燃え上がる緑の木ー救い主が殴られるまでー
大江健三郎著。
真夜中のロイヤルホストで。僕はいつも、ここで本を読んだり、勉強をしたりしている。夜23時30分。ラストオーダーの伝えを聞いて、後30分で閉店する店内の中で、ようやく、燃え上がる緑の木の第一巻を読み切ることができた。
燃え上がる緑の木は、大江健三郎の晩年の著作である。100分で名著で取り上げられており、大変興味を持ったので読んで見た。きっかけはタイトルである。
タイトルは燃え上がる緑の木、木は燃える事と静かに隆盛する相反する事が同時におこる。物語の語り手であるさっちゃんは両性具有、今で言うと半陰陽であり、それも相反するものが同時に内在する象徴である。僕の理論の礎である両価性も同じ半陰陽で両性具有である。二律相反はなり立たず、同時に相反する感情が入り乱れる。僕はそこに主眼を置きたい。
オーバーに仕立て上げられたギー兄さんの治癒能力は、糾弾する周りの人やおばさんのみならず、自分自身でさえ、あやふやで不確かな物である。現代医学の観点からしても、大江の語り口からしても、不確かな事が明白である。
しかし、求められる人がいるのなら、その力を行使してみようかと思う。根拠のない力を否定することは簡単なことで、対極に位置する根拠に根付いた力を盲信することも簡単なことである。しかし、それほど根拠がないことも信じなければならないこともあるし、それはやはりグラデェーションがかかっている。限りなく科学信仰を信用する一方、それによっては説明できない現象が存在することも実は自覚している。これを僕は、まだ理論化されていないだけの理論というふうによぶ。幽霊の存在とかオーパーツの存在とか、宇宙人とか、超能力とかそういった類のもの。それらは現代の技術では理論化ができないだけで、実際に存在を否定していないと言うことを留意する。と言うことは、ギーにいさんのようなヒーリング・パワーがまるっきり嘘だと言うことは忍びない。登くんのように、実際に治療を受けたと信じる人にとってはなおさらである。そのあとの村人で肩こりを直してもらったと言うものも現代医学のプラセボ効果に類するものだと言うこともできるが、理論かできない何かがあっても良いと言う言い方もできる。そういって、彼の行為を正当化してみよう。
オーバーからの伝承は新興宗教のように彼を蝕み、彼自身、村人を貶めようとしているようにも見える。現代社会に根付いた書き方で、現代の小説になっているにも関わらず、なんだか本当の世界のように見える。それは、大江健三郎の息子の光が出現したり、本人がKおじさんとして存在していることから、ある意味でルポルタージュのような体裁をとっているからだろう。鍵括弧を使わず、ーで話し言葉を表現している方法、さっちゃんを語り手に選んだところから、過去視点で物語が進められる。話は沈んでいき、僕らは彼女のおもいと自分の感覚がまどろんで入り乱れていくことを感じる。物語はあまり進まないが、ゆっくりと彼女の思いを理解するようになるようだ。
物語の中ではいくつかの主題も現れる。あたかも魔の山の教養小説のようでもあるし、大江の宗教観を認識するいい機会でもある。感覚受容の主体性や人間の存在する意味というありふれたテーマを改めて考える機会にも恵まれている。
100分で名著であらすじを知ってしまっているから、僕には感動というものはないけども、さっちゃんとの性行為は、愛ゆえに生じたものではなく、儀式ばったものだった。ギー兄さん自ら露呈させる三位一体説。