ドグラ・マグラ | CACHETTOID

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Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

ドグラ・マグラ
夢野久作
 
日本三大奇書というドグラ・マグラ。読むと精神がおかしくなるとかならないとか、意味不明な前振りをいただいていた。前々から読もうと思っていたが、読もうと思った原因は上記の記載であり、読んでいなかった理由はそれよりも読みたい本が多かったからだ。
BSLの実習で学生が読んだと聞いて、読もうと思った。常に人に影響を受ける人生である。
さて、内容についてだが、まず、一言伝えておきたいのは、読みにくくないということ。それから、割と普通の内容だったということ。この二点を伝えておく必要がある。
まず、結論からだが、特にこれといって。
多分読み終わるのに時間がかかりすぎたんだろう。冷血を読んだ時と同じで、前提というか内容を忘れている感じだった。そこの箇所だけでもまるで重要なシーンのようで教育的な昔の啓蒙本(レミゼとか魔の山とか)と違って、その一部分だけを読んでも重要な教育を受けている感じはない。というか、それは、自分自身の背景にあって、自分自身が神経内科、神経科学者であるから、精神とは?脳とはを理解しようと勤めているせいで、そういった思想に抵抗ができている空だろう。それを具体例なく述べ連ねられてもポカンである。
心理遺伝というものについて、夢想しておく。本筋の結末については、僕はそうだね、そういう結論になるよねと割と初期から思っていたが、どうなのだろう。
心理遺伝はあるのか?ドグラ・マグラが創作されて80年の時を経て、その答えは実は出ていない。もし仮に、今自分が考えている心理が遺伝するとすれば、口承伝達の中世と印刷が発明されてからの人間の発達の乖離についてどう説明するつもりだろうか。なぜ、心理は遺伝するにも関わらず発達しなかったのだろうか。遺伝の性質についても考える。現在の通説では、4つの核酸が30億個連なったゲノムというものがまず、始まりにある。そこから、どのタンパク質を作成するか、つまりはどこのゲノムを読み取るかが偶発的におきている。ゲノムには、目とか鼻とか肺とかいった器官形成のための情報がある。大きくは、人間で有る限り、これらの情報に大きな変化はない。ゲノムは所詮核酸で、その核酸は塩基、糖、リン酸から形成され、その組み合わせが膨大なだけである。しかし、そのほかの哺乳類との相同性を考えると、マウスゲノムは25億の塩基対で、ヒトゲノムの29億塩基対と比較して短くできている。遺伝子はほぼ人と同じである。人の中ではそれほど大きな違いは生じていないはずである。単純な身体的特徴を
 
難しい。また、今度・・・
 
さてと、改めて、ドグラ・マグラを考察する。九大精神科病棟7号室で目を覚ました自分の名前を忘れてしまった男性。彼に対して妻だと言い張るモヨコという女性。法医学者若林は、彼の記憶?を戻そうと順を追って説明する。
肝は、心理遺伝。潜在的に押し込められた先祖の意識?があることをきっかけに発露し、人を狂人たらしめる。天才精神科正木と間接的に若林はその理論を立証するために、呉一郎の母親との子供に意識の隔世遺伝を試みる。そして、妻を殺し、写生した呉青秀。妻の名前はモヨコといい、自分を妻と言い張るモヨコは呉青秀に殺された過去のモヨコの生き写しである。呉家の男児?は、呉青秀が描いた絵巻物を見ると、過去の心理が表出し、狂人となる。なんだか間違えて記憶しているような気もする。
 
