何から書き始めようか。
日記を不得手とする人達がいう、なぜ日記を書かないのかという一番の原因というものを探ってみると、ともすれば内省してみると、それは内容の欠落ではないかと思う。
つまり、単調な日々を過ごすあまり、考えていることが常に同じとなり、書くことがないという状態に陥るということである。この自己存在の意義すら消失しうるような文句は自然過去の自分にも当てはまっていた。書きたいことが他にあるのでその過去の自分についての描写はおこなわず、先に進むこととしたいが、僕はこの理由として一つのことをどうしても述べておきたい。それは経済的余裕である。このtermが非常に重要な意味を帯びている。何かを考え実行するためにいくつかの必須なことが存在する。一つにモチベーションであり、もう一つはそれを実行するだけの余裕である。この余裕は経済面と実質的な時間と精神となどの複合要因によって形成される群である。
モチベーションというものは、自己によって内から湧き出て形成される場合もあるが、自発的である必要はさらさらなく、この短い人生経験から言わせてもらうと、むしろ他からの影響で持ち上がることの方が多い。なぜなら、自ずから生じる動機は心からしたいと思えるというトートロジックな性質上、実行にすでに到達していることが多いからだ。例えば食事や休息などに対するモチベーションは維持する必要性もないし、出てきたと同時に達成することは容易である。そのため、文化的な生活を営む上で生じる自己由来のモチベーションがあるにも関わらず、その実行が阻害されている場合、それはなんらかの余裕の欠落によるのではないかと思う。
実際、僕は大学生の頃から、いろいろなものを見たり経験したりしたいと思っていた。海外旅行に簡単に行ける友人やパラグライダーやダイビングなどの資本のいる事柄を平然とやれる人々を嫌悪していた。しかし、この嫌悪感は実際には嫌悪感ではなく、嫉妬だったということができる。その当時の僕の中の問題は経済的余裕のなさから生じていたと断言していたが、今思うと経済的余裕だけではなく時間的余裕も含まれていたと思う。というのも、現在前者が改善されてもパラグライダーやダイビングに魅力を感じないからである。さて、モチベーションを余裕の問題が解決されたとしても、行わないことと行うことがあることことを説明するには、ブルデューのいう通り、選好によるのだろうと思うし、この選好は経験と教育によってなされるものと信じている。
コロナウィルスが蔓延した昨年、僕は時間的ゆとりのある大学院生になった。そして、あらゆる考え方を考えることができる一方、ブルシット・ジョブに忙殺されていた昨年を実りない年と考えているし、それを強要してきた医局制度に憤激を抱いている。とにかく、今年度はインターネットの拡張ということが僕の中で起きた。インターネット自体は特に進歩していないし、会議やレクチャーがZOOMを用いたネット会議になったぐらいで社会的には大きな進歩はないのだろう。だが、YouTubeを使用するようになったことが一番大きい変化として僕に起こった。SNSを使用したということではない。誰とでもコミュニケーションをとっていいのだということと、自分以外が皆師であるという格言が首をあげて現れてきたのだ。旅は長かった。思い返すと、インターネットによる繋がる機会というのはこれまでも存在していた。初めの頃はホームページだった。何かを書くということがしたかった。だけども、この時は何を書きたいかわからず、何を発信できるのかわからなかった。それでサッカー部に所属していたのでサッカーチームをまとめてみたというクソどうでもいい仕事をしていた。ただ、自分に全く興味がなかったこともあり、長くは続かなかった。こういった不特定多数に向けての情報発信というアクティビティはいわゆるリアリティが充実している時には思いもよらないようで、高校生並びに大学5年生以降はやっていなかったように思う。大学生になり、当時流行っていたmixiとFacebookをみんながやっていたから手を出した。少し面白い現象が僕には生じていて、Facebookは現実空間の拡張にはならず、所詮は友達を違う方面から見るだけにとどまっていたし、このFacebookはmixiの後であったように思うから、結局SNSに日記のように情報をあげる面倒を知っており、あまり活動されていない。