新刊本をめくっていて、ページをめくる手がとまる事があった。しかも、関連性のない2冊の本で。一冊は車谷長吉の『灘の男』に収録された『深川裏大工町の話』の一節で。昭和初期の下町。「人攫い」が頻発し、ある日、隅田川に人攫いにあったと思われる子供の兵児帯が流れている、警察が調べると犯人は帝大の学生であった。彼は癩病(原文ママ)で「子供の臀部の肉を焼いて食べたら、病気が治るという迷信」を信じていた。彼は病気を苦にして下宿先の想いを寄せる娘に気持ちを伝えられなかった。だから、夜な夜な、子供を攫っては、隅田川に漕ぎだしその肉を食らっていた、という箇所。
 もう一つは堀江敏幸の『バン・マリーへの手紙』のなかの『ふたりの賢者』というエッセイの中で、「アツジの貧者ことフランチェスコ・ベルナルドーネ」を善行を紹介する「お告げに従った癩者への接吻」という箇所。
 もちろん、ハンセン氏病に関する記述が共通しているのだが、そのとき私には、2冊のストーリーや雰囲気とは別にこの2つの箇所が、生々しく浮かび上がってきて、しばし、読書を続ける事ができなくなった。何かが、引っかかっていた。神谷美恵子を引くまでもなく、多くの人々の関心を集めた、日本の隔離政策の非道・・・
 が、もっと生々しく、深い絶望は息苦しく私を捉えた。そして、それの慟哭の元は数日前のTVの報道であった。
 それは、全国の療養所で問題となっている、強制的に堕胎させられた胎児の標本(!)の身元が判明し、母親が対面を求めているといった趣旨の報道だったと思う(と、言うのも私は、見続ける事ができなかった。苦しくて、見なければと思うが、リモコンのスイッチを切ってしまったので、記憶はそこまでである)。もちろん、母親は隔離政策で差別に晒された患者の一人である。
 薄暗い療養所の片隅で瓶に詰められて、生きる事を拒まれて、そしてなおかつ死を拒絶された胎児。そして、母親。この悲劇は想像を絶している。もはや私には語る言葉を持たない。だが、黙して語らないのはこの悲劇を放置する事に繋がる。しかしながら、その絶望のスケールにあてられ私は、未だ考えがまとまらないのだ。願わくば、胎児に安らかな眠りを。そして、母親に許しを請いたい。

 記号論の開祖と呼ばれるソシュールの『一般言語学講義』はその成り立ちからして不可解な所の多い本だ。ソシュール自身は言語学について語る事の困難さを訴え、自ら文献としてまとめる事をしなかった、そのため邦訳されている岩波版や而立書房版はジュネーブ大学での講義を聴講した学生のノートを講義の順番に従って再構成したものである。特に前者にあってはバイイとセシュエによる編集の際に、講義そのものにはない箇所も補足されていたりしてその実像がつかみがたい印象があった。ソシュール自身による手記による補足を加えたものも出版されているが、一人の聴講生のノートをそのまま訳出したものの邦訳は初めてではないのだろうか?その学生はエミール・コンスタンである。彼のノートをなるべく忠実に訳出した本書はソシュール自身の逡巡や迷いも見受けられより、「肉声」が感じられるのだ。講義の雰囲気を伝えながら、近寄りがたいソシュール言語学の立ち上がる瞬間をかなりリアルに伝えている。巨大な思想を身近に感じさせるライブ感溢れる一冊である。



フェルディナン・ド・ソシュール, 影浦 峡, 田中 久美子
ソシュール一般言語学講義―コンスタンタンのノート
 前回に引き続き、新潮クレスト・ブックスからの一冊。英国人作家デイヴィッド・ミッチェルが描く、トウキョウの姿。屋久島を出て、不明の父を捜す為にトウキョウを訪れた、「詠爾」の見た物は、暴力と情報が高速度で明滅する欲望の都市であった。屋久島の予定調和世界と対比させるように描かれるそれはやがて、臨界点を越え、黙示的な驚愕の最後へと繋がってゆく。英国人が書いたというこの小説、その優れた描写と意相まって、そりゃ高橋源一郎も悔しがる気が分かるってもんだ。