荒唐無稽なストーリーを真実であるように描ききることが作家として重要であろう。無理やり世界はこうなっていると説明されると、僕はいつも作者の都合により登場人物が動かされている物語と評価する。作者の都合で人々が動き出すと、物語の人の上にうっすらと糸が見え、さらに目をこらすと、奥に著者という神様が見える。そうなると物語は味気ないものとなる。性格を統一して描写することが物語の簡単な方法であり、それを第三者視点、つまり神視点で記載しておくと、もっと味気ない文章が出来上がる。「ファミリーレストランで働く彼女は、内向的でバイト仲間とは馴染めず、それよりも一人で物思いにふけることが好きな可愛らしい女性だ」。もちろん、ある文脈ではこれらの説明文も有効である、しかし、使いすぎることはよくない。彼女の性格は、彼女の行動や思考から読み取られるはずである。そもそも、性格というものは自分でも社交的であり内向的であるという相反する感情が入り乱れるのが常であると信じているため、常に社交的であるという人間は人間らしくない。同様に、愛についても常に一人の女性を愛している、疑う余地もない、何があっても愛しているという登場人物は作者の都合で作られた愛の化身であり、偽物のように見える。そのため、ほとんどの物語の人物は他価性を有している。一人称形式で物語が展開される場合、その心情や相手の行動の解釈には、著述する人物のその時の心情が写し出されるため、真実と異なっている可能性があることを考えなければならない。気持ちは他人に慮られてもそれが正しいとは限らない。そのため、一人称物語で、彼女は恥ずかしがったというように内面を表現することは厳密には正しくなく、彼女は恥ずかしいのだと主人公は考えたということが正しい。となると、彼女は本当に恥ずかしかったのかどうかは定かではない。そこで、彼女の行動に焦点を当てることを主とした作家も存在する。確か、ロスト・ジェネレーションだったと思う。ヘミングウェイとか。忠実に何が起きているかだけを記載する。そうすると、その行動の解釈は読者に委ねられる。描出力が重要となる。なかなか難しい問題だ。二人の男女が向かい合って座っている。男性は、片手にスマホを持ち、何やら画面を凝視している。彼女は身振り手振りを交え、男にやかましく何やら説明している。というように記載すると、なんとなく男は女の話に興味がないのではないかという推測がされる。男はつまらなさそうにというように心理を推測する言葉が間に挟まれることもあり、そうなると、つまらないのだというように読者は錯覚させられる。本当につまらないのかどうかは定かではない。
しかし、現実には、文章を作ることは大変難しく、内的描写のない表現はあまり見ない。どんどん文学も進歩していくと、人間の行動は、内面と結びついているように教育されていく。
しきりに髪をいじる。腕時計に目をやる。足を組み直す。下をむく。こういった表現はネガティブな印象を読者に与える。現実で考えると確かにこれらのことを行う人は、相手に対していい印象を持っていないのだろうと推測される。逆に、目を凝視する。時々、相槌をうつ。といった好意的行為も存在する。さて、しかし、学習が過ぎた彼らは騙すということはないのだろうか。つまらないけども楽しそうに振る舞う。興味はないけども興味があるように「それは面白いですね」と答える。美味しくない料理をゆっくりと味わって食べる。そういったことは存在しないのだろうか。いや、存在するように思う。そもそも、描写するある視点からは、その行為の読み違えも存在するだろうし、正しい表現が必ずしもされているとは限らない。ある視点からは、「しおらしく反省している」ように見える男子学生は、ある視点からは、「反省を全くせず、人の話を聞いていない」ようにも見えることが現実にはある。ある秘書はすでに精神的ストレスに打ちのめされているとしても、それが外に表出しないこともあるし、表出していても受け取り手によって認知されないこともある。物語ではどうあるべきか、曖昧模糊に矛盾を表現すると、読者は混乱し文章として成り立たないのだろうか。多点描出法を持ち込んで、同時に書くことはできるだろうか。
住野よるが、「かくしごと」の中で、登場人物五人程度の心情をある一つのシチュエーションで描出しており、それはただ、五人の心情が無理やり作られていたため、自分は酷評したが、その手法を用いて、他人の心情推理をすれば、いかに心情推理と本人の心情が矛盾しているか、行動と内面の不一致が生じているかを記載することができるのではないだろうか。と、同時に、いかに一致が起きているかも表現することができるようにも思う。さて、どのような塩梅で一致と不一致を織り成すか。人によって違う。それも、人と人によって違う。つまりは、興味がある人間や物事に対しては、知識がある背景に対しては、より似通った推理ができるのに対しては、無関心、知識不足の場合には、合致率は低下するように思う。これは、理にかなっているように思うけどもどうだろうか。ということは、登場人物のそれぞれにおける多点描出法を用いて、彼らの推理がいかに間違っているかを記載すれば、いかに男が女に騙され、おべっかやお世辞に一喜一憂してしまっているかも描くことができそうだ。真実がうやむやになり、本人ですらも自己の心理的状態と行動の乖離により混乱するかもしれない。
キーボードを叩く。それもすごく早い速度で。コーヒーカップはもうすでに空になっており、底に膜を張っていた薄い残りかすは既に気化している。ウェイトレスが来店時と同時に持ってきたお冷やを入れたコップは、机の上の小さな水たまりの上に乗っており、一口も口をつけられていないそれの表面には水滴がたくさん付いていたが、今は全て水たまりに吸収されていた。傍に置いてあるおしぼりの水分も、コーヒーの水分も、何もかもがそこに集約してしまったようだ。
と記載すると、なんだか、彼は、熱心に何やらキーボードで行なっていることがわかるような気がする。でも、それは、本当にそうかはわからないし、自分の内面はまったくそんなことはなく、好きな飲み物がないだけかもしれないし、わからない。
 
