レ・ミゼラブル 2 | CACHETTOID

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一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

レ・ミゼラブル 2
ユゴー
佐藤 朔 訳
 
皆が指摘するワーテルローの戦いと修道院についての長い長い説明。これによって心が折れるなんて誰が言ったのか。
全くそんなことはなかった。確かに長いことは認める。そして、本筋とはなんの関係もない。
それはユゴーも認める通りである。歴史について、自分はあまりにも無知なので、ウェリントンさん初めましてだし、読んでもなかなか理解できていないけども、それでも少しだけワーテルローの戦いに興味を持てたことはすごくいいことだ。
修道院についても同様。本を通すと、本当にそのことが事実なのか、事実に似通っているのかを認識しないと大きな間違いをしうる。もちろん、ヴァルジャンのような男が存在しなかったことは明白である。しかしながら、似たような境遇の男は存在していたのだろうと思える。文学史としては、ルポルタージュノベル、ノンフィクションノベルの代表はカポーティの冷血だと思っていたけども、レミゼラブルもその部類に含めてもいいのではないかと思えた。そう思うと、いわゆる伝記はルポルタージュノベルだと考えてもいいのではないかと思えてきた。なるほど。源氏物語、とりかえばや、伴大納言絵巻、平家物語も似た部類だ。確かにそれらは現実に起こったことを忠実に書いていないという点でルポルタージュではないのだが、歴史的な背景を忠実に再現してくれているのであれば、ルポルタージュノベルの一種と言っていいのではないだろうか。ルポルタージュノベルライク(reportage novel-like)としようかしら。ルポルタージュ・ノベロイド(reportage noveloid)の方が響きが素敵だ。物語は常に人の手を隔てるため、フィクションになる。それは、どれだけ忠実にレポートしてみせても同じものができることはない。人の目は二つしかないのだから。もちろん、物語の背景すらフィクションである場合もある。現代は著作権の問題もあるため仕方ないのかもしれない。パロディというかオマージュというか、誰が見てもすぐわかるというようなものの形容をしている場合は後世のやくにたつかもしれない。刃牙に出てくる安倍晋三やバラク・オバマがそうだ。
レ・ミゼラブルに出てくるこのワーテルローの戦いはどこまでが真実なのだろうか。さて、もう一つの疑問はそもそも真実である必要があるのだろうか。ワーテルローの戦いとはフランス対イギリス・オランダ連合軍で、フランスが惨敗し、ナポレオンのセントヘレナ流刑の経緯となったというだけで十分ではないだろうか。そう思うと、その内容がいかに脚色されていても許される。
 
とりあえず、そのワーテルローの戦いの最後にテナルディエが出現し、彼を出現させるためだけに長々と話してきたと言っても良い。そして、テナルディエは非常に重要な立ち位置を占めている。小説としてユゴーの才能をまざまざと見せられる。
そして、とうとうコゼットとヴァルジャンの邂逅。コゼットの悲惨な幼少期は想像はされていたが、映画ではほとんどカットされていたため、コゼットは客寄せパンダ化していたが、第二巻を経るとその印象は払拭される。どれだけ悲惨な八歳までの時間を過ごしてきたか。それこそ栄養失調などで死んでしまっていてもおかしくないほどだ。映画ではエポチーニが悲劇のヒロインとなっているし、彼女のon my ownは大変魅力的で大好きではあるが、コゼットの凍えた足、打撲痕、正気のない眼、身寄りもなく、テナルディエにこき使われる毎日、声に怯え、居場所はなく、暖まることもできず、遊ぶこともできず、人生とはなんなのかわからなくなる。暗く閉ざされた毎日に同情してしまう。
そこに現れる救世主のようなジャン・ヴァルジャン。