さて、夜のロイヤルホストで、記録を残そうかと思うけども、PCの電源はすでに20%となっている。忙しいゴタゴタで充電するのを忘れていた。
山村コレクションは、西宮の実業家山村それがしが集めた前衛芸術を一挙に展示した展覧会だ。
時代はpost-war art history.
津高和一の母子像をきっかけに山村は美術品収集を始める。母子像は線でできたおおらかな母が華奢な子供をおおう構図になっており、個人的にはジョアン・ミロを連想させる。
線による表現のみで親が子をおもう気持ちまでもが表現されており、一種のミニマリズムもその中に感じる。色彩の自由、線描の自由、自由から画家は抜け出し、前衛、アバンギャルドと言われるようになったように感じる。
吉原治良は、そのアバンギャルドの親玉みたいなもので、斎藤義重と九室会を新設した。具体美術の代表である。もう、絵は何が意味されているか分からない。読み取れない。
そのあとも須田剋太(縄文記号)が出て来て、麻の布を使用されたアサンブラージュみたいになるけど、もう意味不明になる。
意味を見出そうとしても意味がなくなる。それすら、作者の意味づけに踊らされているようにもおもうけども。
津高の作品は続く。
電動、血縁、、、
斎藤義重のペンチは可愛らしい。意味がわかる。デザイン性があって、ストックホルムから帰ってきた自分の懐にすとんと落ちて消化される。なんだか、ありそうな絵だ。BBCのart showでイギリスの現代芸術家の椅子が展示されていたけども、それと似たような印象を抱いた。
宇佐美圭司。
Abstruct, 大きな画面に繰り返し現れる文様?
オノサトトシノブ
optic artみたいな錯視を取り入れた大きな絵。
山口長男
座
これは、ミニマリズムに近い。
そして、
白髪一雄。彼の絵は、フットペインティングで、意味不明なことに天井にぶら下がりながら足で絵を書いた。action paintingの一種だろうけども、意味を絵から感じることができる。難しい、中二病のようなタイトルになんとなく漢字からの雰囲気が図とマッチする。
なんと表現したらいいかは語彙力がなくて恥ずかしながらできないけど、暴力?そんな雰囲気がある。
そして、意味のなさそうな中に見える、線、点、色の組み合わせ。非常に構成されたようにも見えてくる。
元永定正
ここから元永ロードができる。元永定正のアトリエまで、山村は車を走らせ、それを元永ロードと読んで喜んだらしい。
一見すると、汚らしい絵に見えるが、よく見ると、色調の構成が取れており、黄色、赤と並んでいることがわかる。他の絵はえほんの挿絵にもなるほど、綺麗なグラデーションの効いた絵が並ぶ。
今井俊満
1952年に渡仏し、ミシェル・タピエに師事、アンフォルメルを日本に伝える。
西洋美術館にあるジョアン・ミロのあの有名な絵も山村コレクションの一つらしい。
篠原有司男
女の祭り
歌舞伎のような女のものを使った絵?