さてと、ドグラ・マグラは非常に有名なので、読んだことがある人も非常に多い。感想文も論評も多い。色々な受け取り方を皆がしている。自分もその一人である。本は、内容を作成した著者が最も重要なファクターである。疑う余地はない。だがしかし、装丁、絵、自体、字と字の空間、解説、読者の感想。それら全てによって、今のドグラ・マグラは存在している。特にネット社会のこのご時世。まとめサイトやらブログやらで他人の意見が先に入ることも多く、それらがドグラ・マグラとはなんであるかを規定することが多い。意見の不一致は、そういった情報源の差異を一因としている。もっと深くいうと、どういった状況で誰が読むか。それにより感想も異なる。高校生の時に読む本と、今読む本は内容が異なるのは、背景知識と心理の違いである。
あー、これは、絵画も同様である。好きな絵画というものは真には存在しない。もしも存在しているとしたら、それは知っている絵画の数が少ないか、同質の感情しか持ち合わせていないかである。後者の可能性は0なので、ある種の感情を持っている時しか絵画を想わないからということが答えになるように思う。絵画を考えた時には常に幸せな穏やかな時である、とすれば、フラゴナールやブーシェが好きかもしれない。なので、僕自身、ドグラ・マグラを読んだ後で、このエロチシズムで怪奇的な表紙を見ていると、シーレの絵を思うし、線のタッチはなんとなくビアズリーのように見えるしで、シーレの絵を考えるけども、同時に嫌悪感があって、むしろ可愛らしいスルバランやムリーニョのマリアを考えたりもする。
愛に飢えるか、愛は充足しているか。心は満たされているか。こういった自分の心的状態を察知するのに絵は都合がいいし、文章も同じ。もちろん、人と話すことでも簡単に自己評価ができることがある。
 
そろそろ、本題の心理遺伝だが、やはり、心理遺伝というテーマに自分としては無理がある。性質は遺伝しうる。Mental retardationに関与している遺伝子はすでに報告されているし、寛容、怒りっぽさ、思慮の欠如など、環境要因も大いに影響しているだろうが、遺伝的要因がないとは言わない。前頭葉だけに限局したタンパク質が存在していいだろうし、脳の構成因子であるニューロンやグリアの細分化はまだできていないけども、ある種の層構造などからは、位置情報含めなんらかの細胞群ごとの差異があってもおかしくない。それは、遺伝子によって型作られているので、あー、というと、遺伝子というのは便利な言葉で、環境要因ですら、本当は遺伝的要因というべきかもしれない。例えば、喫煙。これですら、喫煙に対する感受性の亢進か低下かどちらでも良いが、なんらかの違いがあるから、喫煙する人としない人ができるという結果でもいい。元々人間には嫌われやすい匂いがあるとしても、それを常に嗅ぐという行為によって、馴化が生じ、つまりは馴化もある種のタンパクの発現で嫌悪感を現象しているだけかもしれない。長期抑制が起こるという理論でもいい。伝わりが悪くなれば、馴化しそうである。そして、それをしているのはタンパク質であり、紛れもなく発端は遺伝子である。ということで、環境要因ですらもおおもとは遺伝子ですと言い出すと、なんでもありになるので、あるところからは遺伝子とは言わないということもできる。なかなかこれは難しい。
性質は遺伝する。それが狭義の環境要因ではないというにはどうすればいいか。本人へのアンケートではバイアスが多い。行動による評価は環境や教育が大いに影響する。孤児で評価するのが良さそうに思うけど、それも結局環境要因になりそうな・・・。答えが出ないので、心理遺伝にあえて異は言わない。でも、行動が同じになるというのはどうだろう。同じように妻を殺す、こんなことができるのかしら。ドグラ・マグラを読んでもここが理解できない。