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CACHETTOID

Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

 

何から書き始めようか。
日記を不得手とする人達がいう、なぜ日記を書かないのかという一番の原因というものを探ってみると、ともすれば内省してみると、それは内容の欠落ではないかと思う。
つまり、単調な日々を過ごすあまり、考えていることが常に同じとなり、書くことがないという状態に陥るということである。この自己存在の意義すら消失しうるような文句は自然過去の自分にも当てはまっていた。書きたいことが他にあるのでその過去の自分についての描写はおこなわず、先に進むこととしたいが、僕はこの理由として一つのことをどうしても述べておきたい。それは経済的余裕である。このtermが非常に重要な意味を帯びている。何かを考え実行するためにいくつかの必須なことが存在する。一つにモチベーションであり、もう一つはそれを実行するだけの余裕である。この余裕は経済面と実質的な時間と精神となどの複合要因によって形成される群である。
モチベーションというものは、自己によって内から湧き出て形成される場合もあるが、自発的である必要はさらさらなく、この短い人生経験から言わせてもらうと、むしろ他からの影響で持ち上がることの方が多い。なぜなら、自ずから生じる動機は心からしたいと思えるというトートロジックな性質上、実行にすでに到達していることが多いからだ。例えば食事や休息などに対するモチベーションは維持する必要性もないし、出てきたと同時に達成することは容易である。そのため、文化的な生活を営む上で生じる自己由来のモチベーションがあるにも関わらず、その実行が阻害されている場合、それはなんらかの余裕の欠落によるのではないかと思う。
実際、僕は大学生の頃から、いろいろなものを見たり経験したりしたいと思っていた。海外旅行に簡単に行ける友人やパラグライダーやダイビングなどの資本のいる事柄を平然とやれる人々を嫌悪していた。しかし、この嫌悪感は実際には嫌悪感ではなく、嫉妬だったということができる。その当時の僕の中の問題は経済的余裕のなさから生じていたと断言していたが、今思うと経済的余裕だけではなく時間的余裕も含まれていたと思う。というのも、現在前者が改善されてもパラグライダーやダイビングに魅力を感じないからである。さて、モチベーションを余裕の問題が解決されたとしても、行わないことと行うことがあることことを説明するには、ブルデューのいう通り、選好によるのだろうと思うし、この選好は経験と教育によってなされるものと信じている。
コロナウィルスが蔓延した昨年、僕は時間的ゆとりのある大学院生になった。そして、あらゆる考え方を考えることができる一方、ブルシット・ジョブに忙殺されていた昨年を実りない年と考えているし、それを強要してきた医局制度に憤激を抱いている。とにかく、今年度はインターネットの拡張ということが僕の中で起きた。インターネット自体は特に進歩していないし、会議やレクチャーがZOOMを用いたネット会議になったぐらいで社会的には大きな進歩はないのだろう。だが、YouTubeを使用するようになったことが一番大きい変化として僕に起こった。SNSを使用したということではない。誰とでもコミュニケーションをとっていいのだということと、自分以外が皆師であるという格言が首をあげて現れてきたのだ。旅は長かった。思い返すと、インターネットによる繋がる機会というのはこれまでも存在していた。初めの頃はホームページだった。何かを書くということがしたかった。だけども、この時は何を書きたいかわからず、何を発信できるのかわからなかった。それでサッカー部に所属していたのでサッカーチームをまとめてみたというクソどうでもいい仕事をしていた。ただ、自分に全く興味がなかったこともあり、長くは続かなかった。こういった不特定多数に向けての情報発信というアクティビティはいわゆるリアリティが充実している時には思いもよらないようで、高校生並びに大学5年生以降はやっていなかったように思う。大学生になり、当時流行っていたmixiとFacebookをみんながやっていたから手を出した。少し面白い現象が僕には生じていて、Facebookは現実空間の拡張にはならず、所詮は友達を違う方面から見るだけにとどまっていたし、このFacebookはmixiの後であったように思うから、結局SNSに日記のように情報をあげる面倒を知っており、あまり活動されていない。一方、mixiにはコミュニティなるものがあり、不特定多数の相手とともに共通の趣味を持っている人のグループというものが存在した。僕は今を持ってしても性善説に則っており、僕の名前をインターネットで検索すればすぐに顔も素性も知れるというのに、この脅威と悪意の塊であるかもしれないSNSというものを信じ切っており、顔なり姿なりを発信していた。当時から今にいたるまでファッションが好きだし、客観的に見て個性的であるため、そのコーディネートを載せることをよくやっていた。コーディネートには自分の顔も遠巻きながら見えるため、見た人からは安心感もあったのかmixiでメッセージをくれ、知り合いになった親友もいたりする。その後、社会人になり、なぜかよくわからないがSNSからは遠ざかっていたように思う。結婚を考えるようになり、pairsで様々な女性とやりとりをしているが、これをSNS的活動と取れば、持続して不特定多数とやりとりをしていることになる。