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あるハリウッド俳優に、AIがこう答えます。「私はあらゆる言語を習得し、ニュアンスさえも学習していきます」と。あるハリウッド俳優は驚いて見せて、更にAIはこう言葉を続けます。「私は女優になれますか?」と。

AIとは、簡単に言えば人工知能を有するコンピューターを指します。今までゲームや映画などを通じ私達は接してきた訳ですが、ここに来てさらにその領域を広げようとしています。私個人としては、ゲームや映画とは無関係な位置で仕事をしていますが、本年仕事上の打ち合わせでAIが主題で取り上げられました。

私達はこれから、より身近になるAIという存在と、どのように向き合い接していくのでしょうか?

言葉の概念を積み重ねて学習していくであろうAIという知能が、ある方程式に合致したときに人間という生き物が、時に頬を緩めて時に目から涙を流したとき、「感情」というものがあってそれには「温度」というものがあることを知ったとき、AIは己が人間という生き物ではなく、人間に創られた単なる無機質な物体であることを知ったとき、彼らは何を学習するのでしょうか?

「私は女優になれますか?」と自虐的な言葉を使うAIに、あるハリウッド俳優は苦笑してそのCMは終わります。自虐的な言葉を使った後の相手のリアクションを観て、AIは「冷たい」虚しさを「感じる」事ができるのでしょうか。
戦後71年、ようやくという感か。

謝罪だの、滞在時間の長さだのと、両国を挟み様々な感情や思惑があるのでしょうが、私は素直に歴史が一歩前に進み、日米間の新たなる関係構築へと一役買う大きな出来事であると思っています。

レームダックに陥った時の権力者の行いとして、打算一辺倒というよりも自身の価値尺度により近しい行いを選んだオバマの今般の決断は、原爆の唯一の被爆国の住人として、我々は一定の評価をしなければならないのではないでしょうか。

政治家の行いなどと小馬鹿にせず、あの原爆投下国の米国大統領が、あの被爆地広島の地を訪れる日などに我々は遭遇できる、その意義を感じる事が、唯一の被爆国の住人としての大切な行いであると私は思っているんです。

憲法改正論議が、自民党への政権交代期を境に盛んになったような気がします。憲法改正=9条の改正と、その公式が誰の唱えと知ることなく周知されていることも、私なんぞからすれば大いに歓迎するところです。


9条の改正論議を挟んで、自衛権から個人の主権の定義づけまで、その話題は幅広く展開されます。「国」と「個人」の間に何があるのか、我々は戦後初めてその事に答えを求めはじめているのです。


私個人の主観として、市井に生きる我々の価値観の根幹は、60年代から70年代の全共闘や安保闘争などに汗を流した、所謂当時のある意味でいう「インテリ」が創り出したものであると思っています。


結局この多くの彼らは、右肩上がりに成長する経済という潮流に流され飲み込まれ、革命を起こせずに事実上消え去ります。しかしこの馬鹿世代の自称「インテリ」達が、経済という潮流を受け入れた事により享受してしまった副産物が、今日にまでしっかりと息づいてしまっていると私は考えているんです。


何が息づいてしまったのか。

それは、「責任の所在なき個人主義」、というまったく馬鹿な日本国有史以来最悪の価値観です。


米国は、その建国の理念に「自由」を掲げています。そのアメリカですら、自国の防衛に自国民を必ず投入します。一方わが日本国では、自国の防衛はおろか、同盟国の窮状に際してさえも援軍を遅れない為体。時にわが日本国が「サムライの国」とか、本当にその文言を標榜していいものなのか、その実情の真偽に疑わしさを感じずにはおられません。「我が子を戦場に送り出すなんて」などと、涙ながらに訴えるご婦人の姿を、連日テレビで姿かたちを変えども放映しているようでは、他国民は「日本国は、遠い昔サムライの国だったんだ」となんの紛れもない真実を言い当てて解釈することでしょう。


