「最近の小説は・・・・・・」云々といった、書評や読書好きの諸氏の話を聞くにつれ、そこはかとない違和感を覚えるのだが、その、感情のゆえんは、自分でも分からないところから立ち上がってくるのだけれども、「最近」ではない、明治期などの書評の類を読んでも、やはり「最近の文学作品は・・・・・・」といったことが書かれていたりするので、いつのときも、昔を回顧しその甘美に浸っていたいといったスタイルは普遍なものである。かくいう、私も、ついついその手の言葉を諸氏と交わしてはいるのではあるが、やはり、なお「最近の小説は・・・・・・」と憂う現状はあるのだと思う。それは、プロットやストーリーテリングが優れていたり、世相を上手く描いていたりという作品の巧拙には関係なく、例えば、何気ない風景の中で、何となく目にしたものが、意識するわけでもないのに、後日、突然思い出されたりして、なぜそんなことを思いだすのか、自分でも合点のゆく論理的な道筋は無いのだけれど、なぜだか気になるといった類の作品が、少ないのではないかという嘆息である。
 川崎長太郎の作品の多くは、以前、どこかの雑誌で目にした、彼が執筆に使ったという、漁具をしまう為の納屋のようなバラックのそばで、瓢風に吹かれた、その表貌と相俟って私の、記憶をふとしたときに揺さぶるのだ。『父の死』というわずか数ページの短編は、私小説風で、父の臨終の床に立ち会った主人公が、家長としての自分の不甲斐なさに、嘆息しつつも、父とは違った生き方を選んだ己と、父との埋めがたい距離感を描いた秀作なのだが、「所詮は身の錆世の錆、自分ではどうなろうと私なりに観念して生きていくつもりでも、肉親の側から言えば、(中略)私の存在は何時までたっても皆済出来ない借金のようなものに相違なく、これが多分最期になるだろうと、私の小説のでている新年号の雑誌を父に捧げるようにして見せたら、彼は小説の題や私の名は碌に見ず、「これでいくら貰える」原稿料を尋ね」る。文体といい、何故か私の心象の風景として強く残る一場面である。



川崎 長太郎
抹香町 路傍