しかし、pairsなどの婚活事業は自分自身のアウトプットには向いていないし、現実に出会う人々とのコミュニケーションよりも欺瞞に満ちたものではないだろうかと常々思い、その影響もあり、辟易しているのが事実である。というのも、実際に対面するのであれば、その為人が雰囲気や所作によって察せられるのであるが、このメッセージのやりとりではそうもいかない。当初は僕もこのSNSで出会う見ず知らずの人に気に入られるように現実よりも気を使っていたのだがそれが正しいことかよく分からなくなっている。この通常よりも気を使うという行為をすれば、ある程度異性に好感を持たれることは当然である。しかし、この行為は自分を欺くことになることを考えるべきである。例えば、自分が好まない行為を好いているとして、面と向かってであれば、その場で異を唱えても、弁解する余地も議論する余地もあるが、メッセージではそうもいかないので迎合するしかなくなる。しかし迎合することは偽りであるのでメッセージのやりとりもしにくくなる。つまり、選好が異なる人とはそもそもやりとりを行うことそれ自体が間違っているということが明確になってくるのである。この見地から、僕のように思想にまみれ常に学び、よくあろうと生きる人間は非常に稀で、そのような人は少なくともpairsにはいない。これを書きながら、選択する婚活サイトを間違えたのではないかとも思ってきたので、真剣に考える必要があろう。
さて、YouTubeやInstagram、Twitter(どれも横文字だな)の隆盛によって、人はある意味、身体的接続がない不特定多数で匿名な集団と関係を持つことができるようになった。これは心の準備をして精神的苦痛を免れるように前もって予防線を張ってさえいれば、非常に有効な手段であるのではないか。常々、昔と今を比較し、かの古き良き時代は知るべき教養の数がほとんどなかったと言ってもいいことを自覚する。当時を生きてきた古い人はそれを認識せずに、そして今の僕たちもより若い人をみて、古い人が僕らにいうのと同様に「僕らの時代も学ぶことが多かった、それも深く」などとほざくのだが、当然、時代が進歩すればするほど情報過多になっていることは間違いがない。GDPだって指数関数的に増え続けているではないか。しかも、その情報を取捨選択しないといけないという非常に難しい問題も浮き上がってきた。ともすれば、役に立たない戯言を学ぶことにもなりかねないし、いや、当然この心配は常に背後につきまとい身をかこい、そして自分自身はそれが絵空事で嘘なのだということは認識できないでいることが多々ある。この事象はかの有名な科学論文Nature誌ですらそうなのだ。なんの校閲も査読も介さないインターネット情報や個人出版の本などはなおさらであろうと思う。さて、では、この取捨選択の技術を自ら学んでいかなければならないわけであるが、どう学ぶか。やはり失敗を重ねるしかないのではないかと思うし、研究者からすれば、やはり一応は査読付き著書や権威ある書物を一とする。これは相対性の話である。実際に書き物をしている身からすると、査読なんて形骸化しているという批判も受ける。とすれば、価値というものはやはり情熱、うちから溢れてくる善人の熱意によって表されるべきではないかと思うけども、この理論はマルクスの資本論からすると間違っているようにも思う。労働者はそれぞれの労働をブルシット・ジョブと関連付けているのかどうか、ブルシット・ジョブと創案と実行の不一致は並行するのか、クリエイティビティは常に個人ないしはその集団の自主性から創造されるのか。この疑問を答える必要があり、この疑問に対する答えが、常に「クリエイティビティは常に自主的に創造されている。」とすれば、(なぜなら、これらの創作活動は日常生活の上で必要性があるものではなく、余分なものやあまりある余暇やプラスアルファの概念だからだ、という通念によって説明される)クリエイティブなものを好むべきだというロジックに至る。どこかで「書かされた本」に対して痛烈に批判をしたのだが、その対をなすものとしての自分の考えや過去などを伝えたいがために書かれた本は読むべきに値すると評した。確かに処女作というものは得てして作者の意志がふんだんに盛り込まれており、読む人や見る人を惹きつけ、魅力的である。しかし、第二作、第三作となるにつれ、面白さは消失していく。僕はここの原因として義務や仕事として創作されたのではないかと考えを向けるのである。昨日、元町界隈のギャラリーを散策したのだが、下の意見を持った。芸術家でも結局は生きていかなければならず仕事を持たなければならない。何かの技法や感情を描き出しただけで買い手がつくかどうかは分からないし、パトロンがいればいいが、パトロンという概念は現代社会では非常に希薄になってしまったのではないかと。当然現代の世も資本家は莫大な財産をもち、NPOやら慈善事業やら芸術家やらのパトロンとして資本を費やしている人もいると思うが、彼らの頭の中は資本の拡大が主であるので、結局のところ東京にある国立西洋美術館にある松方コレクションみたいに巨万の富を得た資本家がコレクターだったが、そういったパトロンが減り、単位が国や自治体になったのではないかと思うわけだ。そして、絵画自体の値段も当然ピンからキリまである。これも前もって気づいていたわけであるが、過去の人物の絵画の値段は跳ね上がるように見える一方(これは当然のことである。なぜなら、過去の人物の絵画はもう増加することはないからだ。しかし、この理屈も版画や印刷技術と美術の概念の変化と価値の変貌によって説明できなくなりそうに思う)村上龍など現代の巨匠であっても、イラストレーションは安く売られている。