と大げさなタイトルではありますが、
先日合否発表された某士業の資格を取得することができました(2回も落ちましたけども何か?)。
明治時代以降の旧華族の系譜というわけではなく、弁護士や公認会計士という士業でもないところが、
私ども家系の過去と現在の限界を表現しているわけであります・・・(もちろん言い訳です・・・)。
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私が社会に出たのは1998年です。
所謂「失われた10年」とブンヤが日ごろよりよく表現するその期間を折り返した後でした。
「社会に求められる人材とは」という命題に、
「ゼネラリストではなくスペシャリストである」という答えが模範とされるそういう時代でした。
その後長い期間を経ることなくその模範解答は、
「スペシャリストではなくゼネラリストである」と書き換えられる事となります。
私が新卒後、門を叩いたのは証券業界です。
私どもの家系は、親族一同某○応義塾大学を卒業後に銀行業に進むのがそれなりの仕来たりです。
親族の中には、某○稲田大学政経学部を蹴ってまで当該大学に進み、
今現在は、政府系金融機関に勤めているものがあります。
そういった人生の歩みが、情けなく小さいながらも我が家系のステータスなんです。
その歩みだけが、幸せになる唯一無二の方法であると今現在でさえ確信している、
そんな馬鹿なステータスと家系なんです。
かくいう私めは、
以前ご紹介した通り英語が苦手な故、某○応義塾大学など受験さえも許されず、
就職活動に際しては、
銀行業系で内定をもらえたのは信用金庫止まりだった始末なんです(信金マンさんすいません)。
そんなこんなで就職氷河期でもあった当時にようやく就職した証券業界でしたが、
「入社後3年30%退職」のご多聞にもれることなく後を去ることとなります・・・。
今思えば、この退職による人生の負債をどうにか相殺したいという思いが、
士業を行える資格の取得を目指す大きな原動力になったように思えてきます。
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ハリウッド映画に「ウォ-ル街」という映画があります。
監督であるオリバーストーンの父親が証券マンだったこともあり、
証券マンと証券マンじゃない者の描写が、
元々証券マンだった私にとってはとても愉快に描写される映画に感じ取れるものとなっています。
主人公の証券マンにはチャーリーシーンが、
その主人公の工員である父親役には実父のマーチンシーンが登場します。
物語の後半に主人公であるチャーリーが、
父親であるマーチンに詰問を繰り返し、そして応酬される場面が長回しで映し出されます。
その中の父マーチンが言う台詞にこういったものがあります。
「おまえは財布の中身だけで人を判断するのか」
というものです。
私にとってこの映画は、この台詞を聞くためだけに、
いや、この台詞を聞きたいがためにある、そんな場面なんです。
学生時代から好きな映画で、
親族一同がアレで、
私自身が証券マンで、
世の中は長銀の支店長でさえも首をつり自ら命を絶つ、
そんな金融不安が蔓延る中を経験した者として、
私自身の当時の判断が正しかったのかという自問自答は、
証券界から外れてから間違いなく毎日繰り返し苦闘させられるものとなっていきました。
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大切にしている証券会社時代の上司が発した一節があります。
「知らないことは罪」
というものです。
先述の「ゼネラリストではなくスペシャリストである」という時代背景を顕著に表しているものに思えます。
そして当時の上司の年齢は、今の私の年齢と同じです。
この言葉は私にとっての宝物です。
仕事をする上で言い訳の「い」の文字さえも見つけられない場所まで導いてくれる、
最高のエッセンスだと思うからです。
私が専門職志向なのはこの言葉のおかげです。
厳しくも心の豊かだったあの上司と、厳しくもやはり厳しさだけしかなかったあの業界から、
後ろ髪を引かれる思いで退場した私の人生の負債を一部だけでも償却することができた想いを持てた、
そんな今般の合格通知だったのです。
そういった人生の歩みが、情けなく小さいということを実証させてみせられる、
我が家系には大きくとも、世間に対しては非常に稚拙で矮小な、
我ながらのレジスタンスの始まりを告げる、そんな今般の合格通知なんです。