ブルーノ・ムナーリ 「役に立たない機械をつくった男」@世田谷美術館
By all means, marry. If you get a good wife, you'll become happy; if you get a bad one, you'll become a philosopher.
Socrates
車の中で、実践ビジネス英語を勉強している時の言葉。
世田谷美術館を来訪するのは初めてだった。小平市から1時間半以上車でかかった。ひとえに交通渋滞のせいだ。
渋滞という予測できない因子の影響で僕の予定は大幅に乱れた。
世田谷美術館は砧公園(”きぬた"と読めなくて、なぜかずっと”はま”と読んでいた)の中に位置する。駐車場がかなり離れたところにある。駐車場は空いていて自分の車を含めても10台しか停まっていなかった。
紅葉などで人が賑わうのかと思われる砧公園は閑散としていた。もちろん、クリスマスシーズンだからだろう。
世田谷美術館の展覧会は、「ブルーノ・ムナーリ、役に立たない機械をつくった男」展と「アフリカ現代美術コレクションのすべて」だった。
時間がないことに加えて、「アフリカ現代美術」については、知識もない、音声ガイドもない、図録もないで結局何となく見ただけに留まっている。
ブルーノ・ムナーリ展は、是非とも子どもの親に見て欲しい展覧会だと思った。もちろん、子どもが見るというのでも良い。かなりのインパクトを与えてくれるはずだ。即、子どもの教育に役立ちそうなことが多かった。もちろん、幼児から知らしめた方が良いと思うので、正確には子育てを始める家庭に最適だと思った。
意識改革。
この響きを最近気に入って使用しているのだが、教育というものはこの「意識改革」に他ならないのだろうと思っている。昔、家庭教師をしていた時期があるが、家庭教師によって子どもの学業成績が伸びることは望めない。なぜなら、子どもが家庭教師に触れている時間は1週間のうちたったの2時間だったりするからだ。つまりは、2/(24*7) = 0.0119なので、約1.2%しか子どもは家庭教師から教育を受けていない。仮に睡眠時間を10時間としても2/(14*7) = 0.02, 2%しか占めない。そのため、重要なのはそれ以外の時間ということがわかる。とはいえ、自分の人生を思い返すと、ある言葉が自己形成に大きく関与していることがある。その言葉自体に触れる時間は10秒程度なのに何故なのだろう。
自分の考えという仮説の域を出ないが、気づき、感動、恐怖などに基づいていると考える。これは、いわゆる「アハ体験」であるし、「意識改革」である。感動という感情は、平坦な記憶とその貯蔵、表象を司るループ以外にも違う部分を使っている。違う部分を使うこと自体が記憶しやすくなるという結論に結びつくとは思えないが、記憶というものは、所詮、表象されて初めて認知されるものだということを考えると、通常のループ以外にも表象のトリガーとなりうるものが多ければ多い方が覚えやすいという仮説が成り立つ。これは、現象論としてはかなり根拠のある話で、単語単語を覚えるときに物語化すれば覚えやすいという実験データや、語呂合わせを作るときに下ネタを持ち出す方が覚えやすいということ、ただの文字としての知識よりも見たものの方が覚えやすいという現実からも理解は容易である。
ブルーノ・ムナーリは、この「意識改革」をしてくれるものを提示してくれる。
彼はイタリア未来派の影響をもろに受けている。このイタリア未来派は、確かにデュシャンなど近代美術の父の力をふんだんに利用しているのであるが、かなり新しい力を与える。ジャコモ・バッラ(Giacomo Balla)、ウンベルト・ボッチョーニ(Umberto Boccioni)、カルロ・カッラ(Carlo Carrà)、ルイジ・ロッソロ(Luigi Russolo)などの作品は機械的、運動的な印象を多く受ける。この後の系譜としては、もの派が値するのではないかと思うけど、自信がないので成書を確認したい。Giacomo Ballaは[Dynamism of a Dog on a Leash(1912)]しか知らないし、なんかアニメーションみたいで可愛いので一度見たら忘れはしないと思う。Luigi Russoloは騒音芸術(L'arte dei rumori)、楽器?イントナリモールなるものを作成している。Umberto Boccioniは「空間における連続性の唯一の形態」が有名である。自分としては「階段を降りる裸体(デュシャン)」の彫刻版に見える。