さてさて、この値段の問題でいくらからが安いとするか、価値観は人それぞれであり、そしてなぜ絵画を購入するかという意欲にも左右されることを留意したい。東山の美しい青が20万円程度で売られているのを以前東京で見たことがあるし、昨日は先の村上龍やジョアン・ミロの絵もたかだか20万円程度だった。白髪一雄やオノサトシノブの絵は15万円程度だった。安いと感じる一方、無名の作者の絵、街角で売られていた印象派の絵は1万円でも高いと感じた。昨日昼過ぎ、YouTubeで漱石のこころを聞きながら、ギャラリーにでむき、そこのオーナーに多くのことを教えていただき、歴史と背景と作者について教えたもらうと自分の中で絵画の価値が上がっていった。この感覚は、小磯良平美術館にいったときにも生じたあの知ることによる喜びに似ていた。兵庫県立美術館でよく開かれている具体の展覧会で顔なじみの元永や白髪といった前衛芸術作家の作品とそれを引き継ぐ篠田のような有名画家の絵画はすべからく良い。加えてこれまで自分の中で無名だった作家にスポットが当たることを心地よく感じたのだ。同日、清原先生の教室展がやっていて、その水彩画も鑑賞したが、昨日は風景画よりも抽象画、象徴画に魅力を感じるのであった。これはその時々の感情によって揺さぶられているということが事実であるはずだし、僕の中でも時にはヴァトーのシテール島の巡礼が好きな時もあるし(これはフェット・ギャラントであり宗教画でもあるのだが、風景画の先駆けでもある。そして、背景に恋人たちの愛の変遷が描かれてあるのだから、特殊だと思う)、東山魁夷の道を見たいと思うことも多い。しかし、多くの場合は、ルドンやシーレの方に感情を揺さぶられる。対して、白髪の絵は常に僕に暴力的な活力を与えるのであるが、高ぶった感情をさらに興奮させるに彼の絵は僕に訴えかけるものが多いのであるが、時として、キリコのような静かな静物を見たいとも思うわけなので、その揺れ動く感情の起伏を考えると、多面性を有する絵の方が「飾る」にはいいのではないかと思った。イケミチコの未来人間ホワイトマンは、どう見ても女性の陰部を下背部から覗いた構図になっており、その陰部から液体が流れワイングラスに注がれていた。オーナーに「イケさんは可愛らしいおばあちゃんとのことでインスタレーションが好きで3月に大阪で個展があるからいってらっしゃい」と言われたのだが、作者の内面性を掘り下げたい一方聞くのも恐ろしいと思った。ここ最近、すでに数カ月が経過しているが、フェミニズムに傾倒している僕は、その女性をモチーフにした衝動的な絵に女性の怒りと悲しみを見出し、同時に聞いている「こころ」に出てくる細君と先生の母の無知とおしとやかさ、勉学の寡少は当時の日本における女性への侮蔑を今となっては取れるし、同時に読んでいる「戦争と平和」におけるロシア文化での女性差別でも、美術手帖(二月号)に書かれていた女性アーティストに対するマジョリティである男性アーティストによるハラスメント問題でも、どれでも不平等性が訴えられているのである。そして、初期未来人間ホワイトマンは目だけ(僕には目に見えた)の存在でそこから黒い涙が垂れていて、現世への哀愁か憂いかは分からないが、昨日はその黒い涙を悲しみのように感じた。多分に絵を見るという行為そのものでその作品を好きになるということもあるが、説明をしてくれるとより好きになるというのが常で、バームクーヘンのように80層程度絵の具を塗り重ねて(その作者にとっては収入がほとんど絵の具に消えるらしい、その事実をきくと、芸術とはなんなのかという根本論と収入を塗り固めた上からそれを削って新たな一面を見出すという手法はあたかも資本を塗り固めたがそれを削る作業にも見えて、しかも、塗り重ねた下の絵の具は見えないから、これは費やした資本が過去になれば見えなくなるのと同じように思えて感動を今僕は感じている)、そして削るという手法をきいたり、パウルさんというシリーズの人物画もおそらく数秒の鑑賞時間では何も僕の何かを引き起こすには至らないけども、パウルさんの撫でやかな肩はドミニク・アンドレやマニエスリズムを思わせるし、白さはなんとなくだけど藤田を思わせるしでより、視覚的情報と感情が大いに混ぜ合わされてより深い感動を覚えたのである。このように初めてのギャラリー見学は僕の中の価値観を変貌させ、そこで見た、もう作者の名前も忘れてしまった絵たちは僕の内面をかき混ぜ、考えをごちゃまぜにし、新たな美しい色を作ってくれたのである。こうしながら、元町からトアロードを闊歩しつつ、小さなギャラリーと雑貨屋、洋服屋、家具屋を眺めていると、僕はそこにすら芸術を感じるのであって、調和した街とそこを行き来する人を含めて好きになってしまう。もとより整った顔立ちだと評される僕は、思い返すと昔から、そして今は自然とフェミニンな服をよく着るようになっており、これは結局似合っているからに過ぎないわけだが、男性的というよりも中性的、女性的という感覚を楽しんでいる。なぜなら、男性という性は暴力と支配と意欲と向上といった野蛮な概念が見え隠れするのに対して、女性は柔和でおしとやかで優雅であたたかみがある印象を与えるからだ。さぁこれも男女不平等性に位置する発言なのだが、現時点の僕はそうなのだ。そして、大学時代にサルエルパンツを好んで履いていた僕は、その時分から女性的な服装とそのバリエーションに憧れを持っていた。