私が幼少の頃だから、かれこれ30年程前になるが、父に連れられて、母の実家のそばの船溜まりに、釣りに行った。そこは河口から500メートル程入った農業用の小さな川が一級河川に流れ込む場所で、河川の急流が僅かに左に湾曲し、その右岸にあたった。そのためか小さな川から流れ込む土砂を葦の根がはみ、小さなワンドになっていて、舟を着けるのには丁度、都合が良かったのかも知れない。
夏にはハゼが、そして汽水域の為か砂州を掘るとシジミが採れた。そこで、覚えているのは、近海の漁に使うのだろう強化プラスティックの舟や、レジャー用のボートに混じって、平底の朽ちた和船が係留されていた事だ、その和船の年月を重ね、丸みを帯びた木材の感覚と、フナムシに食われたのかささくれ立った船体に蟹が這っていた事を覚えている。その朽ちた和船は、私たちが釣り糸を垂れるのに丁度良い足場だったのだ。水を吸って黒々とした喫水線以下の木材と、乾いて動物の骨のように白々とした水上の木材とのコントラストが不思議だった。
私は、今でも帰省すると必ずその場所を訪れる、ルアーを片手にシーバスを狙うのだ。不思議と良く釣れる。そして、そこにはもはや、昔のような和船は無い。コンクリートの水門が建ち、数隻のプレジャーボートがあるだけである。
そんな、失われた和船を求めた、民俗学調査の記録。著者はかの民俗学者、宮本常一の傘下で昭和50年代の漁村を和船を求めて歩く。北は下北半島、南は沖縄まで。その時代にあっても、和船は漁師舟の一線からは退いていて、浜は漁師小屋でその消え行く定めに、最後の時のおとずれを待っているかのように、静かに存在していた。著者は、その土地土地の人に話を聞き、時には漁に一緒に出かけ、さらには、水揚げされた魚の流通過程へと足を伸ばし、消えつつある和船と伝統的漁の姿を慈しむように、フィールドワークしてゆく。そして、そこから浮かび上がったのは、海洋民族として遠くは、ハワイや台湾まで足を伸ばし、近くにあっては、人住まぬ荒磯の断崖に集落を構える、逞しくも、伸びやかな私たちの祖先の海とともに生きた美しい姿だったのだ。
このような、素晴らしい所業が新刊(2006年11月刊)となって、私たちの手元に届けられる事を素直に嬉しく思う。おそらく失われてしまった、和船やそれと共に生きた人々の記憶までが、失われる事のないように、そうした祈りにも似た良書である。
私が幼少の頃、行った和船のある船溜まり。これについても、著者のまねごとではないが、少し調べてみた。そしたら、意外な事が分かったが、その事はまた後日書きたいと思う。

森本 孝
舟と港のある風景―日本の漁村・あるくみるきく
夏にはハゼが、そして汽水域の為か砂州を掘るとシジミが採れた。そこで、覚えているのは、近海の漁に使うのだろう強化プラスティックの舟や、レジャー用のボートに混じって、平底の朽ちた和船が係留されていた事だ、その和船の年月を重ね、丸みを帯びた木材の感覚と、フナムシに食われたのかささくれ立った船体に蟹が這っていた事を覚えている。その朽ちた和船は、私たちが釣り糸を垂れるのに丁度良い足場だったのだ。水を吸って黒々とした喫水線以下の木材と、乾いて動物の骨のように白々とした水上の木材とのコントラストが不思議だった。
私は、今でも帰省すると必ずその場所を訪れる、ルアーを片手にシーバスを狙うのだ。不思議と良く釣れる。そして、そこにはもはや、昔のような和船は無い。コンクリートの水門が建ち、数隻のプレジャーボートがあるだけである。
そんな、失われた和船を求めた、民俗学調査の記録。著者はかの民俗学者、宮本常一の傘下で昭和50年代の漁村を和船を求めて歩く。北は下北半島、南は沖縄まで。その時代にあっても、和船は漁師舟の一線からは退いていて、浜は漁師小屋でその消え行く定めに、最後の時のおとずれを待っているかのように、静かに存在していた。著者は、その土地土地の人に話を聞き、時には漁に一緒に出かけ、さらには、水揚げされた魚の流通過程へと足を伸ばし、消えつつある和船と伝統的漁の姿を慈しむように、フィールドワークしてゆく。そして、そこから浮かび上がったのは、海洋民族として遠くは、ハワイや台湾まで足を伸ばし、近くにあっては、人住まぬ荒磯の断崖に集落を構える、逞しくも、伸びやかな私たちの祖先の海とともに生きた美しい姿だったのだ。
このような、素晴らしい所業が新刊(2006年11月刊)となって、私たちの手元に届けられる事を素直に嬉しく思う。おそらく失われてしまった、和船やそれと共に生きた人々の記憶までが、失われる事のないように、そうした祈りにも似た良書である。
私が幼少の頃、行った和船のある船溜まり。これについても、著者のまねごとではないが、少し調べてみた。そしたら、意外な事が分かったが、その事はまた後日書きたいと思う。

森本 孝
舟と港のある風景―日本の漁村・あるくみるきく