい表現が必ずしもされているとは限らない。ある視点からは、「しおらしく反省している」ように見える男子学生は、ある視点からは、「反省を全くせず、人の話を聞いていない」ようにも見えることが現実にはある。ある秘書はすでに精神的ストレスに打ちのめされているとしても、それが外に表出しないこともあるし、表出していても受け取り手によって認知されないこともある。物語ではどうあるべきか、曖昧模糊に矛盾を表現すると、読者は混乱し文章として成り立たないのだろうか。多点描出法を持ち込んで、同時に書くことはできるだろうか。
住野よるが、「かくしごと」の中で、登場人物五人程度の心情をある一つのシチュエーションで描出しており、それはただ、五人の心情が無理やり作られていたため、自分は酷評したが、その手法を用いて、他人の心情推理をすれば、いかに心情推理と本人の心情が矛盾しているか、行動と内面の不一致が生じているかを記載することができるのではないだろうか。と、同時に、いかに一致が起きているかも表現することができるようにも思う。さて、どのような塩梅で一致と不一致を織り成すか。人によって違う。それも、人と人によって違う。つまりは、興味がある人間や物事に対しては、知識がある背景に対しては、より似通った推理ができるのに対しては、無関心、知識不足の場合には、合致率は低下するように思う。これは、理にかなっているように思うけどもどうだろうか。ということは、登場人物のそれぞれにおける多点描出法を用いて、彼らの推理がいかに間違っているかを記載すれば、いかに男が女に騙され、おべっかやお世辞に一喜一憂してしまっているかも描くことができそうだ。真実がうやむやになり、本人ですらも自己の心理的状態と行動の乖離により混乱するかもしれない。
キーボードを叩く。それもすごく早い速度で。コーヒーカップはもうすでに空になっており、底に膜を張っていた薄い残りかすは既に気化している。ウェイトレスが来店時と同時に持ってきたお冷やを入れたコップは、机の上の小さな水たまりの上に乗っており、一口も口をつけられていないそれの表面には水滴がたくさん付いていたが、今は全て水たまりに吸収されていた。傍に置いてあるおしぼりの水分も、コーヒーの水分も、何もかもがそこに集約してしまったようだ。
と記載すると、なんだか、彼は、熱心に何やらキーボードで行なっていることがわかるような気がする。でも、それは、本当にそうかはわからないし、自分の内面はまったくそんなことはなく、好きな飲み物がないだけかもしれないし、わからない。
 
さてと、ドグラ・マグラは非常に有名なので、読んだことがある人も非常に多い。感想文も論評も多い。色々な受け取り方を皆がしている。自分もその一人である。本は、内容を作成した著者が最も重要なファクターである。疑う余地はない。だがしかし、装丁、絵、自体、字と字の空間、解説、読者の感想。それら全てによって、今のドグラ・マグラは存在している。特にネット社会のこのご時世。まとめサイトやらブログやらで他人の意見が先に入ることも多く、それらがドグラ・マグラとはなんであるかを規定することが多い。意見の不一致は、そういった情報源の差異を一因としている。もっと深くいうと、どういった状況で誰が読むか。それにより感想も異なる。高校生の時に読む本と、今読む本は内容が異なるのは、背景知識と心理の違いである。
あー、これは、絵画も同様である。好きな絵画というものは真には存在しない。もしも存在しているとしたら、それは知っている絵画の数が少ないか、同質の感情しか持ち合わせていないかである。後者の可能性は0なので、ある種の感情を持っている時しか絵画を想わないからということが答えになるように思う。絵画を考えた時には常に幸せな穏やかな時である、とすれば、フラゴナールやブーシェが好きかもしれない。なので、僕自身、ドグラ・マグラを読んだ後で、このエロチシズムで怪奇的な表紙を見ていると、シーレの絵を思うし、線のタッチはなんとなくビアズリーのように見えるしで、シーレの絵を考えるけども、同時に嫌悪感があって、むしろ可愛らしいスルバランやムリーニョのマリアを考えたりもする。
愛に飢えるか、愛は充足しているか。心は満たされているか。こういった自分の心的状態を察知するのに絵は都合がいいし、文章も同じ。もちろん、人と話すことでも簡単に自己評価ができることがある。
 