男性のファッションというのはスーツ(これもフランス、イタリアなどの国柄や、靴やカフスに至るまで多くの知るべきことがあるのだが)、シャツ、Tシャツをベースとし、ズボンは形と素材の違いとしてのベロアとかコーデュロとかスウェット、ジーンズ、サテンなどがあるにしても、女性ほど多様性は孕んでおらず、女性のチェニックやビスチェといった大きな形の差異はない。さらに、アクセサリーもおおもとは女性的であり、男性向けのそれの種類はとても少ない。そこに不平等性を見出し、僕はそれを否定するように女性的になるのである。いつもの通り、ジュンク堂書店で本を買い、MOKUBA’S TAVERN(木馬)でコーヒーをいただいた。最近多くのカフェにいっているようにも思うので、そのうちカフェの感想も書いてみようかしらと思う。この木馬は入口がとてもオシャレだった。入口の前に、この店のものか知らないがイチゴの蛇口からホースが伸びており、初めに前を通りがかった時からそのうち行こうと考えていた。僕は今、大学で外来もしているので、その外来が終わった後から研究室に向かうまでの移動の途中でカフェに行ったり、休日に昨日のようにうろうろしてカフェを探したりとすることが多いので、その一環で行ってみようかなと思ったのだ。しかし、昨日はパソコンを持っていなかったし(パソコンを持っていると仕事モードになってしまう。仕事が山ほどパソコンの中に溢れているから)、本を読むだけという心持ちだったし、芸術に触れて美しく清らかな目を持っていたので、行ってみようという心が上回った。ちょっと前からコンビニで「喫茶店の本」という関西にあるカフェの紹介雑誌があったので機会あるごとに僕はそれを眺めていて、その中で神戸のカフェもいくつか紹介されていた。どれも名前を覚えることはできないでいるのだが、何度も元町あたりを行き来するため、そのうちに出くわすだろうと甘い考えで購入を控えている。木馬に行ってコーヒーと注文したサラダを待っている間、その本があることに気がつき、眺めていると木馬も特集されていて、また感動を覚えるのである。僕は昔から古いものが好きなのだと自覚しているし、アカデミーバーの閉店と壁画の移動は僕を興奮させるに十分でありそこに通っていた自分を尊敬する気分にもなったし、同様にこのように古き良きを大事にする気持ちが好きなのだ。アンナ・カレーニナのリョービンに代表されるように、最先端を望むよりも先祖より長い間授かってきた歴史に重きを置く考えをより重要と考えており、故に仕事でもパッと出の最先端だが妥当性のない論文よりも古いが着実に一つ一つを示したものに目がいくのであり、T先生やK先生から教えられたことを確実に覚え踏襲していくことで夢野がドグラ・マグラで示した心理遺伝をこの身で示しているのだ。木馬の中は、階段を数段上がった右手にオードリー・ヘプバーンの絵が飾られており、僕が座ったピアノの前にある木製の風情ある小テーブルの前には、ジャズに関連する雑誌がガレのようなアール・デコのランプに照らされていた。右手には木馬の歴史を綴ったと思われるノートが小さな本棚に飾られていた。さっと左手奥に目をやると、オルガン?の上に書棚があって、そこにもいくつかの本が飾られていた。残念なことにそこには広辞苑があった。僕なら、何を置くかな。そう思案すると、なんとなくだけど、「薔薇の名前」がいいんじゃないかなと思ってほくそ笑んでいた。良い面もあれば当然悪いと思う面もあるし、穿ったものの見方を提示することもできる。カフェ、喫茶店が隆盛をほこったのはいつか知らないが、なんとなく1970-90年代ではなかろうかと思うわけである。これは、単純に高度経済成長、バブルの時期と思っているだけでもあるし、これまたなんとなく芸術が大衆化したからではないかともなんとなく思っている(また勉強の種にしよう)。そうすると、僕が今すごくおしゃれで優雅で素敵だなと思っているカフェの内装や照明や置物は単純にその時の世俗的なものの代表だったのではないかとも思う。つまり、この風情あるカフェを現代に解釈するとアイドルのポスターがあってパソコンがあって、フライデーやらのゴシック雑誌があって、大量生産された椅子と机が並べられているような空間を想像するのである。そこにはカラオケがあったり、若者がガヤガヤと騒がしく談笑する一方、スマホから目を離さない集団があるんだろう。この風景を心に描くと僕は嘔気を生じるわけだが、意外とそれも30年続けば風情として見えるのかもしれないなと思う。そう考えれば、時代が変わっただけで本質は変わっていないのだと考え、この僕が抱く価値観というものも結局は相対性なのかと悲しくもなる。当然、この考えには時代がたっても廃れないという点で美しさがあるという反論と弁護があるわけだが、それは多分僕が嫌う文化でも同様なんだろう。
そうして、日が暮れてきたのでゆっくりと帰宅し、簡単に健康的な炒め物を食べ、また「こころ」を聴きながら小一時間ランニングをし、「戦争と平和」を読んでいる間に眠ってしまった。
一年ほど前に書いていた感想文をアップします。
 
2019年12月31日。車内の外は暗く、自分の顔が反射している。目を大きく見開いたその顔はいつも鏡で見るその顔である。
 
S・カルマ氏の犯罪
 名前とは何か。名前には何の意味があるのか?実在するものは名前がなくてもそのことを示すだろうか。シェイクスピアのロミオとジュリエットはお互いの境遇という名前に苦しんで、先のようなことをいうシーンがある。名前に課せられた使命は、実在だ。名前がないとすれば、それは、名前に関わるものの外にいることになる。区役者仕事、法律、そういった煩わしい俗世から逃れることができる。コミュニケーションが必要となった世の中において人一人で生きていくことはひじゅに難しいけども。