昭和20年代前後生まれの質の悪い日本人の多くが、前期高齢者から後期高齢者へと時間を進めようとしています。私も含め、不幸にも彼らに産み落とされ教育された身としては、彼らが行ってきたことに対する評価を、彼らが息をしているうちにしなければならないと考えています。その一つの指標がこの憲法改正であると、私は思っています。


安保闘争で散々米国を否定しておきながら、その安保体制下でその恩恵を最大限受容してきた彼らを、私は決して許しません。



私は関西出身なので当然虎党❗、
と言いたいところですが、実は違います。

虎党だった頃がありますし、今も巨人に勝つと嬉しいです。
では巨人が嫌いか、と言うとそうでもありませんでした。
FA制度が出来るまでは、巨人ファンでした。
今までの生涯、巨人ファンが一番長かったと思います。
京都人の阪神嫌いって奴です。

ある時期お付き合いをしていた彼女が、高校野球のファンでした。その影響もあって、高校野球をよく見るようになります。野球というスポーツそのものが好きな人ほど、高校野球が好きだと言いますが、高校野球をよく見るようになり、贔屓にしている球団なんてどうでもよくなります。休みの日にテレビをポチッとし、中継があれば何の拘りもなくずっと観ていられるようになりました。

今は休日の朝に放送される、大リーグ中継をよく観ます。応援合戦の無いフィールドに選手やアンパイアの声、ミットに収まるボールの音にユーモア満載の観客の表情をテレビは伝えてくれます。

何で野球が好きなのか、ともし誰かに問われても、
私には明確な答えはありません。
特に熱中して打ち込んだスポーツでもないのに、
なぜ野球というスポーツが好きなんですか、
と問われても答えられないと思います。

好きだから好き、
それが私の野球っていうスポーツの話になります。

しばらくブログを書いていませんでしたが、

また、徒然思うところのブログを書いていこうかと思案しております。


「日本死ね」ブログが話題になりました。

あの文章、とても胸を打つ内容だったと思っています。


言葉が乱暴だとか、イデオロギーの行きつく先だとか、

そんな「お行儀」など小生にとってはどうでもよく、

今の若い世代の方々の代弁者として、

あの文章が齎した効力に、日本人のこの先の未来を感じられたと思っています。


野党の何某が国会に話題を提示し、

何やかんやとありましたが、与党がその後予算を建てる。


国民にダイレクトに影響を与える予算が、

このような形で成立することは、とても大切な流れなのだと思います。


文章というのはとても面白いもので、

一つの単語の周りに装飾できる言葉が多い日本語は、

文章そのものにその人の個性が宿ります。


言葉が乱暴だとか、イデオロギーの行きつく先だとか、

そんな「お行儀」を超えられる「日本死ね」ブログの文章(筆者の個性)は、

すべての日本人の感性を揺らすことができたものだと言えます。


小生などが誰かの感性を揺らす文章を書ける、などとは思っていませんが、

「日本死ね」ブログを読んで、また文章を書いてみようと思ったのが本音のところです。


拙い単語の羅列になるでしょうが、よろしくお願いいたします。


本年我が国は、戦後70年の節目を迎える。


今NHKでは、沖縄戦に関する特集を集中的に行っている。


沖縄県に対する感情は、あの常にお帽子の着用を辞すことのできない知事の行ないが元で、
様々な方向に日本国民のそれが向いていることを、私は理解している。


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沖縄という地は、元来琉球と呼ばれる独立国家で、
日本や大陸、東南アジアにかけて通商を基板とする貿易立国である。


幕末の時代に薩摩藩に併合されそのまま明治維新を迎える事となった彼の地の者達の気持ちは、
遅れて加わってきたことによる「連綿と受け継いだ負い目」がそうさせる、
とても「か細く危うい」ものだった。


ミッドウェーの大敗後、講和の時機を事実上逸した我が国は、
少年兵を特攻の道へと向かわせ、沖縄戦の直前には戦艦大和を死戦へと送り込み、
本土の主要な都市は、米国の長距離爆撃機による空襲で悲惨な地獄絵図へと血で染め上げ、
そしてこの沖縄という地が、日本国亡国への最終局面の序章を奏でることとなる。