そろそろ、本題の心理遺伝だが、やはり、心理遺伝というテーマに自分としては無理がある。性質は遺伝しうる。Mental retardationに関与している遺伝子はすでに報告されているし、寛容、怒りっぽさ、思慮の欠如など、環境要因も大いに影響しているだろうが、遺伝的要因がないとは言わない。前頭葉だけに限局したタンパク質が存在していいだろうし、脳の構成因子であるニューロンやグリアの細分化はまだできていないけども、ある種の層構造などからは、位置情報含めなんらかの細胞群ごとの差異があってもおかしくない。それは、遺伝子によって型作られているので、あー、というと、遺伝子というのは便利な言葉で、環境要因ですら、本当は遺伝的要因というべきかもしれない。例えば、喫煙。これですら、喫煙に対する感受性の亢進か低下かどちらでも良いが、なんらかの違いがあるから、喫煙する人としない人ができるという結果でもいい。元々人間には嫌われやすい匂いがあるとしても、それを常に嗅ぐという行為によって、馴化が生じ、つまりは馴化もある種のタンパクの発現で嫌悪感を現象しているだけかもしれない。長期抑制が起こるという理論でもいい。伝わりが悪くなれば、馴化しそうである。そして、それをしているのはタンパク質であり、紛れもなく発端は遺伝子である。ということで、環境要因ですらもおおもとは遺伝子ですと言い出すと、なんでもありになるので、あるところからは遺伝子とは言わないということもできる。なかなかこれは難しい。
性質は遺伝する。それが狭義の環境要因ではないというにはどうすればいいか。本人へのアンケートではバイアスが多い。行動による評価は環境や教育が大いに影響する。孤児で評価するのが良さそうに思うけど、それも結局環境要因になりそうな・・・。答えが出ないので、心理遺伝にあえて異は言わない。でも、行動が同じになるというのはどうだろう。同じように妻を殺す、こんなことができるのかしら。ドグラ・マグラを読んでもここが理解できない。
I can not sleep anymore. 
I muttered on the board. I repented that I did not use my energy in advance. 
The statements of Finnair tells that the arriving time will be 8:20 of the country where we will arrive. It just takes only 8 hours from here. I was very surprised since I thought it had must took more than 12 hours. 
I misunderstood, because the ongoing flight was from Osaka to Stockholm via Helsinki, after that, leaving to Paris. It took more than 12 hours of all. Besides, time difference is not calculated correctly. 
As a results, I can not get asleep then.
First a few hours, I spent my time studying, memorizing english vocabulary with writing down many examples to be used. At last, I d like to go sleep, but could not.
I scanned the channels of airplane on free, I found Aladdin broadcasted 2019 can be one of the entertainments that Finnair provided. I enjoyed it with English subtitles and spoken English.

The content has alreadly familiar to most Japanese people like me. Aladdin was just a person to thieve something in Pysila, He happened to get a magic lamp to summon Jimme, who is the god of lamp. He told Alladin, “ I can archive your wishes, only three wishes.” First, Alladin told him to wish to escape from the cave. That was a peace of cake. It was accomplished as soon as they can. Second, he wised to become a prince, because he would like to marry **. princess of his country. His appearance altered to a prince  However, his mental. internal nature were not be changed. His un-polite, un-sophisticated, rude behaiviour made her dissapointted at first. After travelling on the magic carpet to look around the whole new world that he already knew but she has never seen, they are fallen love and decide to marry. At that time, Jimme persuaded Alladin to tell her the truth that he was actually not a prince, but just a poor man. The lies will invade your happy life. How long will you lie to her? Alladin answered this question. “So, I need you forever.” 
All I watched and listened to was by English. So, I was not confident to catch all matters from detail to rough. Feelings that Alladdin consider Jimmee to ask his dreams. Jimmee’s dream is to be free from the curse of lamp, and become a human-beings. 
That important wish came true after Alladin broke down his enemy. 

I thought that Alladin is the person who has a real human feelings as well as us. His confusion is easiliy understood.