作中に出てくる登場人物はとても馬鹿らしいが名刺や靴屋ズボンやそういったものが擬人化していく様は、不思議の国のアリスを思わせる。シュールリアリスム的な文学と言っていいだろう。思い立って、出てきたものがどんどん情景となり考えとなり、実現していく。壁は、邪魔をするものや立ちはだかるものといったネガティブなものを印象付ける。溝は乗り越えるものであるにも関わらず。大衆は壁。まぁ、相手を空想するのであれば、相手の前に表すことができる壁は自分を守るべきものとなりうる。
シュールレアリスムの手法としてオートマティスムが使われ、頭の空想をそのまま文字に起こしていっている印象がある。はっちゃかめっちゃかではあるけども、アール・ブリュっトではなさそうだし、いかにも教養がありそうな書き方をしている。思想はその個人の根底にあるだろうことなので、思想自体が具現化するときに結局、その人個人(安部公房)が何を考えているかと示しているように思う。シュールレアリスムの手法を意識しながら読んでいると、次のバベルの塔の狸で、実際にその手法をそのまま文章にされていて驚いた。望んだものが実現していっている。
 アンドレ・ブルトンが1924年にシュルレアリスム宣言をする。僕は本当のシュルレアリスムテキストを読んだことがないので、安部公房の著作が本当にシュルレアリスムに沿っているかわからない。なぜなら、本当に自動記述法を酷使すると、やっぱり意味が通らなくなりそうだからだ。短文であれば、いける。僕自身が書く文や、最近のブログやケータイ小説など、それらは実は自動記述法を使用しているように見える。プロットがなく、何を書いているかわからない。絵を思う。思考に入ってくる感情は、ジョイスの意識の流れにも似ているし、ふと違うことも思えば、雑音や、外の風景や、そういったことに感情や理論は影響を受ける。しかも驚くべきことに表象された景色で十分である。そのため、意識はふとしたときに脱線し、そのうち帰ってこなくなる。意識を自分の外の風景に写すと、風景の写実的な表現は可能になると思うが。ポロックの絵。予定されず書かれた絵はその行為によってaction paintingと呼ばれ、絵の具を垂らしてみたり、打ち付けてみたり、額縁を縦にしたり横にしたり、予定しないことによって人間の内面を表出しようとする。色。それも前もって予定しない。赤の気分、黄色の気分、それぞれの色は文化背景を示すし、楽しさや悲しみや喜びや驚きなどを表現することができる。手法を伝えるときに白髪は足で絵を描くフットペインティングというものを作り出したし、無駄な記号をひたすら書き続けたり、自分の好きなものに固執してみたりと芸術家は好き放題してきた。意図をうまないということがそもそも意図を持ったコンセプチュアル・アートであるし、文学も、文学を何も意識しないで書いてみたということがコンセプトがなくてもコンセプチュアルである。
手法論を伝える本もあってもいいし、それを物語化する、象徴文学にする。そういって読み進めることもできる。象徴化された多くのもの、名刺、靴、マネキン。ラクダ、壁。狸、目、それらはその人が今しがた考えている象徴を示す。さて、どこからこの暗喩は生み出されるのか。イコノロギアという古い本は狐を狡猾、鳩は聖、骸骨は死、みたいなことを一つ一つ示した。知識人はそれらを絵の中から読み取って、自分自身の知識の確認をし、喜んだ。僕自身、似た傾向があるから、愛の結晶化作用を記載したスタンダール、ダリの引き出し人間、ユダヤ人のさまよいなどは全部イメージができておそらく安部公房と同じイメージをもつ。難しい表現を使って人を惑わすことは案外簡単なことではないかと思っている。だからなるべく平易な言葉で、でも教養をふんだんに使用する。
大変面白い。
 
This is all of the cruel angel’s thesis from the start.
通称エヴァは、日本では知らない人がいないくらい有名なアニメの一つだ。ただ、このアニメの放映は1995年だそうで、僕が6歳のときになり実際にはみていないという人も多い。
当時はそれほど深夜アニメという枠は一般的ではなく、僕が高校生の時でさえ、深夜アニメはオタクと結びついていた。その時から早十五年近く。日本はアニメ文化というものを認め、多くの人がアニメに対しての偏見を持たなくなった。とはいえ、マルチチュードに漏れず、ただただ幅が広がった故に、認められるものは認められているという表現が正しいのではないかと思う。
つまりは、週刊ジャンプやドラマ化、メディアに取りざたされるといった他の因子によって認められているとみなされたアニメは受け入れやすく認められており、その一方百合やBLといった分類は差別的扱いを受け、認められていない。これまた、メディアの策略のように思う。BLはボーイズ・ラブ(最近はブロマンスという言葉もあるようだけど)の略称で、腐女子が好むものという一般見解を押し付けられている。腐ったという言葉を使われて嬉しいわけもなく、こういった類のアニメの受けはよくない。同様に、女の子同士が仲良くする、登場人物が女の子だらけのアニメを百合アニメというが、これも受けはよくない。この男の愛情、女の愛情は当然一方の性からの視聴を主に狙っており、優遇された差別化したマイノリティへの需要と考えることができよう。また、アニメは異世界ものというものやハーレム(男一人、他は女性)のような現実逃避や理想の追求を表したものが多い。人間は内面をさらけ出すことを怖がり、飾った自分を外に向けている。本当の自分というものを隠す傾向があるので、当然、こういった現実逃避や理想の追及ばかりをしている人の心理は公にはされにくい。そういった影響で、同じアニメというくくりで、つまりは同様の考えを共有しているという仲間意識があるとアニメ好きは集まりやすい。そういった背景があるのではないかと思う。