1966年 ドール・フェスティバルを開催。
吉原の有名な黒と白に似た、赤と青。似たというか、ほぼ構図は一緒。赤と青のボーダーには滲んだ違う色が含まれている。正直なんだこれという感じだけど、具象芸術協会はこんな絵ばっかり作っている。
荒川しゅうさく
養老天命反転地で有名。ダイアグラムで構成された絵は鑑賞者の視線を誘導してくる。なんとなく、デュシャンの花嫁に似ているような印象がある。
高松二郎、あのハイレッドセンターの一人。
影。すごく良い。写真で見ると影の印象がぼやけてあやふやになってしまうけど、現実で見る方がより影を感じる。現実と影の境に僕らは立っている。
彼は、実在と不在、認識と命名などの違いを追求しようとした。
中里斉
ミニマリズムのようななんか、白とみずいろでキャンパスを区切っただけ・・・
関根義夫
掘浩哉
四宮金一
shaped campusで作成された絵の中の立体は今では普通の絵のようにも見える。エッシャーと似た印象に感じるし、あの錯視で有名な人が中に入ると大きさが変わる箱(これは誰が作ったんだろう)の絵画バージョンのように見える。
ホルバインの大使たちと同様に、視点が変わると見え方が変わる。奥行きが変わって、現実の空間に絵の二次元が混じり込んだような、二次元の絵の中に入り込んでしまったようなそんな印象を受ける。現実と虚構の交換作業をしているような気分になる。しかし、絵の中の人間は剥がれて行く布のようで、幻想的な感傷となる。
1982年日本国際美術展で大賞受賞。
さて、彫刻。ちなみに時間が全く足りなかったので、大事で楽しかった彫刻は全然見れずじまい。ゆとりを持ってこなかったのが失敗だ。
八木一夫の初期の出発という作品で、これは山村家の玄関に飾られていたのだそう。
堀内正和
天に手を伸ばし、その中にさらに手があるという構図で、マトリョーシカ構造になっている。
関根伸夫のもの派
久野真
高橋秀
どんどん時間が足りなくなった。
もの派は、小清水すすむ
アルミニウムを使う九兵衛
リーウーファンの作品もあったようにおもうが記憶にない。写真にもとったとはおおうけど。
そして、田中敦子。
ストックホルムでたまたま田中敦子展覧会がたまたま行った日から開催されていて、Do you know her?と聞かれ、Im sorry, I dont と答えたけども、知っているべきだった。うーん。彼女の絵、ストックホルムで見たときはあまりに多くの絵があって、砂浜にひたすらと幾何学模様を書き続けるビデオアートは見ていると波の音に紛れて、自分の彼女をじっと眺めているだけになったが、意味はない。丸の中を通り抜けるような迷路のように行ったり来たりする線の集合。彼女の絵にはその系統が多かった。
向井しゅうじ
記号の部屋。圧倒される。
他にも前衛芸術家、おそらく現代も含む、をたくさん見たのだけど、時間が足りなかった。もっとゆとりを持って来訪すべきだった。まぁ、そもそも、行かないという選択よりも行ってよかったという気持ちが強いので良いということにする。
前衛、アバンギャルドというのはあまりいいイメージを自分は持っていない。なんだか、アウトサイダーアートと同じになって、教育を離れているイメージを受ける。それは、自分の教育の観念が高井先生から構成されているある種の呪縛なのだろうといつも感じる。被教育者としての経験は直に教育者としての展望に変換されるし、そうなったら、自分のやり方、やられかたを盲信して強制することになりうる。この頃は、Problem oriented approachを第一に考えることが一番なのではないかと強く思っているが、本当にそうなのかどうか、今一度根本から考える必要があるかもしれない。世界は、偶然と誤謬に満ち溢れており、嘘や冗談、忖度、外っつら、そういうものによって左右されることが多い。真に確かなことをすることよりも、いかに影響を与えるかと行った情報操作能力が問われることがあるし、コミュニケーション能力がその大部分を占めてしまうこともある。日本では、所詮神戸大学では、自分の発言力は確かに大きいように思える。自分の発言が通ることも多いような印象を受ける。しかし、根っこの方では、発言だけで周りを煽動、先導ではなく、することがいかに悪質なものか自分自身で実感する。同時にそういった人間を嫌悪する。日本人主義、欧米至上主義への反対、それにより、むしろ奥ゆかしさ、考えの深さを評価の高い部分に占めたいが、人の心は発言しなければ見えない、わからない、推測するしかないということで、積極性がない場合は理解していないと判断されるのも致し方がないとおもう。
日本では、なぜ、アウトプットが苦手とされるのか、それは単純に練習が足りない。なんでも練習が必要で、どんどん練習することで文章力も上がるし、考え方も上がる。言語能力と類似しており、適当に書いていてもいいわけではない。語彙力を上げるために他の文章もたくさん読まなければならないし、そう行って読んでいる中で、自分自身でも使えるとおもう表現や言い回しを学んで行かなければ行かない。これが学びである。教育である。その方法は、日々の生活にも適応され、お偉いさんの話し方、勉強の仕方、聞き方、物事の運び方、どれもが学びうる部分である。成長はその人自身によっている。1mm程度の進歩を進歩と呼べるか感度の違いである。
自分以外の全てが師。あぁ、いつも言っていることが同じような気がする。根本原理として取り入れたくなるくらい。このように当然だ間違いがないという定理は一度破壊する必要がある。破壊してもう一度再構成して見ることが重要だ。