デイヴィッド・ミッチェル, 高吉 一郎
ナンバー9ドリーム
 書をおきて、野にいでると、そこは静謐。初夏の涼風に吹かれ、葉裏のざわめきを追って森に眼を凝らせば静かな鎮守の杜に小さな社が見え隠れするのを見る。梢の流れで風の通り道を知る。里には田植えを終えた田に滋養に満ちた暖かい水が張られ、そこには流れる雲が映っている。カヤックで漕ぎだせば、遠くアユ釣りの釣り師のテグスがクモの糸のようにたゆたっている。そのたゆたいを破るかのような一瞬の緊張の先に銀の魚が舞うのも見える。滝を遡行すれば、石ばしる垂水のうえのわらさびではないけれど、人知れず萌える苔のその微かな繊毛の上に落ちる一滴の水滴に永遠を見た気がする。その水一滴にすべてが宿っている気がして、クライミングの不安定な体勢ながらしばし「垂水のうえ」を眺める。ゴルジュの淵に流れよった落ち葉の暗い影に「筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」を思う。淵に恋を思う、その心の流れを思う。
 てな、感じでアウトドアシーズン真っ盛りで、本を読む事がままならないのだが、カヤックでたゆたってもシャワークライミングで飛沫浴びても、何となく考えていることは、やっぱり本のこと。そんな最近ですが、いつも贔屓にしている新潮クレスト・ブックスの一冊が良かったです。アリス・マンローの『林檎の木の下で』。19世紀初頭のスコットランドから現在のカナダまで、マンロー自身の家族の物語が、静かに、淡々と語られている美しく上質な物語です。特にこれと行った事件やエピソードがある訳ではないのですが、マンローの透徹したまなざしは、何でもない過去の遺物から、マンローの祖先の姿を生き生きとよみがえらせ、それが今や未来を静かに照射してゆくその文体は、苔むす杜の匂いのように人々を記憶の古層に誘います。ノーベル賞作家、ゴールズワージーにオマージュを捧ぐかのような表題(文中に『林檎の樹』の引用も)。繊細さの極みを感じさせる良書です。