この視点から、エヴァを観察すると、不思議なことが見える。
というのも、エヴァは最終回まで視聴すると、「人は自分の見せたくないところを隠して生きている。その寂しさを誰かに埋めてもらいたい」という弱さをさらけ出しているから、本当は世間には認められにくいはずだからだ(作品がいかに優れていてもエゴン・シーレの暴力的なエロチシズムな絵が好き!と公言しにくいのと同じ)。この感情は通常は主人公の碇シンジのように、隠していないといけないはずだからだ。
そのため、やはりエヴァは深夜アニメという従来のくくりでマイノリティを対象とした作品とみなしたほうが解釈しやすい。それなのになぜエヴァが人気か。簡単で考えやすい安直な帰結は主題歌の影響だ。歌という媒体は恐るべきものだと思う。歌はまず覚えやすい、耳に残りやすい、何度聞いていても苦痛にならない。そういった記憶に定着するという利点がある。そして、日本特有のカラオケ文化がある。このカラオケ文化もおそるべき拡散力のある慣習で、誰かが歌えばそこで瞬く間に広がっていき、多くの人に影響を与えることになる。カラオケを利用して有名になった歌は数多い。「小さな恋の歌」と並んで「残酷な天使のテーゼ」は誰もが耳にしたことがあるようになった。だから、アニメを知らなくてもエヴァを知っている状態が出てきただけだろうなと感じる。そして、この歌はPVとしてカラオケで流れるので、なんとなくアニメを見たような気がしてしまうのだ。かくいう自分も今年エヴァを視聴するまではそう思っていた。有名で特徴的なキャラクターであるレイやアスカも同様に知らないはずなのに知っている感覚を植え付けることに寄与している。ということで、エヴァは、かなり深く、人の心をえぐるにも関わらず、なぜかみんな知っているし、エヴァ好きといっても偏見なく思われるのはこの理由だと僕は解釈した。
そのエヴァの内容だが、哲学的と言いつつ、最後は個人的には少し残念に感じた。アニメならではの作成の仕方は評価したいけど、作者の考えをそのまま登場人物に話させてしまった点が個人的には残念だった点だ。だが、どうすればよかったか、自分ならどうしたかととわれると答えが出ないので、総じた評価としては高い部類に入る。
特に「自分というものは、他人が形成している。世界はたくさん存在するが最後には一つの世界しか選べず、それは自分が選んでいる」という考えは僕の考えと似通っており、好んで利用する理論の一つである。最終回ではこれまでのセリフを用いて、この疑問をどう解決すればいいかシンジと問答するという手法を取っており、それも面白いとは思う。一方、こんな世界も選ぶことができたんだとシンジは明るいレイと幼馴染のアスカという世界を思い浮かべているが、これはちょっと違うんじゃないかというのが僕の考えである。この考えに即してしまうと、世界は自分の都合のいいように変化させることができるということになっており、これはシンジが意識のみの存在でないと説明できない。つまり、現実は夢でなければならない。この考えに依拠した哲学も存在する。全ての思考と作り出した現実全てが本当に存在するものなのかははっきりしておらず、自分が考えているだけで、その考えている脳が一つの空間に浮かんでいるだけの可能性がいつまでたっても残っており捨てることはできない。この考えは、大学一年の時の哲学の授業で学び、「翔太の猫のインサイトの夏休み」に紹介されていたと思う。そして今では、この考えはゲーテルの不完全性定理からも正しいように思う一方、ゲーテルの不完全性定理を用いることができるという時点で思考の枠を超えれていないようにも感じる。
さて、良いように考えよう。シンジは意識のみの存在で、エヴァや使徒やらは存在しない(シンジが空想しただけ)という可能性もあるのだろうか。メタ的に、この考えは面白いかということを議論してみたい。作品を上から眺めると、この手法は個人の単位では夢オチとも言われる。「クリスマス・キャロル」や名前は忘れたけども村上春樹の作品にもあったように思う。キノの旅とかどこかでみたようにも。過去に判例があれば面白くない(キノの旅はエヴァよりも歴史が浅いけども)ただ、本当に意識だけの存在とやらが存在しているんですよという作品はパッとは思いつかない。そう考えると、この思考は新規性が高く、エヴァはシンジが意識のみの存在で空想しているだけだったという結末もなくはない。
なぜ、この考えが面白そうだと思っているかというと、途中に書いたように、この作品のテーマは「他人にみられる自分、他人によって作られる自分」だと思うからだ。シンジは常に父親にどう思われるかを考え、アスカは自分の価値をエヴァの操縦に見出し、レイは作られた人間で他人によって心を入れられている。葛城さんは加持くんとの肉体関係によって他人を感じ、赤城博士は母からの感情を受け取っている。このように他人との関わり合いが重要であるという哲学があり、人間には元々空白があって、それを補完しあわなければ生きていけないからだという考えが根底にある。これははっきりと終盤で説明されている(その説明されているが故に、陳腐さも高尚さと同時に生み出してしまっている)しかし、僕の考えに沿って、そんな他人との相互作用は虚構で全ては個人の一意識でしかなかったら、と考えると非常に面白い。やっぱり、最終回で見たシンジの妄想の世界が「シンジ次第でありえる世界」とするならば、シンジの意識で全て作られた世界じゃないと説明できないようにも思うし、シンジの意識内の話なのに、他人との共生を図るという逆説的なアイディアが根本なんてと驚愕してしまう。
