This is all of the cruel angel’s thesis from the start.
通称エヴァは、日本では知らない人がいないくらい有名なアニメの一つだ。ただ、このアニメの放映は1995年だそうで、僕が6歳のときになり実際にはみていないという人も多い。
当時はそれほど深夜アニメという枠は一般的ではなく、僕が高校生の時でさえ、深夜アニメはオタクと結びついていた。その時から早十五年近く。日本はアニメ文化というものを認め、多くの人がアニメに対しての偏見を持たなくなった。とはいえ、マルチチュードに漏れず、ただただ幅が広がった故に、認められるものは認められているという表現が正しいのではないかと思う。
つまりは、週刊ジャンプやドラマ化、メディアに取りざたされるといった他の因子によって認められているとみなされたアニメは受け入れやすく認められており、その一方百合やBLといった分類は差別的扱いを受け、認められていない。これまた、メディアの策略のように思う。BLはボーイズ・ラブ(最近はブロマンスという言葉もあるようだけど)の略称で、腐女子が好むものという一般見解を押し付けられている。腐ったという言葉を使われて嬉しいわけもなく、こういった類のアニメの受けはよくない。同様に、女の子同士が仲良くする、登場人物が女の子だらけのアニメを百合アニメというが、これも受けはよくない。この男の愛情、女の愛情は当然一方の性からの視聴を主に狙っており、優遇された差別化したマイノリティへの需要と考えることができよう。また、アニメは異世界ものというものやハーレム(男一人、他は女性)のような現実逃避や理想の追求を表したものが多い。人間は内面をさらけ出すことを怖がり、飾った自分を外に向けている。本当の自分というものを隠す傾向があるので、当然、こういった現実逃避や理想の追及ばかりをしている人の心理は公にはされにくい。そういった影響で、同じアニメというくくりで、つまりは同様の考えを共有しているという仲間意識があるとアニメ好きは集まりやすい。そういった背景があるのではないかと思う。
この視点から、エヴァを観察すると、不思議なことが見える。
というのも、エヴァは最終回まで視聴すると、「人は自分の見せたくないところを隠して生きている。その寂しさを誰かに埋めてもらいたい」という弱さをさらけ出しているから、本当は世間には認められにくいはずだからだ(作品がいかに優れていてもエゴン・シーレの暴力的なエロチシズムな絵が好き!と公言しにくいのと同じ)。この感情は通常は主人公の碇シンジのように、隠していないといけないはずだからだ。
そのため、やはりエヴァは深夜アニメという従来のくくりでマイノリティを対象とした作品とみなしたほうが解釈しやすい。それなのになぜエヴァが人気か。簡単で考えやすい安直な帰結は主題歌の影響だ。歌という媒体は恐るべきものだと思う。歌はまず覚えやすい、耳に残りやすい、何度聞いていても苦痛にならない。そういった記憶に定着するという利点がある。そして、日本特有のカラオケ文化がある。このカラオケ文化もおそるべき拡散力のある慣習で、誰かが歌えばそこで瞬く間に広がっていき、多くの人に影響を与えることになる。カラオケを利用して有名になった歌は数多い。「小さな恋の歌」と並んで「残酷な天使のテーゼ」は誰もが耳にしたことがあるようになった。だから、アニメを知らなくてもエヴァを知っている状態が出てきただけだろうなと感じる。そして、この歌はPVとしてカラオケで流れるので、なんとなくアニメを見たような気がしてしまうのだ。かくいう自分も今年エヴァを視聴するまではそう思っていた。有名で特徴的なキャラクターであるレイやアスカも同様に知らないはずなのに知っている感覚を植え付けることに寄与している。ということで、エヴァは、かなり深く、人の心をえぐるにも関わらず、なぜかみんな知っているし、エヴァ好きといっても偏見なく思われるのはこの理由だと僕は解釈した。