一方、mixiにはコミュニティなるものがあり、不特定多数の相手とともに共通の趣味を持っている人のグループというものが存在した。僕は今を持ってしても性善説に則っており、僕の名前をインターネットで検索すればすぐに顔も素性も知れるというのに、この脅威と悪意の塊であるかもしれないSNSというものを信じ切っており、顔なり姿なりを発信していた。当時から今にいたるまでファッションが好きだし、客観的に見て個性的であるため、そのコーディネートを載せることをよくやっていた。コーディネートには自分の顔も遠巻きながら見えるため、見た人からは安心感もあったのかmixiでメッセージをくれ、知り合いになった親友もいたりする。その後、社会人になり、なぜかよくわからないがSNSからは遠ざかっていたように思う。結婚を考えるようになり、pairsで様々な女性とやりとりをしているが、これをSNS的活動と取れば、持続して不特定多数とやりとりをしていることになる。しかし、pairsなどの婚活事業は自分自身のアウトプットには向いていないし、現実に出会う人々とのコミュニケーションよりも欺瞞に満ちたものではないだろうかと常々思い、その影響もあり、辟易しているのが事実である。というのも、実際に対面するのであれば、その為人が雰囲気や所作によって察せられるのであるが、このメッセージのやりとりではそうもいかない。当初は僕もこのSNSで出会う見ず知らずの人に気に入られるように現実よりも気を使っていたのだがそれが正しいことかよく分からなくなっている。この通常よりも気を使うという行為をすれば、ある程度異性に好感を持たれることは当然である。しかし、この行為は自分を欺くことになることを考えるべきである。例えば、自分が好まない行為を好いているとして、面と向かってであれば、その場で異を唱えても、弁解する余地も議論する余地もあるが、メッセージではそうもいかないので迎合するしかなくなる。しかし迎合することは偽りであるのでメッセージのやりとりもしにくくなる。つまり、選好が異なる人とはそもそもやりとりを行うことそれ自体が間違っているということが明確になってくるのである。この見地から、僕のように思想にまみれ常に学び、よくあろうと生きる人間は非常に稀で、そのような人は少なくともpairsにはいない。これを書きながら、選択する婚活サイトを間違えたのではないかとも思ってきたので、真剣に考える必要があろう。
さて、YouTubeやInstagram、Twitter(どれも横文字だな)の隆盛によって、人はある意味、身体的接続がない不特定多数で匿名な集団と関係を持つことができるようになった。これは心の準備をして精神的苦痛を免れるように前もって予防線を張ってさえいれば、非常に有効な手段であるのではないか。常々、昔と今を比較し、かの古き良き時代は知るべき教養の数がほとんどなかったと言ってもいいことを自覚する。当時を生きてきた古い人はそれを認識せずに、そして今の僕たちもより若い人をみて、古い人が僕らにいうのと同様に「僕らの時代も学ぶことが多かった、それも深く」などとほざくのだが、当然、時代が進歩すればするほど情報過多になっていることは間違いがない。GDPだって指数関数的に増え続けているではないか。しかも、その情報を取捨選択しないといけないという非常に難しい問題も浮き上がってきた。ともすれば、役に立たない戯言を学ぶことにもなりかねないし、いや、当然この心配は常に背後につきまとい身をかこい、そして自分自身はそれが絵空事で嘘なのだということは認識できないでいることが多々ある。この事象はかの有名な科学論文Nature誌ですらそうなのだ。なんの校閲も査読も介さないインターネット情報や個人出版の本などはなおさらであろうと思う。さて、では、この取捨選択の技術を自ら学んでいかなければならないわけであるが、どう学ぶか。やはり失敗を重ねるしかないのではないかと思うし、研究者からすれば、やはり一応は査読付き著書や権威ある書物を一とする。これは相対性の話である。実際に書き物をしている身からすると、査読なんて形骸化しているという批判も受ける。