ちなみに、どうでもいい話として、碇は当然船を波止場に止めるつなぎ、そして、「シンジ」は信じるの言いかけと思うと、信じるか信じないかの狭間で揺れている彼の心を、どちらに止めるか(碇を下ろすか)というように僕は解釈した。
これらの考えは通説じゃないので、あしからず。解釈とかその作品の受け取り方なんて千差万別でいいよね。
燃え上がる緑の木ー救い主が殴られるまでー

大江健三郎著。

真夜中のロイヤルホストで。僕はいつも、ここで本を読んだり、勉強をしたりしている。夜23時30分。ラストオーダーの伝えを聞いて、後30分で閉店する店内の中で、ようやく、燃え上がる緑の木の第一巻を読み切ることができた。
燃え上がる緑の木は、大江健三郎の晩年の著作である。100分で名著で取り上げられており、大変興味を持ったので読んで見た。きっかけはタイトルである。
タイトルは燃え上がる緑の木、木は燃える事と静かに隆盛する相反する事が同時におこる。物語の語り手であるさっちゃんは両性具有、今で言うと半陰陽であり、それも相反するものが同時に内在する象徴である。僕の理論の礎である両価性も同じ半陰陽で両性具有である。二律相反はなり立たず、同時に相反する感情が入り乱れる。僕はそこに主眼を置きたい。
オーバーに仕立て上げられたギー兄さんの治癒能力は、糾弾する周りの人やおばさんのみならず、自分自身でさえ、あやふやで不確かな物である。現代医学の観点からしても、大江の語り口からしても、不確かな事が明白である。
しかし、求められる人がいるのなら、その力を行使してみようかと思う。根拠のない力を否定することは簡単なことで、対極に位置する根拠に根付いた力を盲信することも簡単なことである。しかし、それほど根拠がないことも信じなければならないこともあるし、それはやはりグラデェーションがかかっている。限りなく科学信仰を信用する一方、それによっては説明できない現象が存在することも実は自覚している。これを僕は、まだ理論化されていないだけの理論というふうによぶ。幽霊の存在とかオーパーツの存在とか、宇宙人とか、超能力とかそういった類のもの。それらは現代の技術では理論化ができないだけで、実際に存在を否定していないと言うことを留意する。と言うことは、ギーにいさんのようなヒーリング・パワーがまるっきり嘘だと言うことは忍びない。登くんのように、実際に治療を受けたと信じる人にとってはなおさらである。そのあとの村人で肩こりを直してもらったと言うものも現代医学のプラセボ効果に類するものだと言うこともできるが、理論かできない何かがあっても良いと言う言い方もできる。そういって、彼の行為を正当化してみよう。
オーバーからの伝承は新興宗教のように彼を蝕み、彼自身、村人を貶めようとしているようにも見える。現代社会に根付いた書き方で、現代の小説になっているにも関わらず、なんだか本当の世界のように見える。それは、大江健三郎の息子の光が出現したり、本人がKおじさんとして存在していることから、ある意味でルポルタージュのような体裁をとっているからだろう。鍵括弧を使わず、ーで話し言葉を表現している方法、さっちゃんを語り手に選んだところから、過去視点で物語が進められる。話は沈んでいき、僕らは彼女のおもいと自分の感覚がまどろんで入り乱れていくことを感じる。物語はあまり進まないが、ゆっくりと彼女の思いを理解するようになるようだ。
物語の中ではいくつかの主題も現れる。あたかも魔の山の教養小説のようでもあるし、大江の宗教観を認識するいい機会でもある。感覚受容の主体性や人間の存在する意味というありふれたテーマを改めて考える機会にも恵まれている。
100分で名著であらすじを知ってしまっているから、僕には感動というものはないけども、さっちゃんとの性行為は、愛ゆえに生じたものではなく、儀式ばったものだった。ギー兄さん自ら露呈させる三位一体説。
 幸せとは何か。幸せをこれまで論じたことがあっただろうか。巷に溢れる幸福論は理論的なものもあれば、そうではないものもある。多数派が世の情勢を占め、あたかも真実のように謳うため、幸福論は曖昧でぼやけた非論理的なものに支配されている。
 現象論からのアプローチはもしかしたら、フッサールとかがしてるかもしれない。残念ながら僕はその知識がない。
 まず、調べるより前に、自分の意見を書く。
 幸せの定義が最も大事である。これはどんな事象を考えるにおいても重要なことで、定義が曖昧であると、齟齬が生じる。"箱の中のカブトムシ"と同様にお互いの認識の違いによって、定義から外れたもの同士を議論させることとなりうる。
 なので、幸せとはなんであるかを定義する必要があるのだが、感情は表現が難しい。特に、いっときの感情ではなく持続的な感情なのでなおさら定義が難しくなる。幸せとは、「自分自身が幸福だと思う時間が、自分自身の中のある一定基準を超えていること」とある意味トートロジーのような表現になってしまっているがこれを定義とする。幸福だと思うの定義は人それぞれである。その人自身においてどうかということである。一定基準も人それぞれである。あたかも、裕福な家庭で育った子供はお金があることは幸せの一助とはせずに、貧困家庭ではお金があることを幸せの根本となすように、人を助けるボランティア活動により自尊心が高められ幸福を感じたり、逆に人を貶めることで幸せを感じることもありうる。
