レ・ミゼラブル 5 | CACHETTOID

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Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

第5巻。
 
少し冷たい空気の流れる、Scotland Algenda airport, Terminal2。Johan and nystrom cafeにて、熱いコーヒーを片手にレミゼラブル第5巻を読みきった。
誠実で正直で、どこまでもコゼットとマリウスを第一に考え、自分を犠牲にする聖人のようなジャン・ヴァルジャンに感動を覚え、涙が頬をたどる。ハンカチを持ち歩かない性質だから、その涙をパーカで拭うしかなかった。
周りの音は静かに消失していき、本の字面をなぞる。
ヴァルジャンを自分や現代を生きる人に照らし合わせて、いつの時代も同じだということが言えるだろうか、と考えるが、なかなか難しいことのようにも思う。彼らは物語の中、昔の話のように見える。感動に感動が重なる。これ以上の物語を読んだことがない。というわけで、この感動は皆が享受すべきものだろう。
 
幸せとは。
不幸との対比により幸せは明確になる。
人は変われるのか、この答えにLes Miserableは答えない。ヴァルジャンは根からの聖人(初期にパンを盗んだ点も最後まで読み通すと悪いことには見えない。むしろ、非常に人間的である)で、マリウスは少し独りよがりだがすぐに周りに影響される。コゼットは初めから最後まで愛の象徴、可愛らしい天使、華やかで謙虚で慎ましい処女であり美婦人。ヴァジャールは法律の番人であるが、なんと彼の偉大なことか、彼は、この物語の中で成長し、ヴァルジャンの聖人さに打たれてしまう。
テナルディエ。彼は、初めから最後まで小悪党だ。しかし、読者は彼に感謝しなければならない。最後の天使たちの邂逅は彼ありきなのだから。
 
さて、レミゼラブルを読み始めてどのくらいの日がたっただろう。発端は、2年前、レミゼラブルの映画を見てからだ。On my ownが一番好きな挿入歌で、マリウスとコゼットにはあまり魅力を感じなかった。その頃の記録は残されていないが、2002年の作成映画を見たと思う。エポチーヌのマリウスを思う気持ち、ガブロージュのひたむきな勇敢さ、その頃はあまり本から得られた感動を感じることはあまりなかった。というよりも話の流れがよく分からなかった。しかし、本の中で、感じる情景はこれらの映画によっている。
さて、レミゼラブル第1巻を読みだしたのが、2018年10月19日。本日は2019年9月15日。日本では16日だろうか。約1年間かかった。1巻には約2ヶ月。2巻は2週間。3巻も2週間。4巻も1週間半。そして、最後に8ヶ月。
途中途中他の本を読んでいるからであるが、長い道のりだった。これほどまでにゆっくりと本を読むという経験はないので、やはり、この本が自分自身の価値観というものを今後型作るのだろう。
自称フランス愛好家、パリ信者であるが、現実のパリは少し嫌な臭いで満ちていたし、楽しかったが、それほどでもなかった。なんなら、ストックホルムの方が住みよい街だと言っていい。いや、日本が一番か。しかし、住まないのであれば、パリの雰囲気はなんとも美しかった。荘厳な建築物。教会。銅像。美術館。石畳の道。時折の通り雨とすぐに晴れる素晴らしい気候。
レミゼラブルでの地形とかは全然わからないし、ヴァルジャンの終の住処である、ロマルメ通りは、現在のRue Sainte-Croix de la Bretonnerieあたりらしい。自転車で通ったと思う。
 
さて、涙も乾いてきたので、レミゼラブルの内容について。
P91。第一の名シーン。ガヴロージュがなくなるところ。
ガブロージュは、バリケードの前で銃弾を拾い集めているところを銃殺される。映画と同様、歌を歌いながら、蝶が舞うように飛び飛びに歩くが最後には、というシーン。ガブロージュはテナルディエの息子で、母親が育児放棄をしたため、浮浪児になった。バスティーユにある象のモニュメントを寝ぐらとしていた。ガブロージュは民衆を導く自由の女神の左側にいる少年のモデルにもなった事で有名である。映画では、軽快なリズムで口ずさむ歌が耳にくっついて離れないが、どのような歌詞かと言われると答えに窮する。
 
ヴァルジャンがヴァジャールを救って、ヴァジャールが正義とは何か、正しいというものは何かということを考え、答えを無くし、テーヌ川に身投げするシーンは非常に印象深い。
 