とすれば、価値というものはやはり情熱、うちから溢れてくる善人の熱意によって表されるべきではないかと思うけども、この理論はマルクスの資本論からすると間違っているようにも思う。労働者はそれぞれの労働をブルシット・ジョブと関連付けているのかどうか、ブルシット・ジョブと創案と実行の不一致は並行するのか、クリエイティビティは常に個人ないしはその集団の自主性から創造されるのか。この疑問を答える必要があり、この疑問に対する答えが、常に「クリエイティビティは常に自主的に創造されている。」とすれば、(なぜなら、これらの創作活動は日常生活の上で必要性があるものではなく、余分なものやあまりある余暇やプラスアルファの概念だからだ、という通念によって説明される)クリエイティブなものを好むべきだというロジックに至る。どこかで「書かされた本」に対して痛烈に批判をしたのだが、その対をなすものとしての自分の考えや過去などを伝えたいがために書かれた本は読むべきに値すると評した。確かに処女作というものは得てして作者の意志がふんだんに盛り込まれており、読む人や見る人を惹きつけ、魅力的である。しかし、第二作、第三作となるにつれ、面白さは消失していく。僕はここの原因として義務や仕事として創作されたのではないかと考えを向けるのである。昨日、元町界隈のギャラリーを散策したのだが、下の意見を持った。芸術家でも結局は生きていかなければならず仕事を持たなければならない。何かの技法や感情を描き出しただけで買い手がつくかどうかは分からないし、パトロンがいればいいが、パトロンという概念は現代社会では非常に希薄になってしまったのではないかと。当然現代の世も資本家は莫大な財産をもち、NPOやら慈善事業やら芸術家やらのパトロンとして資本を費やしている人もいると思うが、彼らの頭の中は資本の拡大が主であるので、結局のところ東京にある国立西洋美術館にある松方コレクションみたいに巨万の富を得た資本家がコレクターだったが、そういったパトロンが減り、単位が国や自治体になったのではないかと思うわけだ。そして、絵画自体の値段も当然ピンからキリまである。これも前もって気づいていたわけであるが、過去の人物の絵画の値段は跳ね上がるように見える一方(これは当然のことである。なぜなら、過去の人物の絵画はもう増加することはないからだ。しかし、この理屈も版画や印刷技術と美術の概念の変化と価値の変貌によって説明できなくなりそうに思う)村上龍など現代の巨匠であっても、イラストレーションは安く売られている。さてさて、この値段の問題でいくらからが安いとするか、価値観は人それぞれであり、そしてなぜ絵画を購入するかという意欲にも左右されることを留意したい。東山の美しい青が20万円程度で売られているのを以前東京で見たことがあるし、昨日は先の村上龍やジョアン・ミロの絵もたかだか20万円程度だった。白髪一雄やオノサトシノブの絵は15万円程度だった。安いと感じる一方、無名の作者の絵、街角で売られていた印象派の絵は1万円でも高いと感じた。昨日昼過ぎ、YouTubeで漱石のこころを聞きながら、ギャラリーにでむき、そこのオーナーに多くのことを教えていただき、歴史と背景と作者について教えたもらうと自分の中で絵画の価値が上がっていった。この感覚は、小磯良平美術館にいったときにも生じたあの知ることによる喜びに似ていた。兵庫県立美術館でよく開かれている具体の展覧会で顔なじみの元永や白髪といった前衛芸術作家の作品とそれを引き継ぐ篠田のような有名画家の絵画はすべからく良い。加えてこれまで自分の中で無名だった作家にスポットが当たることを心地よく感じたのだ。同日、清原先生の教室展がやっていて、その水彩画も鑑賞したが、昨日は風景画よりも抽象画、象徴画に魅力を感じるのであった。これはその時々の感情によって揺さぶられているということが事実であるはずだし、僕の中でも時にはヴァトーのシテール島の巡礼が好きな時もあるし(これはフェット・ギャラントであり宗教画でもあるのだが、風景画の先駆けでもある。そして、背景に恋人たちの愛の変遷が描かれてあるのだから、特殊だと思う)、東山魁夷の道を見たいと思うことも多い。しかし、多くの場合は、ルドンやシーレの方に感情を揺さぶられる。