 何れにしても、それらの感情の表出の時に、体内で何が起こっているかを検知することが重要かと思う。観察無くして実験なし。観察無くして推測なし。というわけで、人が幸福だと感じている時に何が起きているか?この答えは脳にありそうだ。この点に異論はあまり生じないように思える。それぞれの細胞ひとつひとつが幸せを感じているといった文学敵表現はさておき、脳以外の体内臓器のどこがこの幸せの感情を司ることができるか。それは非常に困難だろう。しかし、こういった絶対的に正しいと思われる表現にこそ、人は注意をすべきである。現状、反対意見が見当たらないので、人が幸福だと感じている時に脳に何が起きているか?という問いを解決すれば良いということにしよう。
 脳はニューロン、グリア細胞、血管内皮細胞、ミクログリア、髄液で構成される。脳の主な機能は、ニューロン同士のコネクションやニューロンとグリア細胞のインタラクションが、感情やら知覚やらに重要であろうことがこれまでの研究で示唆されてきている。そのニューロンを群とみなし、機能的解剖学的に分類する事で、それらの障害もある程度検知されている。
 幸せと感じてしまう(多幸感)疾患もおそらくある。ひとつは脊髄小脳変性症といわれているが、ここの記載の多幸感は、あくまで幸せそうな表情というように思える。言語学的に幸せの対義語である不幸も幸せの解析に有用であろうか。逆説的な不幸を感じるのはやはりうつ病が代表ではないだろうか。うつ病は、セロトニン作働性ニューロンの機能不全が問題であるとすると、このセロトニンが幸せを作り出している立役者のようだ。性行為そのもので生み出される快感や成功時の達成感、興奮時に放出されるエンドルフィンという物質はも同様に幸せを作り出しているように見える。パーキンソン病患者において、うつ病、アンヘドニアが多いことはドーパミン作働性ニューロンも一助を担っているかもしれない。
 どのファクターがキーポイントなのか。ホメオスタシス機構、効率性から考えると、いずれのニューロトランスミッターにしても産生過多状態を維持するにはエネルギー総量が膨大となりそうである。ニューロトランスミッターを数多く放出すると受け取る側のレセプターの数も増やさないといけないし、リサイクリング機構も分解機構も増やさないといけない。物質の量のみで論議するべきではなく、シナプス伝達効率を考察しないといけないようにも思う。輸送系としては、ほとんど動かないけども動いていないわけではない系、つまりブラウン運動系が最も効率的にエネルギー消費をしているようだ。なので、多すぎず、しかしきちんとシナプスが繋がっているというシステムを考える。その消極的シナプスが最もエネルギー消費量が少なくニューロトランスミッターが受容体と反応できるように思える。そして、物質数が多くなればフィードバック機構で放出されるニューロトランスミッターの総数が減る、言い換えれば、抑制されるという点を考えると、幸せが仮にこれらのニューロトランスミッターによって調整されているとすれば、急激な変化を減らすことが幸せを作成しうると思う。これは、パーキンソン病のContinuous dopamine stimulationに他ならないと思う。数多くの幸せを一時的に作り出すことはいけないのかということが次の事案で、その場合には、それをフィードバックとして負の状態を作り出す時に人はどう感じるかということを議論すべきである。この加速度が幸不幸と相関関係にあるのであれば、ネガティブフィードバックがかからない状態にするしかない。可能か?
 さて、ホメオスタシスがいずれのレベルであっても生じうるとして、つまり、幸福を感じている時にもニューロトランスミッターの放出量が定常状態となるとして、その時は、幸福に馴化してしまうように思う。そしたら、base lineの幸福と比較して、積分をした時に幸せがどれだけ多いかと考えるほうがいいのか?ニューロトランスミッターの総量の時間的変化が単純な振動によって表現され、そしてその減衰率及び蓄積率が非対称であれば、幸福が総体として多くなることがありうるが、振動が対称性であれば、原理的には幸福と不幸が同程度の総量となる。base lineの設定を下げれば、幸福の総量が増え、設定をあげれば幸福の総量が減る。後者の原理では幸せは総体としては0ということになるので、幸せを多く得るためには、速度をほんの少しだけ上げることができればいい。そして、その後、速度を緩めないということで持続的な幸福を生み出すことが原理的にはできる。いうが易しであり、現実的に可能なのだろうか。
幸せとはずれるかもしれないが、報酬系における脳活動を考えてみよう。現在のところ、報酬系の中心的役割を担っているのは中脳腹側被蓋野(VTA)と側坐核(NAc)である。生物のほとんど全ての行動が実は報酬系に関与していることを実体験から推測すると、純粋な報酬系の活動の総量を見るには、VTAに入力を受けた後の出力系ニューロンの発火総数を計算するのがいいように見える。そのために、まずVTAに存在する物質のプロファイルを確認する。VTAにはneuronとastrocytesが存在し、*:*である。neuronは含有するニューロトランスミッターにより命名される。dopamine neuronsとdopamine neuronsを抑制するGABA neuronsのようだ。他にはglutamate neuronsがいるように思えるが。dopamine neuronsが幸福の出力系と仮定して、この総量を電気的に計算する?
難しくなってきた。そもそも、快楽物質の総量だけで物を言うのは無理がある。