漫遊最終日、最後の地。
大聖寺駅からタクシーで10分程、日本海に面した地へ向かいます。
<旅の行程>
1日目:金沢
2日目:金沢→羽咋→大聖寺
3日目:大聖寺→加賀橋立
そこには、かつて北前船で財を成した船主の集落があります。
日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」としても登録されている、橋立集落です。
◆加賀橋立◆
(国選定重要伝統的建造物群保存地区)
北前船の里資料館(旧酒谷長兵衛邸)
(国登録有形文化財)
*入館料¥350
北前船で巨万の富を築いた、酒井家の旧宅を資料館にしたものです。
*記事は次回
資料館にあった集落のジオラマ。
ここ橋立は、元は半農半漁の集落でしたが、江戸時代後期に北前船の船主に転業する者が増え、最盛期には100隻以上の北前船を所有する程になったそうです。
橋立支院
(宗派:浄土真宗大谷派)
明治5年(1872)の大火で焼失した因随寺の代わりに、京都本願寺福井別院の支院として創建されました。
板で覆われた雄大な御本堂。
死と隣り合わせだった船主たちの魂の救済、失われた命の供養をしてきたのでしょうね。
MAGONDO
古民家をリノベしたレストラン兼コンドミニアムです。
福井名産の笏谷石の石畳。
独特の青緑の色合いが雨に濡れて艶やかに。
舟板の蔵や家屋は船主集落ならでは。
土台には笏谷石が使われています。
民宿 北前船
集落には民宿もありました。
この地から望む星空はどんなだろう?
集落を抜けると日本海。
戻りは別の道で。
集落は海風を避ける為、谷間に広がっています。
寛政8年(1796)には、30〜40名の船主が居住していたそうです。
かつて、"日本一の富豪村"とも呼ばれた集落も、今ではひっそり。
明治時代後期になると、鉄道や汽船の登場で北前船の活躍の場は激減、船主達も北海道や神戸へ去って行き、家屋だけが残されました…
無言でその栄枯盛衰の歴史を語っているかのような、舟板張りの建物たち。
カフェの看板を出している民家。
集落の住民の憩いの場?
忠谷家住宅
(国指定重要文化財)
天保年間(1830〜1843)に忠谷久五郎が建てた、集落最古の船主屋敷です。
明治晩期に漁業に転じて、樺太へ漁場を拡大し、樺太を代表する漁業家となったそうです。
山陰地方を思わせる赤瓦の風景。
通りを戻り、集落の南へ進みます。
舟板張りと笏谷石が醸す美しさに見惚れて。
蔵六園(旧酒谷長一郎家住宅)
(国登録有形文化財)
*入館料¥400
幕末〜明治初期に建てられた、北前船の船主・酒谷家の旧宅です。
*記事は次回
その建物は勿論、展示販売されている骨董品の数々が見所。
迫り来る舟板張りの景観。
突き当たりに町の守護が鎮座しています。
出水神社
(主祭神:天津日高彦火々出見命・豊玉姫命)
景行天皇17年(87)、漁の守護として祀られたのが起源と伝わる古社。
その後、遷座や合祀を繰り返し、明治時代晩期に現在の形となりました。
通りを振り返る。
物と金と情報の流れを征する者が天下を取るのが、時代の常。
江戸時代に勃興し、その全てを運んだ巨大な輸送船、北前船。
明治時代になると、鉄道や道路網の発達により巨大帆船はその覇者の座を譲り、輸送航路も日本海側から太平洋側へと移り行くのでした…
旅をしていて巡り合う栄枯盛衰の風景。
栄華は色褪せても、それを伝える建物や風景が残され、訪れる者の心の中で色鮮やかに蘇る。
次回、船主屋敷の記事を送ります。
(石川県漫遊も残り2話)
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