対して、白髪の絵は常に僕に暴力的な活力を与えるのであるが、高ぶった感情をさらに興奮させるに彼の絵は僕に訴えかけるものが多いのであるが、時として、キリコのような静かな静物を見たいとも思うわけなので、その揺れ動く感情の起伏を考えると、多面性を有する絵の方が「飾る」にはいいのではないかと思った。イケミチコの未来人間ホワイトマンは、どう見ても女性の陰部を下背部から覗いた構図になっており、その陰部から液体が流れワイングラスに注がれていた。オーナーに「イケさんは可愛らしいおばあちゃんとのことでインスタレーションが好きで3月に大阪で個展があるからいってらっしゃい」と言われたのだが、作者の内面性を掘り下げたい一方聞くのも恐ろしいと思った。ここ最近、すでに数カ月が経過しているが、フェミニズムに傾倒している僕は、その女性をモチーフにした衝動的な絵に女性の怒りと悲しみを見出し、同時に聞いている「こころ」に出てくる細君と先生の母の無知とおしとやかさ、勉学の寡少は当時の日本における女性への侮蔑を今となっては取れるし、同時に読んでいる「戦争と平和」におけるロシア文化での女性差別でも、美術手帖(二月号)に書かれていた女性アーティストに対するマジョリティである男性アーティストによるハラスメント問題でも、どれでも不平等性が訴えられているのである。そして、初期未来人間ホワイトマンは目だけ(僕には目に見えた)の存在でそこから黒い涙が垂れていて、現世への哀愁か憂いかは分からないが、昨日はその黒い涙を悲しみのように感じた。多分に絵を見るという行為そのものでその作品を好きになるということもあるが、説明をしてくれるとより好きになるというのが常で、バームクーヘンのように80層程度絵の具を塗り重ねて(その作者にとっては収入がほとんど絵の具に消えるらしい、その事実をきくと、芸術とはなんなのかという根本論と収入を塗り固めた上からそれを削って新たな一面を見出すという手法はあたかも資本を塗り固めたがそれを削る作業にも見えて、しかも、塗り重ねた下の絵の具は見えないから、これは費やした資本が過去になれば見えなくなるのと同じように思えて感動を今僕は感じている)、そして削るという手法をきいたり、パウルさんというシリーズの人物画もおそらく数秒の鑑賞時間では何も僕の何かを引き起こすには至らないけども、パウルさんの撫でやかな肩はドミニク・アンドレやマニエスリズムを思わせるし、白さはなんとなくだけど藤田を思わせるしでより、視覚的情報と感情が大いに混ぜ合わされてより深い感動を覚えたのである。このように初めてのギャラリー見学は僕の中の価値観を変貌させ、そこで見た、もう作者の名前も忘れてしまった絵たちは僕の内面をかき混ぜ、考えをごちゃまぜにし、新たな美しい色を作ってくれたのである。こうしながら、元町からトアロードを闊歩しつつ、小さなギャラリーと雑貨屋、洋服屋、家具屋を眺めていると、僕はそこにすら芸術を感じるのであって、調和した街とそこを行き来する人を含めて好きになってしまう。もとより整った顔立ちだと評される僕は、思い返すと昔から、そして今は自然とフェミニンな服をよく着るようになっており、これは結局似合っているからに過ぎないわけだが、男性的というよりも中性的、女性的という感覚を楽しんでいる。なぜなら、男性という性は暴力と支配と意欲と向上といった野蛮な概念が見え隠れするのに対して、女性は柔和でおしとやかで優雅であたたかみがある印象を与えるからだ。さぁこれも男女不平等性に位置する発言なのだが、現時点の僕はそうなのだ。そして、大学時代にサルエルパンツを好んで履いていた僕は、その時分から女性的な服装とそのバリエーションに憧れを持っていた。男性のファッションというのはスーツ(これもフランス、イタリアなどの国柄や、靴やカフスに至るまで多くの知るべきことがあるのだが)、シャツ、Tシャツをベースとし、ズボンは形と素材の違いとしてのベロアとかコーデュロとかスウェット、ジーンズ、サテンなどがあるにしても、女性ほど多様性は孕んでおらず、女性のチェニックやビスチェといった大きな形の差異はない。さらに、アクセサリーもおおもとは女性的であり、男性向けのそれの種類はとても少ない。そこに不平等性を見出し、僕はそれを否定するように女性的になるのである。いつもの通り、ジュンク堂書店で本を買い、MOKUBA’S TAVERN(木馬)でコーヒーをいただいた。