法とは。現在における法とは?なぜ、法がなければならないのか。
はるか昔にはハンムラビ法典があった。目には目を。歯には歯を。奴隷制度というものもあった。モンテスキュー、ルソーは民主権の理論を生み出した。
全然知識がないので、知っている人に教えて欲しいが、そもそもなぜ、法があるのか?法を定めることによって、人々が幸福に過ごすことができるようになる。人の最大の目的は幸福にある。この根本定理からスタートすると、幸福になるために法が必要だということ?どのような法が。誰を対象に。まずは、フランスの中でも国王だとか上流貴族だとか、それら法を定めた人にとって幸せになるための規則という位置付けができそうだと思う。仮に、奴隷にそれらの規則が必要として、「解放しろ」が規則となりうるとしても、その規則を認められなければ、法としては機能していないから。ということは、権力が背景にあり、その権力を守るために規則がはじめは作られる。その権力というものは王ということになるか。武力を持っていれば、そこに権力が集中する。父親が最も権力を有していれば、家族内での決まりは父親に終始する。権力が分散し、一個人、一集団の力が弱体化すれば、全体における幸福の和が重要となる。権力の集中が生じても、その権力を権力者が分散すれば、法が権力者となる。さて、法ではなく、宗教が権力を保持すれば、宗教がある種の法となる。科学が権力を保持すれば、AIが権力を保持すれば。父親が権力を保持した時に、その息子、配偶者に同様に権力を与えようとすれば、どうすることが最も自然だろうか。法がない世界では、力が全てとなる。力は暴力も知力も含む。ある力を持ったものに逆らうと自分自身に不利益が生じるため、その力に逆らわなくなる。その人がいうことが正しいとその社会では見なされる。権力者は、自分ではない力を有さないもの、つまり、同胞、娘、親戚、気に入ったものを守ることを考える。利害関係のもと、自分自身に利益を与えるものであったり人を守ろうとする。力がなければ、幸せを勝ち取ることができない。周りや敵も同様に力を得ようと躍起になっている。そのため、それらに力を与えることが重要であろう。どのように力を与えるか、屈強な男どもであれば、訓練し、そのままの意味での暴力を与えることがいい。武器があるのなら、武器の使用方法を強めればいい。が、しかし、武器はすぐに流通してしまった。小さなナイフが大の大人にまさってしまった。銃剣に素手の暴力は簡単に屈してしまう。どうすれば、最も簡便に権力を保つことができるか。多数を作り、その組織の目的を一つにする。目的とは。決まりである。法律が完成する。
 
自然法
決まりの中には、自然法のように当たり前の倫理として既に与えられていると考えらえるものもある。つまり、自然が全ての生き物に与えたものである。例えば、婚姻、子供の出生、養育といった生きるものに必要なものを守ることを当然と考えることは、この自然法に則っている。これをある意味では、義務ともいう。対して、国家や君主が制定した法律があり、これらは必ずしも普遍的とは言えない。後者の法律が自然法化していくと、ある種の法律至上主義が生まれる。
この事態は現代人の考え方にも大部分通じるところがある。人のものを盗んではならない。人を殺してはならない。強姦してはならない。高速道路を130km/hで走行してはならない。赤信号を無視してはならない。明文化された法律もあれば、非文法もある。それでも、倫理とか決まりとかそういったことを最上と位置付け多くの人は過ごしている。決まりというのは、科学にも当てはまり、科学を一つの決まりとすると、科学に外れたものは間違っていることと解釈される。
ジャベールはこの法に付き従って生きてきたが、ヴァルジャンの法を超えた行動に、厳密には、自然法にというべきと思うが、法とは何かが答えられなくなる。マリウスも最後の場面では法を最上としていることがわかり、徒刑囚であるという事実から、ヴァルジャンを卑しいものとみなす。法と理念についての考察は泉鏡花に譲りたい。法はどちらかというと男性を想起させ、理念は女性を想起させる。女性は法を超えて自然を守ろうとし、男性は決まり事を大事にする。いつも約束をするのは男性で反故にするのは女だ。女は感性を重要視し、男は理論を重要視する。
2分化して物事を考えることは本質を捉える上で便利な面もあれば、逆に欠点も多く存在する。法と倫理。感性と理論。本能と理性。それぞれは、相対する時もあるが、被っている部分もある。
 
そして、愛。愛とは。愛とは、誰しもが享受し、それのために生き、それを求め、溺れるべきである。愛とは、なんと崇高で、甘美であろう。愛の前には何もかもが屈するのである。驚くべきことに、愛には順位がある。愛は彼らの目を隠し、時に行動を制限し、時に行動を誇張する。
愛の形は多様である。マノンのようなものもあれば、譲治のようなものもある。日本人の愛と欧米の愛は異なるし、表現方法も違う。