一般的に誤解の多い事ではあるが、いわゆる学術書の類いが、硬直し、憮然とした無味乾燥したものであるとは限らない。昨今のエンターテイメント文学の多くが、紋切り型の既存のモチーフの焼き直しのように感じられると、いささかスノッブな感じはしないではないが、ふぬけた脳に喝を入れる為にも、あえて学術書を読みたくなったりするのだけれど、『UP』という東京大学出版会のPR雑誌をめくり、懐かしい名前にであった。
フェルディナン・ド・ソシュールである。このたび『一般言語学講義』の新訳・校正版が出版されるとあった。忙しく書店で手に取る機会はないのだが、いまだこの本の新刊が相次いでいる現状を素直に嬉しく思う。
思えば、学生時代に心頭し、寝ても覚めてもソシュールであった時も、確かに、あった。そして意識の彼方へ、それは日々の糊口を得る為に、ひなが、しょこしょこと奸計をを図り、小事に汲々としている自分に嫌悪しながらもその彼方へ追いやられた思想は、いまだ、意識の最深部で沸点を待つマグマのように私を内面から焦がす機会を伺っているのだ。それは、ソシュールが晩年に没頭したアナグラムのように意識の傍らから、溢れ出てくる機会を虎視眈々と狙っている鬼火のようなのかもしれない。中沢新一ならそれを「野生の思考」と呼ぶのかもしれないなと思いながら、その新刊を手に取る事がいまから楽しみである。
フェルディナン・ド・ソシュールである。このたび『一般言語学講義』の新訳・校正版が出版されるとあった。忙しく書店で手に取る機会はないのだが、いまだこの本の新刊が相次いでいる現状を素直に嬉しく思う。
思えば、学生時代に心頭し、寝ても覚めてもソシュールであった時も、確かに、あった。そして意識の彼方へ、それは日々の糊口を得る為に、ひなが、しょこしょこと奸計をを図り、小事に汲々としている自分に嫌悪しながらもその彼方へ追いやられた思想は、いまだ、意識の最深部で沸点を待つマグマのように私を内面から焦がす機会を伺っているのだ。それは、ソシュールが晩年に没頭したアナグラムのように意識の傍らから、溢れ出てくる機会を虎視眈々と狙っている鬼火のようなのかもしれない。中沢新一ならそれを「野生の思考」と呼ぶのかもしれないなと思いながら、その新刊を手に取る事がいまから楽しみである。