最近多くのカフェにいっているようにも思うので、そのうちカフェの感想も書いてみようかしらと思う。この木馬は入口がとてもオシャレだった。入口の前に、この店のものか知らないがイチゴの蛇口からホースが伸びており、初めに前を通りがかった時からそのうち行こうと考えていた。僕は今、大学で外来もしているので、その外来が終わった後から研究室に向かうまでの移動の途中でカフェに行ったり、休日に昨日のようにうろうろしてカフェを探したりとすることが多いので、その一環で行ってみようかなと思ったのだ。しかし、昨日はパソコンを持っていなかったし(パソコンを持っていると仕事モードになってしまう。仕事が山ほどパソコンの中に溢れているから)、本を読むだけという心持ちだったし、芸術に触れて美しく清らかな目を持っていたので、行ってみようという心が上回った。ちょっと前からコンビニで「喫茶店の本」という関西にあるカフェの紹介雑誌があったので機会あるごとに僕はそれを眺めていて、その中で神戸のカフェもいくつか紹介されていた。どれも名前を覚えることはできないでいるのだが、何度も元町あたりを行き来するため、そのうちに出くわすだろうと甘い考えで購入を控えている。木馬に行ってコーヒーと注文したサラダを待っている間、その本があることに気がつき、眺めていると木馬も特集されていて、また感動を覚えるのである。僕は昔から古いものが好きなのだと自覚しているし、アカデミーバーの閉店と壁画の移動は僕を興奮させるに十分でありそこに通っていた自分を尊敬する気分にもなったし、同様にこのように古き良きを大事にする気持ちが好きなのだ。アンナ・カレーニナのリョービンに代表されるように、最先端を望むよりも先祖より長い間授かってきた歴史に重きを置く考えをより重要と考えており、故に仕事でもパッと出の最先端だが妥当性のない論文よりも古いが着実に一つ一つを示したものに目がいくのであり、T先生やK先生から教えられたことを確実に覚え踏襲していくことで夢野がドグラ・マグラで示した心理遺伝をこの身で示しているのだ。木馬の中は、階段を数段上がった右手にオードリー・ヘプバーンの絵が飾られており、僕が座ったピアノの前にある木製の風情ある小テーブルの前には、ジャズに関連する雑誌がガレのようなアール・デコのランプに照らされていた。右手には木馬の歴史を綴ったと思われるノートが小さな本棚に飾られていた。さっと左手奥に目をやると、オルガン?の上に書棚があって、そこにもいくつかの本が飾られていた。残念なことにそこには広辞苑があった。僕なら、何を置くかな。そう思案すると、なんとなくだけど、「薔薇の名前」がいいんじゃないかなと思ってほくそ笑んでいた。良い面もあれば当然悪いと思う面もあるし、穿ったものの見方を提示することもできる。カフェ、喫茶店が隆盛をほこったのはいつか知らないが、なんとなく1970-90年代ではなかろうかと思うわけである。これは、単純に高度経済成長、バブルの時期と思っているだけでもあるし、これまたなんとなく芸術が大衆化したからではないかともなんとなく思っている(また勉強の種にしよう)。そうすると、僕が今すごくおしゃれで優雅で素敵だなと思っているカフェの内装や照明や置物は単純にその時の世俗的なものの代表だったのではないかとも思う。つまり、この風情あるカフェを現代に解釈するとアイドルのポスターがあってパソコンがあって、フライデーやらのゴシック雑誌があって、大量生産された椅子と机が並べられているような空間を想像するのである。そこにはカラオケがあったり、若者がガヤガヤと騒がしく談笑する一方、スマホから目を離さない集団があるんだろう。この風景を心に描くと僕は嘔気を生じるわけだが、意外とそれも30年続けば風情として見えるのかもしれないなと思う。そう考えれば、時代が変わっただけで本質は変わっていないのだと考え、この僕が抱く価値観というものも結局は相対性なのかと悲しくもなる。当然、この考えには時代がたっても廃れないという点で美しさがあるという反論と弁護があるわけだが、それは多分僕が嫌う文化でも同様なんだろう。
そうして、日が暮れてきたのでゆっくりと帰宅し、簡単に健康的な炒め物を食べ、また「こころ」を聴きながら小一時間ランニングをし、「戦争と平和」を読んでいる間に眠ってしまった。