キネティック・アートを提唱したのはデュシャンであり、本展覧会の「何の役にも立たない」ものは、キネティック・アートの一種だろう。小学生の時にだれでも、釣り合い(天秤)について勉強をしたことがあるだろう。それを思い出させるものだ。素描では、どのモーメントを作れば釣り合いが取れるか計算をしながら作成し実行される。
現実的には、元々の設計に加えて実験ができるので、作成は簡単である。「そのやり方を知っていれば簡単なこと」である。
個人的に大変面白く思ったものは、「おしゃべりフォーク」と「偏向器」である。
他にも「木を描こう」「自由な時間」「ハイ・テンション」「黒い彫刻」「短い訪問者のための椅子」「凹凸」などなど独創性に溢れた大変面白いものが多い。
おしゃべりフォークはフォークの先端を捻じ曲げてフォークに感情を与えた作品である。言われれば、もう自分でもできる。しかも、この独創性をあらゆる点に応用することができる。フォーク以外のもの、例えば、シャツでもズボンでも、手袋でも同じ試みができる。しかし、自分には思いつかなかった。そして思いつくとは思わない。感情というものは、表層に流出しているものであり、そのことは文学を嗜む人であればだれでも理解しているはずだ。Lost generationの文学を確認したらいい。それに、良い作者というものは感情を書かなくても感情を際立たせることが上手だ。京文化のようにironicalな面がある文化もあるが、それも含めて行動や行為はその人自身の感情を表に晒す。フォークも同じだ。その通りだ。同様に、目、鼻、口があれば顔になる。構成によって、顔は表情を生み出す。VS Ramachandran博士が伝えるkikiとBoubaと同じだ(脳の中の幽霊、https://www.ted.com/talks/vilayanur_ramachandran_on_your_mind#t-1294577) 。
言語とは何か?人が伝えうることは何か?を考えるに良い機会だった。
ブルーノ・ムナーリは、著名な言語学者であるウンベルト・エーコとも知り合いであるし、この言語というものにも非常に興味を持っていたのだという。まだ薔薇の名前も読めていない(挫折した)自分としては耳が痛い。
そして、形に対する意識。
ギフトショップには、「まる」「さんかく」「しかく」の本が売っており、どうしても購入したかったが、総額が1万円も越えようとしたので諦めた。特に秀逸なものが「しかく」。彼は特に正方形を好むが、「凹凸」では、この正方形を歪めて不思議な形を作り出すことに成功している。幾何学を納めていなければ哲学ができなかったとプラトンは言っていたような気がするし、スピノザのエチカはなんとも幾何学的な論理学的なものであるし、同様の観念を感じた。
ブルーノは木を観察して、木の成長には規則性を見出せるのではないかと考えた。これは僕も完全に同意見。
繰り返しの過程を経ることで形が作られていく。
「木を描こう」という作品に込められた石が見える。
「木」というものは想像しえた形を呈しているか、それとも否か。僕は、想像しえた形の木は存在する、ないしは、存在したと考える。例えば、一本の幹から二つの幹に枝分かれをし、その二つの幹はさらに倍に枝分かれをする。葉はある規則に則って枝に付き、重力と風邪と太陽光に依存しながら枝の伸張と後退を繰り返す。結果、一つの木が想像されるが、もちろん、その想像は現実に合致しない。杉と松と桜ともみの木とと、木は種類によって違った形を呈するが、それは、コンポーネントと規則性の順序とが異なることによって生まれた差である。歴史的に生存競争に打ち勝てず消失してしまって存在し得なかった木も存在するだろうが、それは存在した後に消失したと考えるか存在しなかったと考えるかは人に任せる。僕は存在した後に消失したという理論を信じる。これは、ブルーノのどのような芸術形態にも合致する。そもそも、色彩論や不協和音だって同じようなことを言っているのだと思う。ドミソではなくてドレソだって存在しているが、協和音から外されているだけだ。
大変面白い企画だった。
行かれていないかたはぜひ。