本書が書店の平台で、しかも郊外の書店で高々と積み上げられているのを見て、ああこれは、語るに苦しとの気持ちを持った。小説が小説以外の衣装を纏い、メディアの中を高速で疾走(消費?)するとき、そこには作品云々の評論以外の過剰に悪意もしくは過剰に擁護された言説が流布する。その嵐に身をさらすまでもあるまいと思ったのだ。村上春樹がムラカミハルキとしてメディアを駆け抜けるときそれは、もはや記号として、明滅するビットに過ぎない。刈り取られた創作の畑には乾いた土塊しか残らない。そこには創作の繊細さも機微もない。といって、このハイパー資本主義において文学の商品としての消費を否定しようとは露も思わぬが、積極的にその刈りに参加しなくても良いと思っているのは事実だ。
が、結局、気になる作家ではあるし消極的に嵐が去った後にでも読むかと、悠然と構えていたのもつかの間、仕事の関係で読まざるを得ない状況になり、ポン!と本書を与えられた。口に糊するため背に腹は変えられず、読了。
すぐさま、芥川作家のK、もしくはノーベル賞作家、キーウェストのHを思い浮かべた。Kは創作に行き詰まったのかどうかは知らないが、辺境を美食と美女を求めて旅し、ふくよかに太りエッセイを量産した。晩年、若年の繊細さは微塵もなかった。Hは動乱をもとめて彷徨ったが、戦乱、動乱なき世界を描く事ができず、銃口を口にした。
そして、姪に手を出した(姪だったよな)田山花袋や島崎藤村などの私小説家を思いだした。姪を手込めにしても嘯く彼らと、なるべくしてなったこの作品の著者との違いを思った。現実に事件を起こしてそれをものにする私小説家の老獪と、期待されるストーリーを期待通りに書ききった妙齢の著者との違いを。実直だけに痛々しく、作品以外の雑音が「史上最年少芥川賞受賞」という逃れられない呪縛から沸き出す、著者との。
小説家、高橋源一郎は著者の『蹴りたい背中』だったか『インストール』を読んだ時に、「これは、いけない!」と思ったらしい。私も、この作品を読んだ時に同様の思いを持った。あまりに小説らしい小説。完成度の高さ。それ故に、その背後で作為的な著者が見えないところが不気味だ。それは、優勝を約束されたチームが優勝を逸した後のの消化試合を見ているような気がするのだ。そこで放たれたホームランは、消化試合だから、と無視されるのか、それとも記録狙いの個人プレーと揶揄されるのか。
どちらにしろテーマ、文体、才はあるのであるがそのことにどこまで意識的であるかどうか、そこが、きもである。無自覚であったとしたら、次作は期待されまい。

綿矢 りさ
夢を与える