佐倉市山崎道祖神にあるエノキ。たまたま見つけたのですが、立派だったので写真を撮りました。
推定200年。江戸時代道路守護の神として祭った時に植えられたものだそうです。
根元には、お地蔵さまや青面金剛などの石造物が並んでいます。住宅地建設で、ここに集められたのでしょう。
左わきに道祖神社。
その隣には仙元神社。
”仙元”は”浅間”と同字だそうです。鳥居の両脇に、富士講碑があります。
さらに進むと八幡神社があります。
素通りしようと思ったのですが、あまりにも立派な木が多いので、引き返しました。
スダジイやスギが保存樹に指定され、樹齢350年にもなるそうです。
アオジも見つけました。
次はお目当ての岩名麻賀多神社へ。
印旛地方には麻賀多神社がたくさんあるのです。というか、印旛にしかないといった方がいいでしょう。
過去に数社訪問しているので、いくつかリンク張っておきますね。
こちらも立派な木がたくさんあります。スギ・シイ・カシが保存樹にしていされ、樹齢は200年。
社殿
ご祭神 稚産靈命
本殿
貝が散らばっています。実はここには遺跡があるのです。
岩名天神前遺跡
今は宮前中央公園になっています。
岩名天神前遺跡(いわなてんじんまえいせき)
― 再葬墓研究の原点 ―
岩名天神前遺跡は、佐倉市岩名396番地にあり、関東地方では最も古い弥生時代の墓の遺跡です。1963年も暮れようとするころ、毎日新聞千葉版に、偶然にも佐倉市の農家の人が、芋掘りの最中に1個の土器を発見したという記事が掲載されました。この記事に注目したのは、弥生文化研究の権威者・明治大学の杉原荘介博士でした。そして、1963年と、翌年の2回にわたって発掘を行いました。 その結果、東日本では最も古い特徴を持つ弥生土器や管玉といった遺物や人の骨などが発見され、しかもその墓は2度埋葬する珍しい墓であったことがわかりました。そして、弥生土器は、骨を納めるための器であったのです。博士は、特に東日本に見られるこのような墓地に対して[再葬墓]と名付けました。
この岩名天神前遺跡の発掘を契機に再葬墓の研究が一段と進みました。国立歴史民族博物館の春成秀爾教授は、この墓の第一次埋葬について研究を進め、石器で遺体を解体する方法、土器に炭化物やススが付着したり、土器の表面が小剥離していることなどから、人の肉を煮て解体する方法、あるいは遺体を焼く方法などの可能性を提示されました。再葬墓を取り入れた地方の弥生人にとっては、死者を弔うための最良の方法であり儀式であったのです。このように岩名天神前遺跡の発掘は、再葬墓研究の原点でした。
(「原始・古代の佐倉」佐倉市市史編さん室)
採集された遺物には縄文時代最終未の土器も含まれており、縄文時代後期以降も集落や貝塚が営まれていたそうです。
やっぱり、あの大量の貝は貝塚だったのですね。
麻賀多神社の裏
「隣に麻賀多神社があるのに、なぜ”天神前”遺跡なの?」と不思議に思って調べてみました。
麻賀多神社の手水石の梅鉢紋と文化七年の銘から、以前ここに天神があり、
”天神前”の小字がついた
小字がついた頃は、麻賀多神社よりも天神様の方が勢力があったのでしょうかね~。