沖縄戦の特徴は、多くの一般市民が軍隊とともに戦いに参加したことにある。

戦力的な優劣が自明で、劣る国が最後に行う大きな戦闘がゲリラ戦になることは、
時代の新旧を問わず、そしてそこに女性や子どもたちが担ぎ出される事は、必然となる。


「連綿と受け継いできた負い目」が、日本帝国軍の発する言葉を純真に受け止めさせ、
「か細く危うい」彼らの気持ちが、壮烈なゲリラ戦や壮絶な集団自決へと走らせた。
起爆装置を持たず爆弾を抱えたまま、当時の最新鋭の戦車に特攻を仕掛け、
米兵から隠れている最中に、泣き止まぬ我が子の首を締め上げたその時々の彼らの目を想う。


今現在にさえ断ち切ることのできないこれら負の連鎖は、
70という数の時間の経過では、まだ短いということを立証しているのかもしれない。


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この沖縄地上戦が、連合国側の死傷者数が齎すことによる、最悪のシナリオへと日本国を誘う。



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テロの抗議に、

そのまたテロのきっかけとなった風刺漫画を新たに掲載する。

そして、顔出しバンバンの記者会見とか・・・。

まさに、どのツラさげてとしか言いようがない。


言論の自由を声高に叫ぶのは良いとしても、

その事による対価を、

叫んだ当人ではない一般市民が払っていることをどう思うのだろうか。

犠牲となった一般市民の遺族もまた、

新たな掲載に対し無遠慮に歓喜の声を上げているとでも言うのだろうか。


アホはアホほど、他人の土俵に上がりたがる、

この方程式の洋の東西を問わない証明が、

今般もまた白日に晒されることとなったわけである。


同じアホでもヘイトスピーチとやらで、

一般の朝鮮人に向けてデモをやっているような輩の方が、

まだ少しは行儀の良さを感じられる気がする。


おそらく、たぶん、気のせいだとは思うが。

長らく充満していた、反日本人的思考の世相が、
ここに来て、日本人的思考の世相の定着へと成し得れるのか、
そのことを今般の選挙を通じて、後世の歴史家は何らかの評価をするだろう。


左に伸びきっていた世相のその振り戻しも、
右に伸びきってしまわないようにしなければならない。


「熱狂的」な性格を有する我が民族は、
他人の行いを見ながら大多数と判断すると同時に、
その行い自体を是とする傾向が多分にある。


土を耕してだけいればいいものを、
算盤を弾いてだけいればいいものを、
こういった者たちが、大正期以降多く世に出たばかりに、
現在の日本国は、さも卑しい国に成り果ててしまった。


「サムライ」の国が、聞いて呆れる。


右傾化傾向は、大いに結構である。
そもそも今までが、左過ぎたのだから。
だがこれからの問題は、その振り戻しの幅をどの角度に定めるかにある。

高倉健が亡くなり、菅原文太が亡くなり、
時間の駒がまた一つ、先へ進んだ事を象徴させます。


追悼の映画を変え替え観ておりますと、
昭和40年代、50年代の日本人と今の日本人とでは、
同じ言葉を使いながらも、感性が異質である事に気付かされます。


30年前、40年前の人間と、感性が異なるのは当たり前なのかもしれません。
環境が育む感性というものは、その土壌となる30年前、40年前が生み出す結果だからです。


国中を大手を振って歩いている今の60歳代を見ていると、催す吐き気が止むことがありません。


本年9月11日、朝日新聞が謝罪会見を開きましたが、
当該問題は、朝日新聞が捏造記事を掲載したことが主題ではありません。
この記事を読み、何も考え感じることなく信じ込んだ多くの国民にこそその責任はあります。
あれら記事を読んで、違和感なく信じ込んだ主世代が今の60歳代なのです。


彼らが作り上げてきた環境は、ドス黒く濁り日本人を破滅へと向かわせていました。
その時代も、まもなく終焉を迎えます。


世が平成となってからの26年目が、まもなく終わろうとしていますが、
私たち今の日本人は、30年後、40年後の為の良い土壌を築けているのでしょうか?

(敬称略)



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