アリス・マンロー, 小竹 由美子

ゴールズワージー, 渡辺 万里
林檎の樹
 親鳥が巣を見捨てた。巣の移動を試みた折から、予想されていた事ではあるが、そういった事をさける為にも、手に匂いのつかないように注意をしたが、生気を失った、具体的には微かに変色を認めるそれは、もはや、生を放棄した事は疑う事もない。それは、予想(期待?)されていた事だ、隣家の攻撃がなくとも、もし、無事に孵ることがあろうとも、その人工的な、あまりに人的気配の濃厚なそこの、ストレスにそういった事に過敏になっている親鳥の放棄は、遅かれ早かれ訪れるものという事は、容易に予想がついた。そこに僕の、無事に育つまいという願望にも似た諦めがが、作用した事は否定しないが、現実は、おそらく訪れる悲劇はそれが、愛らしい雛となる前に、正直、ほっとしている。悲しくないかというと、悲しい。
 こうして、数日のドラマはあっけな終章を閉じたのだ。その幕を引いたのは自分であるという苦い印象を残して。
 早速、隣家の攻撃が始まった。早朝、ベランダの音で目覚めると、レンガの防壁はあっけなく突破され、巣は斜めに傾いでいた。幸い、卵は無事なようだ。しばし、逡巡し、空のハンギングバスケットに巣ごと卵を移す。そして、隣家の魔の手を逃れるべく、ベランダの反対側にそれを置いた。親は警戒してか卵を抱かない。巣の中のそれは、まるで力ない老人の眼のようだ。その力ない眼が二つ僕をじっと睨みつける。親鳥は来ない。眼は二つ闇に白々とこちらをねめつける。じっと、静かに。
 ベランダに鳩が卵を産んだ。締め切りのある仕事に追われしょこしょことパソコンの画面に齧りつき、選挙戦も終盤に差し掛かった、ウグイス嬢の絶叫にも似た、まるで猫を踏みつけたような、声にイライラさせられながら、一服つくつもりで、ベランダに出ると、エアコンの室外機の隅に小さな卵が2つコロリと転がっていた。
 2年程前から、つがいの鳩がベランダの睡蓮鉢から水を飲んでいるのは知っていた。というか、あのクルクルと鳴く声が日の出とともに聞こえると、迷惑な気がした。白い大振りな一羽と、溝のように汚れちまった灰色の小柄なつがい。
 しばらくすると、大振りの白がやってきて卵を抱いた。私が近づいて眺めるとオレンジ色の眼を大きく見開くも、身じろぎ一つしない。
 困った事になった、隣に住む「独居老人」は大の鳥嫌いだ。つがいが自分の地所に入るのを嫌い、ベランダに不可思議な造作をしている。それどころか、私の不在の時には、棒のようなものでこちらのベランダを突っついている節がある。4階のベランダの鉢植えが風もないのにことごとく倒れていた事があることからして、それは、間違いないだろう。
 もし、ヒナが孵り、ぴよぴよと鳴き出したら、無事ではすまないのではないか?この事については、確信がある。というのも共有スペースにある電気メーター内に巣を作った、雀のヒナを引っ張り出しているのを観た事があるからだ。
 さて、どうしたものか?鳩のつぶらな瞳を見ていると、ああ、こんな所に巣を作らなくてもと、少し恨めしく思う。困ったものである。とりあえず、親鳥の居ない時に、隣室との境の隙間にレンガを置いてみた。
 鳩よ、決して君たちが朝はやくから、鳴いていた事や、大切なハーブをつまみ食いした事を許した訳ではないぜ。でも、やれるだけやってみようぜ。
 こうして、私は意せずして隣人に宣戦布告してしまったのだった。どうなることやら、トホホ。
 あの『長いお別れ』が村上春樹の新訳で帰ってきた。チャンドラーの『ロング・グッドバイ』である。久しぶりに時を忘れて読んだ。旧訳の慣れ親しんだハヤカワ文庫版を書庫から引っ張りだしてきた。高校生の頃の斜に構えた自分がそこに居てたまらなく懐かしくなった。あれからもう随分時が経って、ギムレットの味も覚えた。サンセット・ブルーヴァードにも行ってみた。が、いまだ、マーロウの美意識は持ち得ない。やはり、マーロウは美しかった。そして、いつまでも憧れの存在だ。



レイモンド・チャンドラー, 村上 春樹
ロング・グッドバイ



レイモンド・チャンドラー, 清水 俊二
長いお別れ
 電力会社各社の事故に対する愚鈍さが、呆れかえるように次から次に露見しているにもかかわらず、その事に、あまりに無自覚な私たちがいて、その事に呼応するかのように各社の株価は、高値をキープし続ける。
 本書は1999年に茨城県東海村のJOC臨海事故の被爆者の壮絶な闘病記録である。プルトニウムという眼に見えないものの壊滅的な肉体への破壊力とそれに、抗する事のできない人間の無力さが冷酷なまでに書かれている。原子力発電の反応炉が僅かに金属による遮蔽と制御棒による反応活性の制御に頼っているだけで炉心では臨界が発生して小さな太陽が生まれていることに私たちはもっと自覚的になるべきだ。
 地球温暖化の昨今、原子力発電の是非については、あながち否定のスタンスをとるだけではすまないのではあるが、かつて神も制する事のなかった、恐るべき雷の炎を手にしている事を忘れるべきではない。
 事故後、JOC近辺を歩いた事がある。そこは穏やかな里山に近接する美しい場所であった。発電所の向こうでは白い波頭に戯れるサーファーの姿が印象的であった。


NHK「東海村臨界事故」取材班
朽ちていった命―被曝治療83日間の記録