そのエヴァの内容だが、哲学的と言いつつ、最後は個人的には少し残念に感じた。アニメならではの作成の仕方は評価したいけど、作者の考えをそのまま登場人物に話させてしまった点が個人的には残念だった点だ。だが、どうすればよかったか、自分ならどうしたかととわれると答えが出ないので、総じた評価としては高い部類に入る。
特に「自分というものは、他人が形成している。世界はたくさん存在するが最後には一つの世界しか選べず、それは自分が選んでいる」という考えは僕の考えと似通っており、好んで利用する理論の一つである。最終回ではこれまでのセリフを用いて、この疑問をどう解決すればいいかシンジと問答するという手法を取っており、それも面白いとは思う。一方、こんな世界も選ぶことができたんだとシンジは明るいレイと幼馴染のアスカという世界を思い浮かべているが、これはちょっと違うんじゃないかというのが僕の考えである。この考えに即してしまうと、世界は自分の都合のいいように変化させることができるということになっており、これはシンジが意識のみの存在でないと説明できない。つまり、現実は夢でなければならない。この考えに依拠した哲学も存在する。全ての思考と作り出した現実全てが本当に存在するものなのかははっきりしておらず、自分が考えているだけで、その考えている脳が一つの空間に浮かんでいるだけの可能性がいつまでたっても残っており捨てることはできない。この考えは、大学一年の時の哲学の授業で学び、「翔太の猫のインサイトの夏休み」に紹介されていたと思う。そして今では、この考えはゲーテルの不完全性定理からも正しいように思う一方、ゲーテルの不完全性定理を用いることができるという時点で思考の枠を超えれていないようにも感じる。
さて、良いように考えよう。シンジは意識のみの存在で、エヴァや使徒やらは存在しない(シンジが空想しただけ)という可能性もあるのだろうか。メタ的に、この考えは面白いかということを議論してみたい。作品を上から眺めると、この手法は個人の単位では夢オチとも言われる。「クリスマス・キャロル」や名前は忘れたけども村上春樹の作品にもあったように思う。キノの旅とかどこかでみたようにも。過去に判例があれば面白くない(キノの旅はエヴァよりも歴史が浅いけども)ただ、本当に意識だけの存在とやらが存在しているんですよという作品はパッとは思いつかない。そう考えると、この思考は新規性が高く、エヴァはシンジが意識のみの存在で空想しているだけだったという結末もなくはない。
なぜ、この考えが面白そうだと思っているかというと、途中に書いたように、この作品のテーマは「他人にみられる自分、他人によって作られる自分」だと思うからだ。シンジは常に父親にどう思われるかを考え、アスカは自分の価値をエヴァの操縦に見出し、レイは作られた人間で他人によって心を入れられている。葛城さんは加持くんとの肉体関係によって他人を感じ、赤城博士は母からの感情を受け取っている。このように他人との関わり合いが重要であるという哲学があり、人間には元々空白があって、それを補完しあわなければ生きていけないからだという考えが根底にある。これははっきりと終盤で説明されている(その説明されているが故に、陳腐さも高尚さと同時に生み出してしまっている)しかし、僕の考えに沿って、そんな他人との相互作用は虚構で全ては個人の一意識でしかなかったら、と考えると非常に面白い。やっぱり、最終回で見たシンジの妄想の世界が「シンジ次第でありえる世界」とするならば、シンジの意識で全て作られた世界じゃないと説明できないようにも思うし、シンジの意識内の話なのに、他人との共生を図るという逆説的なアイディアが根本なんてと驚愕してしまう。
ちなみに、どうでもいい話として、碇は当然船を波止場に止めるつなぎ、そして、「シンジ」は信じるの言いかけと思うと、信じるか信じないかの狭間で揺れている彼の心を、どちらに止めるか(碇を下ろすか)というように僕は解釈した。
これらの考えは通説じゃないので、あしからず。解釈とかその作品の受け取り方なんて千差万別でいいよね。